千早(9)・焦り
ひなのぎこちない微笑みを見て、千早は自分の胸が常になくざわざわするのを感じたが、それを顔に出すことまではせずに、すぐにまた前方へと顔を戻した。
──なんだろう。
怒っているというのとも違う。苛々しているのでもない。ただ、もやもやとした黒い靄のようなものが心の中にゆっくりと広がっていくような感じ、そのくせ何かに駆り立てられるような居心地の悪さがあって、落ち着かない。
掴んでいる細い手首は大人しかった。なにも抗うような様子は見せない。後ろからついてくる足音だってそうだ。いつものひなと同じように、少し早足で、けれど従順に歩みを進める音。
……こんな風に、歩きたいわけじゃない。
千早は、この間のように、ひなと並んで歩きたかったのだ。隣同士、ふと顔を横に向ければすぐに彼女が見られる位置で。ひながこちらを向いて笑ったら、自分も笑い返してやれる場所で。
なのに、どうして自分たちはまた、こんな形で前と後ろになって、手首を掴んで引っ張るように歩いているのだろう。ついこの前にはちゃんと出来たことが、今になって出来なくなっているのはなぜなのか。
再び、足音がずれている。この間一緒に歩いた時は綺麗に重なったそれが、またちぐはぐなものに戻ってしまっている。それだけのことに、とてつもなく落胆している自分がいる。どうして?
何かがすれ違ってる、という気がしてならなかった。ずっと最初から、千早とひなは、何かがうまいこと噛み合わない。それは自分でも自覚していたことだったし、結局は「住んでいる世界が違うから」という結論に集約されるものだと思い込んでもいた。
けれど、今はその「噛み合わなさ」が、千早をひどくもどかしい気持ちにさせている。こんな風に、ひなの手首を掴まずにはいられないほど、その手に力を込めずにはいられないほど。これはなんだ。まるで、焦っているように。
(……焦ってる?)
自分で自分に問いかけてみて、混乱しそうになった。自分は一体、何に焦っているのだろう。
胸のざわつき、もやもやとした暗雲、焦りと──不安。
一度は近づいたひなの心が、また自分から離れていこうとしているからなのか。
***
最初は、たまたまのことなのかと思っていた。
家に戻っても、来ているはずのひなの姿がない。ちょっと拍子抜けしつつ父親に訊ねてみると、少し前に帰っていったという。なんだよ、待ってりゃ俺が送っていってやったのによ、と不満を漏らしたものの、はじめのうちは特になんとも思ってはいなかった。
──でも、それが何日も、何日も続いてくると。
さすがに、むかむかとした腹立ちが湧いてくるのが抑えられなくなってきてしまった。毎日千船の許に顔を出しに来ているのは間違いないのに、なんで自分が帰ってくる前にいなくなってしまうのか。
今日だって、いつもよりも早く帰ったのに、もういない。
「……十野、また来てんのかよ」
このところずっとこの家に出入りしては、ちゃっかりひなに縫い物を教わっているという幼馴染にも、つい八つ当たりしたくなってくる。
いかにも不服げな千早のその顔と言葉に、十野はむっとしたように頬を膨らませた。ついでに、じろりと睨みつけられた。この数日のうちに、すっかりひなのことが気に入ってしまったらしい十野は、何かにつけて千早を悪者扱いする。
「ご挨拶ね、千早。あんた絶対、ひなちゃんに何かしたんでしょ。怖い顔したり、苛めたり。それで怯えられちゃってるんじゃないの。今日だってもうすぐ千早が帰ってくるから待ってたら、って言ったのに、ひなちゃんたら、たった今、逃げるように帰っちゃったわよ」
「……な」
逃げる、という言葉に、自分でも驚くくらい動揺した。
「俺が何したってんだよ?」
「あたしに聞かないでよ。自分が何をしたのか、胸に手を当てて考えてみなさいよ。そもそもあんたは偉そうだし、優しくもなきゃ可愛くもないんだから。どうせまた何か無神経なこと言ったかしたかしたんでしょ、ひなちゃんにさっさと謝りなさいよね」
「何かをしようったって、ここんところ顔を見てもいねえじゃねえか!」
「あたしに怒鳴ったってしょうがないでしょうが! 大体あんたのその怒りっぽいところがねえ──」
があがあと言い争っている二人の姿を、のほほんと寝床から眺めている父親にも、千早の怒りは飛び火した。
頭代理となってからの千早は、人前では意識的に感情を抑えるように努めてはいるが、実を言えば、昔から気性はかなり短気なほうだ。
「親父も、もうちょっと引き止めてくれりゃいいだろ。なんでいつも、ひなを一人で帰しちまうんだよ。俺、まだ何もあいつに言ってないのに」
千船は息子の憤りをぶつけられても、まったくけろりとしていた。ぽりぽりと指で髭を掻く仕草はいかにも呑気で、余計に苛つく。
「別に、ひなさんが帰りたいってもんを、引き止めることもねえだろ。礼はちゃんと俺から言ってるし、昨日だって、魚とか野菜とか、土産をたんと持たせてやったぜ」
「だから、そういうことを俺が──」
「なんで、お前じゃないといけねえんだ?」
「…………」
正面きって問われて、答えに窮してしまう。ちょっとの間の後で、そもそも頼んだのは俺だから、とぼそぼそ返すと、千船はふふんと鼻で笑った。千早の素の顔が短気だとするなら、この父親のそれは、一言で言って「性悪」だ。
「きちんと礼を述べたいってんなら、お前からひなさんの家に出向いていくのが筋ってもんだ。ちゃんと顔を見て話がしたいから、悪いけど俺が帰るまで家で待っててもらえないか、とかな。そういうこともしないで、さっさと帰りやがって、なんて怒るのは、お門違いってもんだぜ」
千船の言い分は至極もっともだった。千早自身、確かにそうだと納得した。
納得してから、やっと気づいた。
自分が怒っているのは、ひなと会う機会を逸し続けているからとか、礼を言おうと思っているのにそれがままならないからとか、そういう表面上のものとは少し意味が違っている、ということに。
……ひなが。
ひなが、どう考えても故意に、自分を避けているとしか思えないから。
だから、腹が立ってたまらないのだと。
「……俺が、何したってんだよ」
「…………」
もう一度同じ言葉をぼそりと零すと、今度は千船から無言が返ってきた。その顔を見て、千早が眉を寄せる。
「……なんで、そんな哀れむような目で俺を見てんだよ、親父」
「いやあ……」
しみじみしながら、千船は深い溜め息をついた。それはなんだか、神経を逆なでするような、わざとらしい溜め息だった。
「お前はわりと早いうちから女遊びもするほうだったから、俺もてっきり、そういうことはちゃんと判ってるもんだと……。けど、金を払って遊ぶのとはやっぱり違うってことなのかねえ。島の女には絶対に手を出さねえところは、きっちりしてんなと感心して見てたんだけどよ、こうなってみるとそれも良し悪しっていうかな……女親がないと、こうまで鈍感になるもんかね」
ぶつぶつと独り言のように呟いている。しかも聞こえてくるのはろくな内容ではない。何を意味の判らないことを言ってやがんだ、と千早の苛々は増す一方である。
その苛々を父親と幼馴染にぶつける前に、千早はくるりと踵を返し、家を出ることにした。
ほんのさっき出て行ったのなら、今から追いかければ間に合うかもしれない。問い詰めて、文句のひとつでも言ってやらないと気が済まない。
今になって自分を避ける、理由が知りたい。
「ひなちゃんに、たまには四人でご飯食べようよ、って伝えておいてよ、千早!」
背にかかる十野の声に軽く手を上げて応え、千早は走り出した。
***
目指す姿は、すぐに見つけられた。
けれどその時、彼女は一人ではなかった。しかも、厄介な奴を相手にしていた。
(五平──)
怠惰で、ずる賢くて、口だけはよく廻って、その上、女に目がないろくでなしだ。同じ女好きでも、陽気で人好きのする七夜とは人種が違うように、本質的なところでどうしようもなく腐ったものを持ち合わせているとしか思えない男である。
困惑顔をしたひなに、五平はしきりに何かを話しかけている。さっさと逃げればいいのに、ひなは対応に迷っているようだ。ちっと舌打ちしながら気配を殺して近づいていくと、ひなににじり寄っていた五平が、唐突に、ぱっと手を出して彼女の手を握った。
ひなの白い手を……柔らかく、温かく、何かを掴むために必死で努力している手を、男の無骨な手が乱暴に絡めとる。
「──……」
瞬間、頭に血が昇った。
触るな。
叩きつけるように強くそう思った。
やめろ、触るな。
ひなは、お前のような奴が手を触れていい女じゃない──
驚いたようにひなが身を捩って抵抗を示したが、五平は口元の笑いを抑えもしない。さながら舌なめずりでもしそうなほどに、はっきりとした愉悦の表情が浮かんでいた。ひなが悲鳴も出せないことを確認して、改めて喜んで……いや、楽しんでいるようだった。
この下種野郎。
激しい怒りが身の裡に湧いてくるのを自覚する。許さない、という思いと、殺してやる、という思いがいっぺんに噴き出して、制御が難しいほどだった。手に刀を持っていたら、間違いなく斬りつけているところだ。
「おい」
その衝動を無理矢理抑えつけたためか、口から出たのは、却って静かなくらいの低い声だった。
弾かれたように五平が飛びのく。同時にその手がひなから離れたものの、千早の怒りは引かなかった。
「俺は言っておいたはずだがな、五平。下手なことをしたら、俺も三左も黙っちゃいねえぞって」
警告はしたのだ。その上でこいつはひなに手を出そうとした。だったら本当に痛めつけてやっても構わないってことだな、と解釈して右手の指をぽきぽきと鳴らす。
「……それとも、実際に痛い目に遭わねえと判らねえのかなあ」
正直なところ、今こいつに手を出して、ほどほどのところでちゃんと止められるのか心許ない。暴力への欲求は抗いがたいほど自分の中で高まっている。こんなこと、やんちゃなガキの頃はともかく、最近ではほとんどなくなっていたのに。
千早の本気を感じ取ったのか、
「やだな、冗談はやめてくれよ、千早」
と言いながら、五平はさっさとその場から逃げ出した。逃げ足だけは早い奴だと忌々しいが、内心では逃げていったことに安堵して、千早は肩の力を抜いた。この場に留まっていたら、危うく、本当に殺してしまいかねなかった。
ひなが、同じようにほっと息をして、千早のほうを向く。
こうやって顔を合わせるのは久しぶりだ。ほっそりとした顔は、あまり顔色が良くないように見える。よほど怖かったのか、それとも、やっぱりまだ眠れていないのか。そうだよな、このところずっと千早の家に来ているのだから、昼間に仮眠をとる暇なんてあるわけがない。手が空いた時に、ちょっとでいいって言ったのに、律儀に毎日毎日やって来て。
──やって来て、けど、俺には会おうとせずに。
「おい」
気がついたら、千早はさっきよりもずっと露骨に怒りを前面に出した声で、ひなに呼びかけていた。
***
──足並みが、揃わない。
掴んでいる華奢な手首からは、彼女の体温が伝わってくる。耳をそばだてれば、かすかに息遣いだって聞こえる。けれど。
ずれている。すれ違っている。どこかが絶望的なまでに、重ならない。
生まれ育った環境が違うからなのか。ああそうだ、世界の違う人間同士は、結局判り合えないのだと思っていたのは自分だ。上の奴らの考えることなんて、千早に理解出来たためしはない、いつだって。
でも、違う。違うんだ。今自分が感じている焦燥は、不安は、そんなところからきているものじゃない。多分。判らないけど、多分。
こんなにも近くにいるのに、遠い。
そのことに、自分でも持て余すほど疼くような気持ちを抱えながら、それでも、それをどうにも出来ないこともまた判って、千早は黙ってひたすら前を見据えて歩き続けた。
ひなの手首をぐっと握って離さないまま。




