千早(12)・本島にて 2
ひなの顔に柔和な微笑みが戻ってきたのを見て、千早は胸の内でこっそりと安堵した。
舟を下りてからもしばらくぴりぴりと緊張した様子だったのは、羽衣島以外の場所に来て戸惑っていた以上に、さっきの海上での一件が尾を引いていたからなのだろう。ひなにしてみれば、かなり怖ろしい出来事であったに違いない。
まさかあんなところで不知火の舟と出食わすとは、正直思ってもいなかった。軽率だった、と言われれば一言もない。自分だけの時ならともかく、ひなが一緒にいるのなら、千早はもっと慎重にしなければいけなかったのだ。
──奴らに、ひなを見られていなければいいのだが。
目下の千早の最大の懸念といえば、それである。少し離れていたとはいえ、きっと女が乗っていたことくらいは、あちらにも判ってしまっただろう。咄嗟に伏せさせたから、顔までは見えなかっただろうが──
なにしろ相手は不知火だ。ひなのように容姿の際立った女を見てしまったら、そのまま放置するとは思えない。千早と一緒にいるとなったら尚更、奴らは大喜びで手を伸ばしてくるだろう。
自分一人のことならどうとでも切り抜けられるだろうとは思うのだが、ひなまでこの問題に巻き込ませるのはなんとしても避けたかった。
(そうすると、あんまりゆっくりしてるわけにもいかねえな)
市を見て廻ったら、その後でついでに本島の街中までひなを連れて行ってやろうと思っていたのだが、こうなったらそれは自重しておいたほうがよさそうだ。千早が羽衣島から出たことは知られてしまったようだし、ここに長くいればいるほど、不知火の連中に居場所を嗅ぎつけられる危険が増える。
ちらりと隣に目をやると、膝を曲げて腰を低くしたひなは、じいっと並べられた品物を吟味している様子だった。買うものが決まったら、そろそろ帰るかと声をかけてみようか。
それにしても、真面目な顔つきだなと感心してしまう。さっきからひなが気にしているのは子供向けのものばかりだから、おそらく二太と三太へ買っていくものでも選んでいるのだろう。こんな時くらい、自分のものを買えばいいのに。
しかしその横顔があまりに真剣なのが可笑しくて、千早も口を挟むのは控えることにした。
気づかれないようにさりげなく、ひなの顔を眺める。
人にやるものを買うだけ、しかも相手は子供なのに、ひなの瞳はまるで生きるか死ぬかの勝負をしているかのように切実だった。
一途で、懸命で、ひたむきな熱意がある。きっとひなは、何事においてもそういう性格なんだな、と納得した。
細い顎から首筋に伸びる線が、頼りなさげにも見えるし、頑固にも見える。じっと下に向けられる眼差しはまるで一人前の鑑定人のように難しげだが、同時に優しく、穏やかでもあった。ふっくらとした頬は、いつもよりも少しだけ血色がいい。やっぱり青白い顔色より、こうして薄紅に染まっている方が、ひなにはよく似合う。
ざわめく周囲の中で、千早とひなの間にはずっと沈黙が続いていたけれど、それでさえちっとも気にならなかった。
誰かと一緒にいて、黙っているだけでも、空気が心地よく澄んで、ひどく安らいだような気分になるのは、千早にとってもはじめての経験だ。
(……でもまあ、もうちょっと、こうして時間を潰すのも悪くねえか)
と千早は心の中で呟いた。
***
結局、ひなは土産として、小さな丸餅を買うことにしたらしい。
それ自体はそんなに値の張るものではないが、どうやら二太と三太だけでなく、その家族と、下手をすると十野にまで渡す分を数に入れているのか、やけにたくさん買うものだから、もとから多くないひなの手持ちの金はそれですっからかんになってしまった。
ようやく目的を達せられてほっとしたのか、それとも自分の金で買い物をしたのが嬉しかったのか、ひなはにこにこして満足そうだ。両手に大事そうに持った包みを見ては、ふんわりと口許を綻ばせている。
ただ、千早は今ひとつ釈然としない。
いや、土産の中身はともかくとして、これでもう、ひなは本当に自分のものを何も買えなくなってしまったわけだ。千早が金を出してやってはきっと意味がないのだろう、と思ったので口出しはしなかったのだが、せっかく市に来たのに……という気持ちもやっぱり強くある。
欲がない、と言ってしまえばそれまでなのだが、ちょっと拍子抜けしてしまったのも事実だ。ひな自身は何を欲しがるのか知りたかったし、それを手に入れて目を輝かせるようなところも見てみたかった。
また不知火の連中に見つかるかもしれないことを考えると、これ以降、そうそうひなを羽衣島から連れ出すことも出来そうもない。こうして一緒に市を廻る機会なんて、もうないかもしれないと思えば、尚更惜しい気がした。
──そもそも、ひなは「自分のもの」を何も持っていないような状態なのだし。
ここで、「俺が何か買ってやろうか」と提案することは、もちろん簡単なのだ。しかし、それに対するひなの反応が、推測するまでもなく判るから困ってしまう。絶対遠慮して、とんでもないとばかりに首を振るに決まっているからだ。
ちょっと考え、決断した。
「ひな、俺も買いたいもんがあるんだよ。すぐ行って来るから、悪いけど、ここで待っててくれねえかな」
人混みから抜けたところで、松の木の下に手頃な岩があるのを見つけ、そこに座らせながらそう言うと、ひなは素直にこっくりと頷いた。
すぐ戻ってくる、と言い置いて、千早は踵を返した。
この場所なら、市からそう離れているわけでもないし、人通りもあるから、一人にさせても危険はないだろう──というその時の自分の判断を、あとで悔やむことなんて知る由もなく。
***
ひなと廻っている時からある程度目星はつけておいたので、そこに向かう千早の足取りが迷うことはなかった。
大体、こういう庶民相手に売る「櫛」なんていうのは、どこもそう変わりばえするもんじゃない。ものの良し悪しは多少はあれど、見た目としてはどれも、実用重視の素っ気ない形状だ。
だが、そこで売られている櫛は、珍しく装飾が施してあって、千早の目に留まったのだ。無論、そんなに凝ったものではなくて、平面の部分に小さな花が描かれている、という程度のものなのだが。
それでも、他の無愛想な櫛に比べれば、そういう彩りがあるのは見るだけでも楽しい。きっとこれを作ったのが、洒落っ気のある人間だったのだろう。
その分多少高くはあったが、千早は言い値で買おうと決めていた。さすがに、人にやるものまで値切りたいとは思わない。
「これ、貰おうか」
品物の前に足を曲げてしゃがみ、声をかけると、売主の男は嬉しそうに返事をした。
「あいよ。この櫛、けっこう評判いいんだぜ。兄さんみたいな色男に贈られたら、女も泣いて喜ぶってもんさね」
「余計なことは言わなくていいんだよ。……どれにするかな」
絵柄はどれも大差ないが、櫛によって、花の色が違う。鮮やかな緋色から薄紅、菜の花色なんてものまである。ある意味、手が込んでいる。これを作った人間は、洒落っ気があるばかりでなく、暇を持て余してもいたらしい。
最初、千早の手が伸びたのが緋色の花だったのは、やっぱり、未だにあの幻の瞳が頭に残っていたからだ。
──しかし、それに触れる前に手はピタリと動きを止めて、少し躊躇した後で取ったのは、白練色の花模様だった。
金を払って立ち上がり、さてどうやってこれをひなに渡すかな、と今になって考える。
親父を見てもらってる礼だってことにすればいいよな。それは前々から考えてたことなんだから、嘘じゃないしな。そんなに高価なものでもないし。舟の上ででも、思い出したように渡せばいいか。お前には最近面倒をかけてるみたいだから、とか言って。うん、自然だ。
そういう、他人からしたら非常に馬鹿馬鹿しいことで延々と思考を巡らせていたので、
「そうだね、あの娘には、緋色よりそっちのほうが似合いそうだよね」
と突然かけられた声に驚いて、手に持った櫛を取り落とすところだった。
「危ないよ、頭。せっかくの贈り物を砂で汚しちまうつもりかい」
からかうような言い方だが、口調には毒がない。その邪気のない綺麗な笑顔を見て、千早は深い息を吐いた。なんでこの男は、いつもいつも、こんな風に神出鬼没を身上としているのだろう。
「七夜。なんだよお前、いつからいたんだよ」
「さっき」
「お前の『さっき』は全っ然信用出来ねえ」
忌々しげに言い返すと、七夜は楽しそうに笑った。周囲の若い娘たちが、その顔を見てきゃっきゃっと大喜びだ。こんな目立つ男が情報屋でいいんだろうか、と今更だが根本的な疑問が湧いてきてしまう。
「こんなところで何してるんだ? 女連れ……じゃ、ねえみたいだけど」
「よしてよ、頭じゃあるまいしさ。俺は勤勉に仕事してるんだよ」
「仕事?」
少し真顔になって問い返すと、七夜はなんだか面白くなさそうに口を曲げた。
「ちょっと気になるやつがいて、こっそりあとを尾けてきたんだけど、このあたりまで来たところで見失っちまったんだよね。もともと俺は言葉を使った情報収集を得意にしてるから、こういうのは上手いほうじゃないんだけどさ。それでどうしようかなって思ってたら、たまたま頭を見つけたんだ」
どこまでが「たまたま」なのか怪しいものだが、そこまで説明すると、七夜は軽く肩を竦めた。
「まあ、俺は女と遊ぶんだったら、もっと暗くなってきてからのほうがいいけどね。頭みたいに日の明るいうちから仲良く市を廻って逢引なんて健全なこと、俺の性には合わないよ」
「逢引きじゃねえっての、どいつもこいつも」
憤然として言う千早に、七夜は呆れたような顔つきをした。
「今のあんたを見たら、十人が十人、逢引きだって言うと思うけど。じゃあ頭としては、どういう心積もりであの娘をこんなところまで連れてきたのさ」
「……いや、だからよ」
正面切って問われては、千早もちょっと口ごもってしまう。
「最近、親父が世話になってるから、その礼っていうか。それにほら、ひなは口がきけないだろ。それでいろいろと意思の疎通が上手くいかねえことがあるからさ、ちょっと息抜きがてら島から連れ出してやったら、力も抜けてお互いに通じるところもあるかなと」
「…………。で、それは首尾よくいったわけ?」
「どうだろうな……多少は、何を言いたいのか判るようになった気もするけど」
「けど?」
「けど、思ってることの全部は判らねえな、やっぱり」
「……頭……」
溜め息混じりに七夜は言って、しみじみと哀れむように千早を見た。この目この顔、近頃の千船から向けられるそれと、そっくりだ。
「思ってることの全部が判らないって、そりゃ当たり前でしょ、別々の人間なんだからさ。俺から見ると、頭とあの娘は、充分に『会話』が成立してたよ、ずっと」
「ずっとって、お前いつから見てたんだよ。やっぱりちっとも『さっき』なんかじゃねえってことじゃねえか」
千早の文句は聞き流して、七夜は言葉を続けた。呆れるようなその顔には、少し苦笑も滲んでいた。悔しいが、こういう表情をすると、七夜はやっぱり千早よりも年上なのだということを実感させられる。
「──でも、頭はそれじゃ満足できないって言うんだろ。要するにそれはね、あの娘が、どんなことで喜ぶのか、どんなことで怒るのか、どんなことで悲しむのか、それを知りたい、ってことなんじゃないのかい。反応を、感情を、理由を、ひとつひとつ貪欲にさ。それも他の人間に向けられるものじゃなくて、頭に向けられるもの限定で」
千早は言われたことの意味が判らなくて、黙り込んだ。
……俺が、なんだって? と、七夜の言葉を、もう一度自分の胸の中でなぞるように繰り返す。
ひなが、どんなことで喜ぶのか、どんなことで怒るのか、どんなことで悲しむのか。
他の人間ではなく、千早に、千早だけに向けられるその反応を……その感情のすべてを、その理由を。
──知りたいと。
「そういうの、名前をつけるとなんていうかくらい、判ってるんだろ、頭にも。いい加減、真正面から見据えたらどうなのさ」
「……なに言ってるのか判らない」
固い声で返すと、七夜はまた肩を竦めた。「あっそ、じゃあしょうがないね」と無責任なことを言い放ち、ぽんと千早の背中を叩く。
それから目を細め、にこりと笑った。七夜はいつも笑顔で自分の内心を隠すが、今回のそれは珍しく本物の笑みのようだった。
「ま、とにかくたまには頭も自分に正直になって行動してみたらどうだい。あんたも俺と同じで、無性にひねくれたところがあるけどさ、俺とは違って、人間として真っ当なところもたくさん持ってる。俺はね、あんたのそういうとこ、嫌いじゃないんだよね」
今度こそホントに消えてやるからさ、と七夜は笑って、するりとその場を立ち去った。周りの女たちから、失望の溜め息が漏れる。
「…………」
しばらく無言で立ち尽くしてから、千早もまた、七夜が去っていったのとは反対方向に足を動かした。
ひなのところに、戻らないと。
──だが、戻ってきたその場所に、彼女の姿はなかった。
***
岩の上には、ぽつんと土産の包みが残されているだけだった。
「──……」
それを見て、ひやりとしたものが心臓を撫でる。
少しの間、ここを離れる必要があったのだとして、ひなはなんらかの手段でそれを千早に伝えようとはするだろう。しかし、よりにもよって、これを残していったりはしない。だってあんなにも嬉しそうに愛しそうに、大事に腕の中に抱えていたんだから。そうだ、方法なら他にいくらだってあるはず。
ひなが、自分の意思でここからいなくなったのなら。
「ああ、ちょっと! あんた、あの子の連れだよね!」
その時、大きな声を上げてあたふたと駆け寄ってきたのは、近くで品物を広げていた男だった。ひなを座らせる前、一緒にそこを覗いたから、千早の顔も見覚えていたらしい。
「大変だよ、あの子さ、連れて行かれちまったよ!」
自分の顔からすっと血の気が引くのが判った。まず最初に頭を過ぎったのは、やっぱり不知火の奴らに顔を見られていたのか、ということだった。
「そいつら、どっちに行った」
鋭い声で問うと、男はもどかしそうに首を振った。地団駄を踏んでいる。違う違う、というように。
「そいつらって、相手は一人だよ!」
一人、と千早が問い返す間もなく、男はまたすぐに口を開いた。ここにきて、ようやく気づいた。男は怖がっているのではない、興奮しているのでもない、ただひたすら、混乱しているのだ。
「侍だよ!」
と怒鳴った。それはまるで、非難しているような言い方だった。
この平和な場所に、お前は一体どんな災禍を持ち込んだのか、とでも言いたげな。
「しかも、足軽なんかじゃない、身なりもちゃんとした、どう見ても相応の身分のあるお偉いさんだよ! こんな場所にそんな人間が来るなんて、そこからして異常だってのに、その侍が、あの娘を見るなり、真っ青になったのさ! それで、無理矢理手を引いてどっかに連れて行っちまったんだ!」
あの娘、一体何者なんだい?! と、男は叫ぶように言った。




