ひな(9)・基盤
ひなの家まで来ると、千早はぱっとひなの手首を離した。
それから身体ごと振り返って、何かを言いかけたが、今まで自分が掴んでいたそこに目をやり、口を噤んで眉根を寄せた。
「ああ……悪い」
そう言って、一旦は離した手首を、今度は手の平で緩く包むようにして持ち上げる。
「力を入れすぎたな」
という言葉に、申し訳なさが滲んでいる。
ひなの手首は、千早が握っていた箇所だけ、くっきりと赤くなっていた。
ちょっと笑って首を横に振り、構わないから──という意思表示をして、ひなは自分の手をそこから引き抜こうとしたのに、その直前に、また千早の手に握られた。
「……?」
困惑して、千早の顔を見返す。
今までほど力が入っているわけではないとはいえ、彼の手は明らかにひなを留めようとする意思が感じられて、抜き取るのもためらわれた。かといって、千早は何かを言い出すのでもなく、彼の手の中にあるひなの手首に、視線を固定したまま黙っている。
「悪い。痛かったか」
しばらくの沈黙のあとでもう一度謝られて、ひなは再度首を横に振る。
千早のもの言いは静かだけれど、妙に何かを抑えつけるような響きがあった。ついさっき、五平にかけた時のような。
千早はひなの手首を見たまま、顔を上げもしない。その瞳からはなんの感情も読み取れない。視線が合わない。
(やっぱり、まだ怒ってるんだ)
そう思ったら居た堪れなくなって、ひなもまた、面を伏せる。怒られても冷たくされても、自業自得だという気がした。
やがて、千早の呟くような声が、頭の上で聞こえた。
「……お前の手は、すぐに赤くなっちまうんだな。重い桶を運んでも、水仕事をしても、ちょっと力を入れて握っても。きっと、ずっと大事に大事に育てられてきたんだろうな。壊れないように傷がつかないように、そうっと綿でくるんで、お姫様みたいにさ」
「…………」
千早の言葉に恥ずかしくなって、ひなはますます顔を下に向ける。その声は単なる事実を述べるように淡々としていて、皮肉な調子はまるで混ざってはいなかったけれど、ひなの胸にちくちくと刺さるようだった。
けど──と降ってくる彼の声は、変わらず静かなままだ。
「けどそれは、そういう場所に生まれついたんだから、当たり前のことなんだろう」
責めるようなことでもなきゃ、恥じることでもない。でも、誇るようなことでもない、と千早は続けて言った。
「俺は、そんなことを当然と思って、いろんな特権をなんにも考えずに享受してるような奴らが嫌いだった。そういう連中は、ただ生まれついたところが違うってだけで、意味もなく俺らみたいな名もない民を蔑むからだ。この世は、大半がそういう名もなきゃ身分だってない人間たちで、そういう人間たちの汗と苦労で成り立ってるってのに、そういうことを見もしないで、戦の巻き添えにしたり雑兵として使い捨てて、平気な顔をしてるのが許せなかった。そうして自分たちだけ安全なところから見下ろして、てめえの懐を温めることしか考えない連中なんて、勝手にしろって思ってた。それを悔しく思っても腹を立てても、結局何も変わりゃしないんだからな。どんなに不公平でも、世の中っていうのはそういうもんだと、腹を括って諦めるしかない。『世界が違う』ってのはそういうことだと、思ってた」
訥々と続く千早の声を、ひなはじっとうな垂れながら聞いていた。
内容は厳しくても、思えば、千早がこんな風にひなに対して、自分の心情を率直に話してくれたことはない。ちゃんと聞いておかなければ、と自分自身に言い聞かせる。
「──でも」
と、千早は続けた。少し、口調が変わっていた。
そこには何か、決意を込めるような強さがある──気がした。
「でも、それはつまり、俺も同じってことなんだ。なにも知らないまま、世界が違うからとか、生まれ育った場所が違うからなんて、そんな理由で他人を切り捨てる。それは、意味もなく蔑むのと何も変わらない。……そんなのは、間違ってる、よな。お互いに接点を持とうとしないまま、諦めて、投げ出して、理解しようとすることさえ放棄してしまうのは、多分、やっぱり──間違いだ」
とく、とひなの鼓動が鳴った。
今までずっと、千早は怒っているのかと思っていた。自分の礼を失した態度のことや、五平のことで、これだから世間知らずのお嬢さんはと、いつもの調子で言われるのかとも覚悟していた。千早の話の行き着く先はそういうところなのかと……でも。
でも、違う?
ゆっくりと、ひなは俯かせていた顔を上げた。そこには、いつの間にかひなの手首から視線を外し、こちらを見据える千早の真面目な顔がある。
彼はその表情のまま、穏やかに、でもきっぱりとした声で言った。
「俺はさ、お前のことをもう少しよく知りたいんだよ、ひな。……だからもう、俺を避けるな」
ひなは身動きもせずに千早を見つめ返すことしか出来ない。
きっと、その言葉に、そんなに特別な意味があるわけではないのだろう。そうは思っても、頬が上気してくるのは止められなかった。
千早がそれを見て、ふ、と目許を緩ませる。するりと手から力を抜いて、ようやくのように、ひなの手首を解放した。
「じゃあ俺、これから八重に話をしてくるから。忘れるなよ、明日」
気軽な言い方は普段どおりの彼のものだ。「明日」とはつまり、千早と千船と十野とひなで、一緒にご飯を食べようと言っていたことだろう。
わずかに頷いて見せたら、千早は少し笑って、八重の家のほうへと歩いていった。
その後ろ姿を見ながら、ひなは今まで千早の手の中にあった自分の手首を、もう片方の手で押さえた。
──明日。
と、胸の内で呟く。
いろいろと、複雑な思いはあるのだけれど。
でも考えてみたら、千早と何かの「約束」を交わすのは、これがはじめてだ。
***
「なんですってえ」
翌日、宣言どおり、千早はたくさんの魚や貝などの海鮮を持って帰ってきた。
魚を捌いたりするのはおもに十野の役目で、彼女はその最中もさかんに口を動かし続けていたのだが、そのお喋りの途中で、突如として激昂した。
「あのろくでなし五平が、ひなちゃんを狙ってる?」
それを口に出した千早は、本当に特に他意はなかったのだろう。父親との会話のついでに、あの野郎はまったく働きもしねえくせに、ひなにまでちょっかいかけようとしやがって──と何気なく言った途端、十野にずかずかと詰め寄られたものだから、「は?」と却って目を丸くしている。
「なんであんた、それをもっと早くに言わないのよ!」
「いや……なんでもなにも、お前に言う必要がねえし」
「あるわよ、あるに決まってんでしょ! あの男はね、これと狙った女はどんな卑怯な手を使うのも厭わないってくらい、そっち方面にかける執念深さが並じゃないのよ! 稼ぎもなきゃあ、顔だって大してよくもなく、性格に至っては最低で最悪なのに、女に関してだけは一人前のつもりでいるんだから胸糞悪いったらありゃしない。千早なんか所詮男だからそういうところ甘く見てるんでしょうけどねえ、あたしたち女にしてみれば、これは大問題なんだからね! そうと知ってれば今までひなちゃんを一人で帰すなんて迂闊な真似はしなかったのに、馬鹿ね、千早!」
千早は顔を顰めながら両手で耳を塞いでいたが、馬鹿呼ばわりされた時点でとうとう辛抱が切れたらしく、「だーっ、うるせえなこのお喋り女!」と怒鳴り返した。
「お前といると、こっちの耳がおかしくなる! そう一気呵成にまくし立てるな! ガキの頃からちっとも変わってねえ、だからお前はイヤなんだ!」
「なに言ってんのよ、子供の時だってなんだって、もとはといえばいつも千早が悪いんでしょ! ひなちゃんのこともそうよ、はじめからあたしに言ってくれりゃよかったのに、さっさと八重さんを頼っちゃって、あたしには何も教えてくれなかったじゃないのさ。同じ年頃の娘なんだから、もっと前に仲良くなれたらいろいろ教えてあげることも出来たのに!」
「お前が何を教えられるっていうんだよ。大体、ひなは最初、病人も同然だったんだぞ。お前みたいなうるさい女が傍にいたら、治るもんも治らなくなるだろうが!」
「なんなのよその言い草はあっ! そんなこと言うなら八重さんだって結構なもんじゃないのよ!」
「少なくとも、八重は口が動いても、同時に手も動いてる! 口が動き出すと手のほうはサッパリお留守になるお前とは違うだろ!」
「あたしがいつそんなことした!」
「今! まさに今、そうだろうがよ! とりあえずその包丁を下ろしたらどうだ!」
千早と十野の言い争いは、ほとんど子供の喧嘩だった。気が合っているといえばそうなのかもしれないのだが、ひなが想像していたような「幼馴染の仲睦まじさ」というのとも、なんとなく違うような気がした。
二人を前にして、なんでもない顔をしていられるかと不安だったけれど、はっきり言ってそれどころではなかった。どうすればこの言い争いを止められるのかと、おろおろするしかない。
そんなひなの背中を、千船がつんつんと後ろから指で突っついた。
「ほっとけほっとけ。いつものことだからよ。それより、旨そうな匂いがするだろう」
今は夜具から起き出して、囲炉裏の前にどっかり座り込んだ千船は、騒ぎにはまったく我関せずで、ぐつぐつと煮立つ鍋を機嫌よくかき回している。
「そろそろいいぞ。ほら、あいつらのことはいいから、さっさと食おうぜ」
思い切りよくぶつ切りにした魚や貝の入ったその汁を、千船が椀によそって、ひなに差し出してくれた。戸惑いながらも受け取ったそれからは、ふんわりとした湯気と一緒に、潮の香りが立ち昇って、鼻腔をくすぐる。
「あっ、なによ、おじさん。自分たちだけ」
唇を尖らせて、千早との喧嘩を中断し、十野がぱっとひなの隣に座り、箸を手に取った。今まで眦を吊り上げていたのが誰なのかというくらい、けろりとしている。十野のこういうところ、ひなは本当に好きなので、笑いながら自分が持っていた椀を渡した。
「まったく馬鹿馬鹿しいことに時間を取らせやがって」
ぶつくさ言いながら、千早も囲炉裏近くまで寄ってきて、十野とは反対側の隣に腰を下ろした。
父親から木製の匙を受け取り、手際よく二つの椀に汁を入れる。ひなに一つを渡して、自分も箸を持ち上げたかと思ったら、手早くかきこみはじめ、あっという間に一杯目を食べ終わってしまった。まだ一口も食べていないひなを見て、「お前まだ食べてないのかよ」と驚かれ、ひなのほうがびっくりする。
汁の中の魚に箸をつけ、口に運ぶ。骨もそのまま煮込んであるが、身はとても柔らかく、甘みがあった。味に深みのある汁は、喉を通過するたび、ふう、と思わず溜め息が漏れてしまうほど美味しい。
その様子をじっと見ていた千早に、
「旨いか?」
と訊ねられたので、何度もこくこくと頷いてみせたら、そうだろう、と満足そうに笑った。
「あー、美味し。こういうのって、中に入れるものは同じでも、不思議とその家によって味が違うのよねえ」
十野のしみじみとした言葉に、ひなは不思議そうに首を傾けた。そういえば、八重の家でご馳走になるのとは、確かに違う。中身はあんまり変わらないのに。
「そりゃまあ、その家によって、味つけが多少違うんだろうよ」
という千船の答えに、ひなは、そうなんだ、と単純に思ったが、十野は今ひとつ納得できないらしい。
「そうなのかなあ。でも、味つけっていっても、どこだって、そんなに変わったもの入れるわけじゃないじゃない。やっぱり量とかなのかしら。おじさんちは何をどれくらい入れるの?」
「秘密」
「秘密だ」
十野の質問に、千船と千早の親子は揃ってにべもない。
「なによ、秘密にするほどのことじゃないでしょ」
「バカお前、その家の味付けってのは、代々に伝わる重要機密事項だぞ? 母親が娘に伝えていって、娘がまた自分の工夫をそこに加えて、基本を守りながら改良していくもんなんだからな。この味は俺の女房のお袋さんがそのまたお袋さんに習って、それを俺の女房が習って、俺好みの味に仕上げたもんなんだから、秘伝中の秘伝だぜ」
真面目くさった顔の千船に、十野は「大げさな……」と呆れ返っているが、ひなは箸を動かしていた手を、ぴたりと止めた。
噛み締めるように、胸の中でその言葉を繰り返す。
(代々に伝わるもの……)
母から、または父から、その子へと伝えられるもの。
それはもちろん、料理に限ったことではないのだろう。遊び方や、漁の仕方や、身の守り方、生きるためのあらゆることを、そうやって上の世代に教わりながら、習いながら、知って覚えていくのだろう。
そうして受け継がれた知識の上に、今の千早があって、十野がいるわけだ。
何代にもわたる歴史、あるいは過去、あるいは思い出。それらの基盤があって、いろんな経験が積み重なって絡み合い混ざり合い、人はその人として成立していく。
であれば、相手を知るということは、同時にその人の過去をも知っていく、ということになるのかもしれない。
(……ああ、そうか)
と、ひなは思った。今更のように、深いところで理解した。
(わたしには、それがない)
それらのすべてを失ったひなには、つまり、基盤がない、ということなのだ。
拠って立つ、場所がない。自分を自分として立脚させるべき立ち位置がない。だからこんなにも、ひなはいつでも、自分に自信が持てないのだろう。常に自分だけがぽつりと浮き上がっているように思えてしまうのは、この島の中でひなだけが余所者だからじゃない。足をつけるべき地面が、ひなにはそもそも存在しないからだ。
曖昧なところで、ふわふわと浮いているだけの自分。
千早は、ああ言ってくれたけれど。
(わたしの何を、知りたいんだろう)
ひなには、千早に教えられるようなものなんて、何もないではないか。いくらひな自身にそのつもりがあったとしても。
記憶を取り戻せば、ひなという人間がどんな人間か、判るのだろう。過去を知れば、地に足をつけられる。そうしたら、千早とももっとちゃんと向き合えるのかもしれないし、十野と一緒にいるのを見ても、目を逸らさずにいられるのかもしれない。
「知りたい」と言ってくれた千早の言葉にも、きちんと返すことが出来る。
記憶さえ戻れば。
(でも)
ひなはちらりと千早の顔を見てから、そっと目線を下げた。
──でも、それは、怖い。
とても、怖いのだ。




