ひな(10)・名を呼ぶ
「……今日も千早んところに行くのか? ひな」
と膨れっ面をした三太に問われたのは、千早の家で夕飯をよばれた翌日の朝のことだ。
いつものように八重の家族と一緒に朝食をとり、片づけも終えて、自分の家に戻ろうとしていたひなは、その言葉をかけられて、え? と後ろを振り返った。
そうしたらそこでは、三太だけではなく、二太も同じように不満げに唇を突き出している。
咎めるような言い方に戸惑いながらもひなが頷くと、二人はますます目尻を吊り上げた。そしてまた口を開けたと思ったら、今度そこから飛び出したのは、癇癪を起こす子供独特の、甲高い大きな声だった。
「なんでそんな毎日毎日行かなきゃなんないんだ?! 千早に命令されたのか?! どうしてひなばっかり!」
「これじゃあ俺たち、いつになったらまた、ひなと遊べるんだよ!」
二太と三太は地団駄を踏むようにして、ばたばたと手足を振り回しながらわめいた。もともと自分の感情に素直な子供たちであるから、今までにも散々不満や文句は口に出していたが、こんな風に真正面からひなに対して激しい怒りをぶつけてきたことはない。
この子たちはこの子たちなりによほど我慢していたのか、と思ったら、ひなも二人に対してひどく申し訳ない気持ちになった。
「おやめ、二人とも」
八重が厳しい声で、子供達をぴしりと叱りつけた。
「なにをワガママなことばかり言ってんだい、この子たちは。ひなちゃんは、なにも毎日、遊びに行ってるわけじゃないじゃないか。千早の親父さんの面倒を見てさ、その上縫い物の仕事までしてくるんだよ。褒められこそすれ、誰にも文句を言われるような筋合いじゃありゃしない。……悪いね、ひなちゃん。気にしないでいいからさ」
八重に謝られ、ひなは首を横に振る。ゆっくりと膝を曲げ、二人と同じ目線に合わせた。
考えてみたら、この島に流れ着いてからのひなが、どれだけこの二人の子供の無邪気さに、自分の心細さを慰めてもらったか判らないのだ。千船の許に通うようになる前は、二太と三太はいつも八重の仕事を手伝うひなの傍にくっついて、あれこれとからかったりしながらも気安い態度で接してくれていた。
どんな失敗をしても陽気に笑い飛ばす二人に、ひなはどれほど救われたことだろう。
ごめんね、というつもりで首を傾けたら、彼らは同時に口を大きなへの字に歪め、泣きべそのような表情を浮かべた。
「……別に、文句を言ってるわけじゃない」
「手伝いをしたり働いたりするので忙しくなるのはしょうがない」
「それなら遊べなくても我慢する」
「けど、ひなが、千早のところばっかり行くのがイヤなんだ」
「?」
ぼそりぼそりと交互に出てくる言葉に、目を瞬いた。二人の言っていることがよく判らなかったのはひなだけではなかったようで、八重もまた、眉を寄せて訝しげな声を出す。
「なに言ってんだかね、あんたたちは。千早のところ千早のところって言うけどさ、ひなちゃんが様子を見に行ってんのは千早じゃなく、あれの親父さんだよ? 考えてみりゃ、どうもこの間っから、あんたたちはやけに千早を目の敵にしてるようだけど、何かあったのかね」
訊ねられ、二人の子供は、むっとして口を閉じた。
そういえば──とひなも今更のように不思議に思った。
二太も三太も、以前は、千早に対してどちらかといえば好意を抱いていたはずだ。千早はあれでけっこう強いんだぞ、泳ぐのだって誰より早い、とひなに教えてくれたこともある。「千早」と気軽に呼んではいるものの、その言い方には確かに、島の若い頭代理への、敬意や憧れが混ざっているように聞こえた。
いつ頃からこの二人の彼を見る目が変わってしまったのだろう、とよくよく思い返してみれば、どうもそれは、ひなが千早と一緒に崖の上まで行った時くらいから……のような気がする。
「わかんねえかなあ、母ちゃん」
楽しそうに笑いながらそう言ったのは、後ろで成り行きを眺めていた、二人とは少し年の離れた兄の一太だ。
「こいつら、一人前に悋気を起こしてんのさ。ひなを千早に取られるような気がして、悔しくってしょうがないんだろ。だから何かにつけ、横槍を入れたがるんだよ」
その言葉に、ひなは驚いた。驚いたというより、慌てた。赤い顔でぱっと立ち上がり、反論や否定をしようとしたが、その手段を思いつく前に、八重が不得要領な顔つきで一太に向き直って訊ねた。
「悋気──やきもち焼いてるってことかね。けど、二人とも、三左には別に態度が変わらないじゃないか」
「だからそういうところ、子供なりにちゃんと見抜いてるんじゃねえの」
「そういうところって?」
「男として見た場合、より警戒が必要なのは三左と千早のどっちか、ってことさ。そりゃ一目瞭然だもんな、三左にゃ気の毒だけど」
「なんだろうねえ。まったくうちの子達は、どれもこれもませたことばっかり言って──」
一太と八重の会話は続いていたが、ひなはあたふたと二太と三太の手を握り、二人を引っ張って外に出ることにした。とてもではないけれど、これ以上この場にはいられない。
くるりと踵を返し、一歩を踏み出した──途端、出口の外側から筵が押し上げられ、誰かが顔を覗かせた。
「おっと──よお、ひな」
ちょうど鉢合わせの格好になってしまった千早は一瞬目を丸くしたが、驚きのあまり飛び上がったひなは、彼を見て一気に顔に朱を昇らせた。
たった今まで自分が話の種にされていたことを知らないのだから当然だが、その過剰な狼狽ぶりに、千早は逆にたじろいだようだ。
「なんだよ、そんなに驚くなよ。今、お前の家に行ったらいなかったからさ、こっちに来てみたんだって」
「なにしに来たんだ、千早!」
「こんなところまで来やがって!」
ただでさえ怒っていた二太と三太に間髪いれずに責められて、千早はさらに不可解そうな表情になった。ひなの背後では、「間の悪い男だなあ」と一太が大笑いしている。
「なんだ?」
と千早は問いかけたが、固まったまま動かないひなを見て、こりゃ無理だと踏んだのか、事情を追及するのは諦め、すぐに八重の方へ顔を向けた。
「──あのよ、八重。ひなをこれから、本島に連れて行こうと思うんだ」
「本島へ?」
それを聞いて、八重の顔つきが変わった。眉を上げ、少しだけ声音を抑える。
「──ひなちゃんの身元が、判ったのかい」
瞬間、びくりと身じろぎして緊張したのはひなだけではない。自分のそれぞれの手を握る二太と三太の小さな手に、ぎゅうっと力がこもる。一太も、八重の夫も、すっと真面目な表情になった。
「あ、いや」
千早はなぜか、ちょっとだけバツの悪そうな顔をした。
「それとは関係ないんだ。というか、そっちはまだ全然判ってなくて、本島に行ったとしても、正直言って期待薄だ。今回のこれは、ま、気分転換っていうか、親父が世話になってるから、その礼も兼ねて、港の市にでも連れて行ってやろうかなと思ってさ」
話しながら、千早の視線が徐々にあらぬ方向へと移動していくように見えるのは気のせいなのだろうか。言い方は、まるで怒っているみたいに無愛想だ。
「なんだよ、逢引か」
茶化すように言った一太の頭をぽこんと張り飛ばして、八重は鷹揚に笑った。
「ああ、そりゃあいいね。あたしも、ひなちゃんにはそういう息抜きが必要な頃合いかなと思っていたところさ」
そして目を細めて、ひなのほうを向く。
「ひなちゃん、あんたもこの島に来てから、なんだかんだと気を張り詰めて大変だっただろう。今日くらいは、一日ゆっくりするといいよ。なにも心配しなくていいから、市を見て廻って楽しんでおいで。多少は小遣い銭もあるだろう?」
困惑しながら、ひなは頷いた。
島の女たちに頼まれた針仕事で得た食べ物やお金は、ほとんどそのまま八重に渡していたが、すべてを受け取ってくれるわけでもないので、ひなの手許にも少しは自由に使える分が残っている。
「着物も、もうちょっといいやつに替えるといいよ。とはいえ、あんたが最初に着ていた着物は上等すぎてかえって目立つから、よしたほうがいいね。ヘンなのに目を付けられても困るし。かといって、あたしの若い頃の着物じゃ、どう考えても身の丈が合わない。どうしようかね。よし、他の家から借りてこよう」
きりきりと張り切る時の八重は、十野と同じで早口になる。ただ八重の場合、舌が動くのと同時に身体も動くので、最後まで言い終わらないうちに、風のように家を飛び出していってしまった。
今ひとつ状況が掴めなくてその場に立ち尽くしていたひなは、ここでようやく、我に返った。
(本島へ……)
崖の上で、千早が「いずれ連れて行ってやるか」と言っていたことを思い出した。本当にただの気分転換のつもりなのか、それとも何かしらの思惑があるのかは判らないが、千早はこれからそれを実行しようと言っているのだ。
もっと事前に決めていたことなら昨日の時点で言っていただろうから、また突然思いついたのだろう。何事につけ、彼は一旦思いつくと、すぐに行動に移したがる性格であるらしい。
(……きっと、本島のことをわたしに教えてくれようとしているんだ)
高い場所からこの羽衣島を見渡していろいろと教えてくれたあの時のように、実際に本島へ連れて行って、世の中のことを何も知らないひなに実地で見聞させてくれようとしているのだろう。
──そこはもしかしたら、ひなが生まれ育った場所なのかもしれないのだし。
「いいだろ? ひな」
今になって、千早はひなに確認をした。つっけんどんな口調だったが、ひなが頷くと、少しだけ安堵を滲ませ目元を緩めた。
しかしここにきて、承服できない人物が二人いた。言うまでもなく、二太と三太である。
「ダメだダメだ! 逢引なんて許さないぞ!」
一太の冗談を真に受けて、強情に言い張る二人の姿に、ひなは思わず笑みを零してしまう。そんなのとは全然違う、と首を振ってから、ひなは千早を振り向いた。いつものように、呆れた顔で「そんなんじゃねえよ」と彼がすっぱり否定すれば、二人も多少は安心するかと思ったからだ。
「ばっ……そんなんじゃねえって」
そして千早は、確かにそう言った。台詞はひなの思った通りのそのままだった。でも。
……でも、その態度は、明らかにうろたえている、ような。
「?」
きょとんとしてしまうひなを余所に、妙に怖い顔をした千早は、一太に向かって「お前が余計なこと言うから」と八つ当たりのように責任をかぶせた。それからすぐにまた、くるりとひなのほうを向き、
「そういうことじゃねえからな」
と、わざわざ念を押した。
「…………」
そんなに強く主張されなくても、「そういうことじゃない」のは承知していたので、戸惑いながらも普通に頷いたのに、千早はちょっとムッとした顔になった。それはそれで、なんとなく面白くないらしい。本当に、何を考えているのかよく判らない。
千早が判らないのは以前からなので、とりあえずそちらは深く考えないようにして、ひなはまた二太と三太の前にしゃがみこんだ。揃って腹立たしそうに口を動かしはじめるのを、軽く人差し指を立てて遮る。
にこりと笑ってから、二人に向かって、丁寧に唇を動かして見せた。一文字ずつ、区切るように。
──あ、し、た。
「明日?」
二太と三太はちゃんとその動きを読み取ってくれた。嬉しくなってこっくりと頷いたら、二人は顔にぱっと喜色を浮かべた。
「明日は、俺たちと遊んでくれるんだな、ひな」
うん、と頷く。
「一日ずっと?」
それにも頷く。明日この子たちを一緒に連れて行けば、千船のことだから、きっと事情を判ってくれるだろう。他の人たちと同様、ひなにとっては、この二人の子供も大事な自分の恩人だ。
彼らがそう望むのなら、気が済むまで傍にいてやりたいというひなの気持ちも、千船なら多分汲んでくれるはず。
二太と三太はそれで納得をしたようで、「じゃ、しょうがないな。今日は千早に譲ってやる」と許してくれた。子供らしい現金さで、すっかりにこにこした機嫌のいい笑顔を取り戻す。
ほっとして微笑むと、頭の上から、
「……ふーん」
という声が聞こえた。顔を上げると、千早が顎に手をやり、何かを考えている。
それから、ふいに真顔になって言った。
「ひな、俺にもそれ、やってくれよ」
「……?」
唐突に言われて、意味の判らないひなは首を捻るしかない。
……「それ」って、なんだろう。
千早は少し焦れたように繰り返した。
「だから、それだよ、それ。口の動きだけで言葉を伝えるんだろ? 俺にもやってみてくれ」
「…………」
言っていることの意味は判ったが、その目的についてはさっぱり判らない。やってみろと言われても……と困惑するひなに、千早はさらに言った。
「なんでもいいから、言ってみな。当ててみせるから」
どうしてそんな子供のお遊びのようなことをしたがるのか不可解だが、断る理由もないので、ひなは立ち上がって千早のほうに身体を向けた。
何を言おう? と考えて、咄嗟に頭を過ぎったのは十野の声だ。
千早のやつがねえ──
いつも十野の口から出るたび、ちりちりと胸が痛むその名前。声の出ない今のひなには、どうやったって呼べないものだけれど。
……口を動かすだけなら。
そう思ったら、急に、ひどく気持ちが上擦ってきた。別に、名前を呼ぶなんて誰もがしている当たり前のことなのに、どうしてこんなにも胸の鼓動がうるさいほどに鳴っているのだろう。声にすら、出さないのに。
勇気を振り絞って、ひなは千早と正面から顔を合わせた。こんなこと、千早にとってはただの遊びなのだから、と心の中で言い聞かせるように繰り返す。自分だって、軽い気持ちで付き合えばいいのだ。頬が熱くなってくるのはもうどうしようもないとしても。
胸が破裂しそうなほどドキドキしながら、一語ずつゆっくりと唇を動かして、ひなははじめてその名を呼びかけてみた。
──千早さま。
恥ずかしくて下を向きたいのをなんとか堪え千早を窺うと、真剣な表情で見入っていた彼は眉を寄せ、かなり奇妙な表情をした。
「……イカダ浜?」
「…………」
「え、違うのか」
千早は、ひなの顔を見て、自分の試みが不首尾に終わったことに気づいたらしい。うーん、と難しい顔になって、がりがりと頭を掻く。
その様子を見物していた三兄弟は、容赦なくげらげらと大笑いした。
「なんだよ、千早。だらしねえなー」
「そんなこともできねえのかよ」
「ひなに見放されちまうぞ」
ひやひやと囃し立てる声に、仏頂面で「うるせえ」と言い返し、千早は、はあーっと溜め息を吐いた。
「……まあ、いろいろとやってみるしかねえな」
と独り言のように呟く。
……なにを「やってみる」んだろう。
やっぱり判らない人だ──と思って、ひなは赤い顔のまま、こっそりと、むくれた。




