ひな(11)・本島にて 1
「そんな顔するなって。大丈夫、捕まるようなヘマはしねえよ」
と、千早は快活に言った。
その顔つきは堂々とした自信に満ちていて、声には怖れの色なんて欠片もない──ように、思える。少なくとも、ひなには、そう見えたし、聞こえた。……けれど。
けれど、それが本当に、捕まりっこない、と信じているからなのか、それとも顔を曇らせているひなを安心させようとしているだけなのかは、まるで読み取れなかった。
何を考えているのかさっぱり判らない、とひなが思うのは、千早が時々、心の奥底にあるものを、こうして完全に隠してしまうことが出来るから、というのも大きいのかもしれない。
思うに、千早は最初から、そういうところがあった。
表面に出てくる言葉や表情に、多分、嘘はない。
でも、彼のもっと裡のところでは、非常に厳重にしまい込まれている何かがある、という気がするのだ。
そして千早はその芯の部分を固く閉ざして、決して誰にも見せようとはしない。
(一年前……)
それは、千船が腹部に負った刀傷が元で不自由な身体となり、千早が頭代理になった時期とちょうど重なる。きっと、そのことと無関係ではないのだろう。
その時に何かがあって、千早は不知火の頭の左腕を斬り落とし、そこの男たちの恨みを買うことになってしまった──と。
さきほどの荒々しい怒声が生々しく思い出されて、背筋が冷たくなる。あの声には、聞き間違えようもないほどはっきりとした憎悪と怨讐が込められていた。一年も経つというのに、しかも相手は腕を斬られた当人ではないというのに、あんな声で千早の名を呼ぶくらいに、彼に向けられる不知火島全体の遺恨は、根強いということなのでは?
今回は上手に逃げられたようだけれど、もし彼らに捕まってしまったら、その時千早は一体どんな目に遭わされるのだろう。
そう思ったらぞっとして、身体が震えた。
そんなひなを見て、千早が困ったように苦笑する。
「どんだけ向こうが腹を立てても、奴ら、うちの島にまでは来られないから、心配すんな。ほら、前にも言ったろ。羽衣島の周囲は潮流が激しい上に気まぐれだから、潮の流れを読めない余所者は、船で入ってこられねえって。あの島を出入りできるのは、島の住人だけなんだ」
確かに、羽衣島からこの舟を出す時、海の流れはとても激しく荒かった。千早はなんてことのない顔をしていたけれど、艪を漕ぐ手つきは場所により止まったり動いたりと、非常に複雑な動きをしていた。きっとあれが、「流れを読む」ということなのだろう。
島へ戻る時もああいうことをしなければならないのなら、知らない人間には難しいことなのかもしれない。
けれど所詮、海にも船にも素人のひなである、それがどんなに難しいことなのかまでは判るはずもない。だから逆に、ああそうか、島にまであの人達がやってくる可能性もあるのかと、不安は余計に募る一方だった。
──でも、ひながいくら心配したり、不安になったりしたところで、何ひとつとして出来ることがない、というのも事実なのだ。
自分の身を立てることも出来ず、未だ八重や三左の庇護の下にいるようなひなには、たとえ千早が危機に遭遇したり、困難に直面したりしたとしても、それに対してどうするすべもない。力になることも、手を伸ばすことも出来ない。
言葉をかけることさえ。
よほどひなが思い詰めたような顔をしていたのか、こちらを見た千早が、軽く目を細め、
「心配ないって」
と、もう一度、今度は優しい声で言った。
「…………」
ひなは悄然とうな垂れた。その言葉は、ひなへの思い遣りであると同時に、拒絶でもあった。千早は、この問題に関して、自分でなんとかする、と言っているのだ。ひなの何も、必要としていない。心配すら、させてもらえない。それはそうだ、彼の役に立つ手立てを全く持たない今のひなには、そんな資格もない。
膝の上で両手を組んで、ぎゅっと強く握り締めた。
(わたし……わたしが、もっとしっかりしていれば)
ひなが、もっと強くて、もっとちゃんと地に足をつけて立っているような人間であったなら。
そうすれば、少しは、千早の助けとなれるのだろうか。
彼が背負っているものを、ひとりきりで抱えている何かを、ほんの少しでも軽くしてあげることが出来るのだろうか。
現在の状況では、それは途方もなく大それた望みのように思えた。けれど、まず自分自身がきちんと立とうという意思がなければ、一歩前へ足を踏み出すことなんて、出来るわけもない。
顔を上げ、舟の進路へ真っ直ぐ視線を向けた千早の顔を窺い見る。
その揺るぎのない、凛とした横顔。
ひなはずっと周囲に助けられるばかりだった。自分のことで手一杯で、誰かを助けようなんて、思ったこともない。自分自身がふわふわと不安定で、やれるとしてもせいぜい「お手伝い」程度のことだけのひながそんなことを思うのは、傲慢というものだ。
だから、今はじめて胸に込み上げたこの強い感情は、願いというよりは祈りのようなものに近かった。強くて、熱くて、ひそやかな。
(わたしは……)
もっとしっかりして、もっと強くなって。
この人を守れたら、どんなにか。
──要するにお前、俺のことが嫌いなんだろう、という千早の言葉が、ふいに頭を過ぎる。
ひなはまた少しだけ顔を下に向けて、あの時呟いたのと同じことを、繰り返した。
(……わたしは、あなたを嫌いになったことは、ただの一度だってありません)
これまでも。
そしてきっと、これからも。
***
たくさんの船が停まる本島の港は、羽衣島の素朴な船止め場と比べ、格段に規模が大きく、設備もしっかり整っていた。
なにより、人が多い。大勢の人がせかせかとあちらこちらを行き来している様子は、今まであののんびりとした島で、ゆるやかに流れる時間に慣れてしまったひなにとって、目が廻りそうなほどだった。
そんな中でも千早はいつもとまるで変わりなく、同じく舟に乗ってやってきた他の島の住人らしい男性と、気さくに声をかけ合ったりしている。
ここにもし不知火島の人がいたら、と思うとひなは気が気でなかったが、千早のほうはまるで気にした素振りもない。さっきのことなんて、まるですっかり忘れてしまったような彼の態度に、ひなはちょっとだけ困惑したり、安心したりした。
「ここが本島だ。……見覚えがあるか?」
千早の手を借りながら舟を下り、訊ねられたひなは周囲を見回した。
とはいえ、ここからは、港の様子くらいしかよく把握できない。港自体が少し窪んだ地形にあるためか、高台より向こうには何があるのかよく判らないのだ。
ただ、山の上のほうに、お城のような立派な建物が建っているのは見えた。
あれが、千早の言う「上の人たち」のいる場所なのかと思ったけれど、ひなの記憶を刺激するような眺めではない。正直に首を横に振ったが、そうか、と答えた千早の声には、特に落胆らしきものは入っていなかった。
市は、舟を下りてすぐの場所で開かれていた。
賑やかな喧騒で満ちたそこでは、人々がそれぞれに品物を見定めたり、物々交換をしたり、大声で言葉を交し合ったりしている。
地面の上にはあちこちに茣蓙のようなものが敷かれて、そこには様々の雑多なものが並べられていた。食べ物や日用品だけでなく、櫛や笄などの小物もある。それを買ったり、自分の持ってきたものと交換したり、やりようは色々だが、売り手と買い手の間では、盛んに商談がなされているらしかった。
ざわざわとして、笑顔があり不満そうな顔があり、大声も飛び交って、とても活気がある。ものを売り買いする場所というのは、こんなにも生命力に溢れているものなのだろうか。
千早に連れられてその市の中を巡りながら、見るものすべてが珍しいひなは、目を丸くしながらきょろきょろと顔を動かすのに忙しい。見かねた千早に、「迷子になるなよ」と注意をされたほどだ。
彼のほうはやはり慣れているのか、時々、お、と足を止め、
「これ、幾らだ?」
なんてことを、品物を広げている人物に向かって問いかけたりしている。そして値段を言われ、「高えな、まけろ」と値切り交渉までして、そして結局何も買わなかったりする。市というのはこうやって楽しむものなのか、とひなはまた新しい世界を知った気分になった。
「お前も何か欲しいものがあれば買う前に俺に教えろよ。安くするように交渉してやる」
と千早に言われたが、正直見るだけで頭が飽和状態のひなには、自分が欲しいものまで考えられない。たくさんのもの、たくさんの人、そしてそれらから発する熱気にすっかりあてられてしまっていた。
それでも、二太と三太にお土産くらいは買っていこうか──と思いついたら、並べられた品物を見比べる目的が出来たようで、幾分気持ち的にも落ち着いた。
持ってきた金子もそんなに多いわけではないから、そのあたりも考慮しなくてはいけないとなったら、少しわくわくもしてきた。
ものを買う、ということは、やっぱり基本的にとても楽しいことなのだろう。
そうやって、人の波間を、千早と並んでゆったりとした歩調で歩く。
歩きながら、千早はずっととりとめのない話をしていた。市のことだったり、ここで起こった出来事のことだったり。ひなはそれに対して頷くくらいしかできないのだが、特段それを気にした様子もなかった。
(そういえば、こうして二人で並んで歩くのは、久しぶりかも)
と、ひなは今更になって思う。
横を向いて少し見上げれば、すぐ間近に彼の顔がある。なんだかくすぐったい。
千早は話しながら、ちょこちょことひなの顔を覗き込むようにしては、反応を見て、なんとなく納得した顔をし、また別のことを話しはじめる、ということを繰り返している。
話の中身は脈絡もなければ、いきなり違う方向に飛んだりもしたが、ひながそれに対してもの問いたげにしたりすると、千早は根気よく付き合ってくれた。
そうして歩いていると、並べられている物の中には、どんな用途で使われるのか判らないものもあって、そういう時はつい立ち止まったりしてしまう。
(……これ、なんだろう)
と思ってまじまじと品物を見ていたら、「よお娘さん、何が欲しい?」と売主に元気に声をかけられ、びっくりした。
うろたえていると、千早が同じようにひょいと覗きこんできた。そこに置いてあるものを見て、それからひなの顔を見る。
「これが欲しいのか?」
と訊ねられ、ちがうちがう、と慌てて首を振った。
これは何ですか、と品物を指して首を傾けると、千早は、ああ、というように大きく頷いた。
「なんだ、食いたいのか」
「…………」
どう見ても、食べ物じゃない。
またからかって……と思って、もう、という顔をすると、千早と売主が同時に笑った。
「兄さん、人が悪いね」
「こいつ時々面白いんだよ」
売主の男性に言われても、千早はまったく悪びれもしない。ひなの顔を見てもう一度笑った後、「これはさ……」と改めて説明をしてくれた。やっぱり最初から通じていたらしい。
それに聞き入って驚いたり感心したりするうち、ひなの心は次第に、ほっこりと温かくなっていく。ごく自然に、笑っていた。
……こんな風に、千早と「他愛のないお喋り」が出来るなんて。
ひなの言葉は声にはならないけれど、身振りや手振りで通じるものもある。そこから話題が繋がって広がるのなら、それは「会話」と同じことだ。話す内容は、きっとあまり重要じゃない。
お互いに思っていることを伝え合って、いろんなことを共有できる。
それこそが、大事なのだ、多分。




