千早(13)・羽衣
──ぎ、という艪を漕ぐ音と、波音だけが響いている。
舟を進ませながら、千早は無言で視線だけを動かし、座っているひなのほうを窺った。
ひなはこちらを見ていない。舟に揺られ、手にはやっぱり土産の包みを後生大事に抱えながら、ずっと横を向いている。心ここにあらずといった、虚ろな表情をしていた。
またあの目をしてるな、と千早は思う。
遥か遠くを見ているような、何も見てはいないような、迷い子のような目。でも今のひなには、以前に思った時よりも、さらに儚く、頼りなく、触れれば消えてしまいそうな危うさがあった。
気づかれないように、小さく溜め息を落とした。
ひなは誤魔化すのがあまり上手ではない。問い詰めるまでもなく、さっきの侍が、ひなにとってただの無関係な第三者であるはずがない、ということくらいは千早にだって判っていた。きっと、なんらかの関わりのある人物なのだろう。
……でも、それをどうやって聞き出せばいいのか判らない。
(いや、違う)
内心で訂正した。聞き出す方法はなくたって、調べる方法はいくらでもあるのだから。市の中でもあの侍の顔を見た人間はたくさんいるのだし、七夜に頼めばある程度のことは判るだろう。
何処の誰か知ることが出来れば、芋蔓式に、ひなの身元についての手掛かりだって掴めるかもしれない。
(どう聞き出せばいいのか判らない、んじゃない)
それは言い訳だ。
千早は単に、聞きたくないのだ。聞きたくないから、こうして見ないフリ、気づかないフリでやり過ごそうとしているのだ。
ここで一歩を踏み出せば、確実にひなの過去に近づけると判っていて。
いや、判っているからこそ。
(……なんで)
ぐっと艪を握っている手に力を入れた。
なんで、こんなにも、胸が苦しいんだろう。
***
ひなが何処かの侍に連れて行かれたと聞いて、心底、肝が冷えた。
見境なしに巷の女に手を出す不届きな武士もいないではないが、その時千早の頭を掠めたのはそれではなかった。
……ひなの身内か、と思ったのだ。
ひょっとしたら武家の娘かもしれない、とは前々から考えていたことでもある。七夜の「本島の人間じゃないかもしれない」という言葉は、あくまで推測の域を出ないものだ。ずっと行方不明になっていた身内を見つけて、驚いてすぐさま連れて帰ろうとするのは当然の成り行きでもあるだろう。
そういう偶然が、よりにもよって、自分の目が離れた時に起きたのかと。
そこまで思ったら、足が勝手に動き出していた。頭がじんじんと痺れて、何かを考える余裕もなかった。ただ無我夢中で走り回って、ひなの姿を探し続けた。
帰るのか、と思った。このまま、顔も見ず、言葉も交わさず、いきなり自分の前から消えてしまうのか、と。
そう思ったら、胸元まで強烈な何かが突き上げてきて、足は早まる一方だった。
──そして、やっと見つけた細い背中。
その時、ひなの後ろ姿は、彼女の前にある侍に向かって足を踏み出しかけていた。それを見た瞬間、千早は逆上したのだ。そうだ、あれは「逆上」以外のなにものでもない。五平の時は怒りしか感じなかったが、それとは明らかに違う。
「ひなっ!」
大声で名を呼んだのは、完全に、引き止めるためだった。
行くな。
「そっち」に行ってしまったら、もう一緒にはいられねえんだぞ、と心の中で叫んでいた。
世界が違うというのはそういうことだ。この世には確実に「身分」というものが歴然と存在していて、人々の間に横たわり、のさばっている。一旦こちらとあちらに別れてしまったら、それを踏み越えるのは容易なことじゃない。
顔を合わせることも出来ない、どころか、姿を見ることすら出来なくなる。たとえひな自身にそのつもりはなくても、周囲は間違いなく「彼女」と「こちら」とを隔てさせるだろう。それこそ、一分の隙もなく。そうなってしまったら、もうお終いだ。そうだ、終わりだ。もう二度と。
……二度と、会えないのに。
無理矢理のようにひなと侍との間に割り込んで動きを止めたのは、あの侍から庇うためじゃなかった。千早は、どこまでも千早個人の身勝手さで、ひなを渡すまいとしただけだった。下手をすれば問答無用で斬られていても仕方がないような無謀な行為だったのに、そんなことさえ頭になかった。
行くな、行くなと、それだけを思っていた。
***
真実は、結局のところ判らないままだ。
おそらく、あの侍は、ひなのことを知っている人間なのだろうとは思う。あちらが隠してもひなが否定しても、千早の直感が、そう言っている。ひなとの間に、何かのやり取りもあっただろう。あの人物が、ひなにどれくらい近しい関係なのか、それとも敵対しているのか、そんなことは判らないが。
けれど、どちらにしたって。
(……あの男は、ひなを捨てた)
身内であるにしろ、赤の他人でしかないにしろ、どちらにしても、あの侍はひなを切り捨てた。二度と島から出すな、と強い調子で言っていたのは、今後一切、自分はひなと関わりを持たないと宣言したも同然だ。
(だったら、いいじゃねえか)
と思う気持ちも、千早の中にはある。
もう、過去なんて知らなくたってさ。生家が判ればそこに返してついでに礼金でも貰おうか、と考えていたことは否定しないが、そんなことももうどうだっていい。このまま、ただの「ひな」のまま、羽衣島で暮らせばいい──と。
でも、やっぱり。
それは子供の言い分だ、と自分を窘めている冷静な部分も、間違いなく千早の中には存在しているのだ。
向こうが知らん顔してるならそれでいいだろ、なんてことで済ませられるほど、これは単純な問題じゃない。それを弁えている自分も、ちゃんといる。
あの武士は多分、かなり上のほうにいる人物だ。ひながそこに関わるのなら、放置しておけるものではない。ましてや現在の自分は、島の頭という立場にいるのだし。
千早の後ろには島民すべての生活と今後が控えている。迂闊な真似をして、揉め事の種となるようなことを、再び自ら引き寄せるようなことは出来ない。そうだ、出来ないんだ。自分の判断で人の人生が左右されてしまう状況で、それはもう許されないということを、今の千早は嫌というほど知っている。
過ちは、一回で充分だ。
(じゃ、どうすりゃいいんだよ)
自問したところで、簡単に答えの出る問題でもない。とりあえず、七夜にあの武士の身元について調べさせることになるか。でも──
でも、それが判ったら、次は?
それが不透明すぎるから、千早だって困惑するしかないのである。
あの侍が、ひなのことを「他人」として切り捨てたのなら、そこには必ず何かしらの入り組んだ事情があるはず。武家の権力争いや陰謀などが絡んでいたら、その内容によっては、下手な動きをすると羽衣島自体が潰されてしまう。それほどまでに、あの侍のいるような場所と、小さな島との力関係は、明確に片側に偏っている。
少し前の千早なら、事情は判らなくとも、すぐにでもひなを島から出て行かせるところだ。危険な綱渡りをする前に、ひなを放り出して、あとは知らぬ存ぜぬで無関係を通しただろう。いや本当を言えば、今だって、それが賢明な判断であろうことは判っている。
いるのだが。
(……けど、今更だよな)
そう思うから、千早は、諦めたように溜め息をつく。
賢明な判断云々というのなら、千早はあそこでひなのところに走っていくべきではなかったのだ。それでもどうしても引き止めずにはいられなかったのだから、しょうがない。
ひなの記憶が戻れば、もっとはっきりとした答えが出るのだろうか。どう動けばいいのか、見通しも立つだろうか。せめて、ひなを羽衣島の島民にしても問題ないと、千早自身が判断を下せる根拠がそこにあれば。
でも、今回のことで、ひなは「少々裕福な家の娘」どころではない可能性が出てきた。仮に、もっと上の身分の娘だとして、それを思い出したひなはどうするだろう。いや、ひな自身はともかく、自分も、周りも、彼女に対して態度が変わらずにいられるなんてこと、あるだろうか。
(ああそうか、羽衣だ)
ここで、千早は唐突に思いついた。
──この場合、ひなの記憶、あるいは過去が「羽衣」なんだ。
羽衣を取り戻せば、きっと、ひなは島から去ることになる。天女が地上に在り続けることが出来ないように、ひなは多分、千早たちのいる場所にはい続けられない。過去の記憶が戻った瞬間、それと引き換えに、羽衣島で過ごした時間の記憶をすべて失うことだってないとは言い切れない。
そして帰るわけだ。羽衣を纏って、自分たちからは遠く離れたところ、千早たちにとっては「天界」も同様の隔たった場所へと。
帰ってしまったら、もう、会えない。
今後のことを考えるのなら、ひなにすべてを思い出してもらったほうがいい。でも、ひながすべてを思い出したら、自分たちとの関係はそこで断たれるかもしれない。……堂々巡りだ。
いや違う。
千早が、勝手に堂々巡りにしているのである。
大事なところから目を逸らしているから、こんな風に奇妙にこんがらがってしまうのだ。
(いい加減、真正面から見据えたらどうなのさ、か……)
七夜のやつ、そう言ってたっけ。
その言葉が、今になって胸に沁みた。
──けどよ、七夜。
「それ」を見据えたところで、一体どうなるっていうんだ?
今でさえ、矛盾した二つの心を持て余して、どうすりゃいいのか途方に暮れてるっていうのに。
その気持ちをきちんと自覚してしまったら、次に来るのは「手放したくない」ってものになるのが自分でも判っていて、そうそう簡単に進めるわけがないじゃねえか。
進めない。俺はそこですべてを省みずに進めるほど、自分に寛大な人間ではいられない。そうでなきゃ、いけないんだ。
でも、戻ることも出来ない。もう、最初の時まで自分の気持ちを戻すことなんて出来ない。そういうところまで、来てしまった。
じゃあ、曖昧なこの場所で、立ち止まっているしかないだろう?
***
「……ひな、羽衣島が見えてきたぜ」
本島を出てからはじめて声をかけると、ひなが物思いから覚めたように顔をこちらに向け、それから千早が指差す方向を向いた。
羽衣島の陸地が見える。この先の激しい潮流を越えれば、帰る場所はもうすぐだ。
ひなの顔に、ようやく安堵の表情が浮かんだ。はぐれた子供が、探していた母親を見つけたような顔をしている。島を映すその瞳に温かな光が戻り、ゆるりと柔らかく口許が綻んだ。
それを見て、千早もほっとした。今は、羽衣島に向けるひなの信頼が、素直に嬉しい。
目を細めながらその顔を眺め、何気なく懐に手を当てたら、そこに固い感触があることに気づいた。
そういえば、と思い出す。
(結局、櫛は渡せないままだったな)
本当は、舟の上で渡そうと思っていたのだけれど。
まあ、いいか、と思って、懐からそれを出すのはやめにした。
いつかまた、機会があるだろう。
静かに目を伏せて、心の中で繰り返す。
(いつか……)
──いつか。
千早は進むことになるだろう。
きっと、止まったままではいられない。
自分の意思で、進むことを選ぶ日が、来るのだろう。
どちらかの方向へ。
羽衣を、掴むのか、離すのか。




