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ひな(8)・五平 2



 ひなの日常の生活が、少し変化した。

 朝起きて、八重の家で朝食をとり、片づけをし、掃除をして……というところまでは同じだが、それから千船の様子を見に行く、というのが加わったのだ。そう大したことが出来るわけではないので、それは本当に「見に行く」という程度のものだったけれど。


 ──毎日、島の女性達から頼まれた針仕事を幾つか持って、千船の許へ行く。


 行ったら、千船の身の回りを簡単に整えて、何か不足はないかと身振りで訊ねる(ほとんどの場合、「ない」という答えが返ってくるのだが)。千船が厠へ行く時や、外に出たそうな時には、起きるのに手を貸して歩くのを助ける。飲むものや新しい着替えを用意したり、苦しそうな時には背中をさすったり、やることといったら、それくらい。

 身体を拭こうとしたら本気で照れくさそうに辞退されたし、洗濯などは千早が手早く済ませているか、近所の女性らが自分たちの家族の分のついでにやってくれると言っていた。食事の面倒は見なくてもいいということなので、実質的に「世話」というほどのことは何もしていないと言ってもいいほどだ。


 しょうがないので千船の枕元に座り、縫い物をはじめるのがここしばらくのひなの日課だ。


 最初のうちは、病人のそばで……という遠慮があったが、どうも千船は、ひながそうしている時が一番嬉しいらしくてニコニコ眺めたりしているから、いいのだろうと解釈することにした。

 そうしているうち、大体じきに、十野が「こんにちはー」と言いながら気軽に顔を覗かせる。手に食べ物を持っていたり、花を持っていたり、自分の着物を持っていたり。彼女がやってくると、家はいつも一気に賑やかになった。

 十野の目まぐるしくぽんぽんと続くお喋りや、茶化すような千船の言葉に、頷いたり、笑ったり、その合間に縫い物を教えたりしているうちに、時間はあっという間に過ぎていく。時に十野と一緒に食事の下ごしらえなどをしてから、ひなは二人の許を辞去して、自分の家に帰る。

 いつも必ず、千早が帰ってくる前に。そそくさと。

 ……まるで、逃げるように。

 そんな調子で、日々が過ぎていった。



          ***



「ねえ、もうちょっと待ってたら? もうすぐ、千早が帰ってくるわよ」

 その日、帰ろうとした寸前に十野にそんなことを言われて、ひなは心臓をどきりと跳ねさせた。

 見透かされたように思ってどぎまぎしてしまったが、十野はいつも通りの、まったくなんでもない顔をしている。彼女がとても裏表のない、屈託のない人だということは、ここ数日の間によく判ったことだから、ひなはとりあえずほっとした。


「なんかさあ、千早のやつ、いつも帰ってきて、ここにいるのがあたしだけだと、ちょっとむっとしたような顔するのよね。昨日なんて、露骨に顔を顰めて『またお前か』なんて失礼なことまで言われたし。まあ感謝の言葉なんかを素直に口にしたりするような男でもないけど、あれはあれで、ひなちゃんに挨拶くらいはしたいんじゃないかと思うのよ。だから、あと少し待っててやったら?」


 ひなは曖昧に笑って、首を横に振った。

 それから指で「八」を作る。それが「八重」を示すものだということは、もう千船も十野も知っている。続けて物を運ぶ仕草をしたら、意味は通じたらしいのだが、十野は少し不満げに眉を寄せた。

「八重さんの手伝いをしなきゃ、ってわけ? でもちょっとくらい遅れたって、八重さんは怒ったりしないでしょ? そういえばこないだ、二太と三太にたまたま会って、『ひなと遊ぶ時間がなくなった』なんて文句を言われたけど、もしかしてあの子たちに気を遣ってるの? だったら要らぬ心配ってもんよ。大体あの子たちはひなちゃんに甘えすぎなんだから」

 続けざまに飛んでくる質問に、ひなは困ってしまった。

 少し遅くなったところで八重はもちろん怒ったりしないし、逆に、千早のところに行ってるならうちの手伝いまではしなくていいよと言ってくれているくらいだ。二太と三太は確かにひながこちらに長くいるのを嫌がるが、それが理由なわけでもない。


 ……ただ、ひなは千早に会いたくないのだ。顔を合わせたくない。

 いや、正確に言うと、自分の目の前で、千早と十野が打ち解けて話すところを見たくない。

 それだけだ。


 返事に──というか、口実に迷っていると、壁に四角く切り取られた小窓の向こうに目をやった十野が顔を綻ばせた。

「あっ、隣の六郎が帰ってきた。てことは、もうすぐ千早も戻ってくるわ。ひなちゃん、ちょっとだけ待っ」

 言い終わるのを待たずに、ひなは慌てて頭をぺこんと下げると、家を飛び出した。

 中から、「えっ? ひなちゃん?」と驚いたような十野の声が聞こえたが、心の中だけで謝って、小走りに立ち去った。

 うろたえている。動揺している。こんな時に、なおさら千早には会いたくない。顔に出てしまうかもしれないから。


(──どうして)

 ひなは泣きたい気分で考えた。


 どうして、こんな態度しか取れないのだろう。せっかく、千早がひなのことを「人」として扱ってくれるようになりはじめた、この時に。きっと、千早だって変に思っている。こんなことでは、また呆れられるし、今度こそ嫌われてしまうかもしれない。もう、笑ってくれることもないかもしれない。

 普通に接すればいいじゃないか、とは何度も思うのだ。千早と十野は幼馴染なのだから、仲良くお喋りをしていたって笑い合っていたってそれが当たり前だ。

 ひなはそれを傍観者としての立場から、微笑んで見ていればいい。


(……でも、自信がない)

 ぐっと、拳を握り締める。


 それを本当に、自分は微笑んで見ていられるのか。目を逸らさずにいられるのか。

 十野はどこまでも真っ直ぐな性根の娘で、元気で闊達で、眩しいほどに健全だった。千早と非常に似ていて、深く共通したものがあった。お互いによく判り合えて、並んでいれば、きっと一対の鳥のようにぴったりと似合うのだろう。

 その口からしょっちゅう出てくる「千早が」という言葉に、どうしようもなく揺れてしまう心があるのに、彼らが揃っている姿を目の当たりにしてしまった時、千船や千早の鋭い観察眼を誤魔化せるほどのなんでもない態度を取れるのか、まったく自信なんてない。

(これから、どうしよう)

 ひなは正直、途方に暮れてしまった。明日また顔を合わせたら、十野に何かを言われるだろうか。今だって、きっと不審がられているに決まってる。でも、千早の家にもう行かない、という選択肢はひなの中には存在しない。なにか、他に十野の気を逸らせることでもあれば──


「よお、ひなさんじゃねえか」


 そんなことを思っている時にかけられた声だったので、ひなは過剰に反応して、びくっと全身で身じろぎをしてしまった。

「へへ、やだねえ。何もそう驚くことねえのによ」

 改めて声の主に視線をやると、そこにいたのは五平だった。会うのは、千早に連れられてはじめて千船に会いに行った時以来だから、随分と久しぶりだ。

 千早と三左が警戒が必要だと教えてくれたその人物に対して、ひなは用心深く、頭を下げて会釈をした。さりげなく周囲を見回したが、困ったことに誰もいない。

 それには構わずに、五平は無遠慮にずかずかと、ひなのすぐ近くまで寄ってきた。寄ってきた途端、わずかだが酒の匂いがすることにすぐに気がついた。こんな時間から呑んでいたのかと思うと、やはりいい気持ちはしない。

 以前にも思ったことだが、五平の全身には、無気力で不健康な空気がべったりと張りついているように見えた。口許にはずっと笑いが浮かんでいるけれど、それはこの島の他の人たちのように、見るだけでこちらまで楽しくなるような陽性のものとは根本的に違っている。


「なあ、ひなさん」

 五平はすくうような眼つきでひなの名を呼んだ。


 それに応えるように首を傾げ、どうすればいいのだろう、とひなは戸惑った。まだ何かをされたわけでもないのにいきなり逃げるというのも、あまりに礼儀に外れている気がする。大体、この五平という男がどこまで危険なのかも、ひなには判っていないのだ。

 あまり好意は抱けそうにないが、かといって、よく知りもしないのにはじめから疑ってかかるというのは、ひなには難しいことに感じられた。


「俺はさ、あんたのこと心配してるんだぜ。こんな見知らぬ島に流されてきてさ、記憶もねえ、おまけに声も出ないってんじゃ、そりゃさぞかし不安だろうってな。三左は気がきかねえ男だし、千早は余所者に対しては冷淡だ。だから俺くらいは優しくしてやらねえとなあ、ってさ」


 五平のその声には、同情と憐憫が混じっているように聞こえて、ひなはますます自分が取る態度について迷ってしまう。もしも本心からこういうことを言ってくれているのであれば、ひなだって謝意は返したい。

 けれど、彼の視線は、その声や言葉とは裏腹に、まるでひなの身体を上から下まで這い回るようで、どうしても恐怖感の方が先に立つのだ。

 五平は、舌で自分の唇を湿らすように舐めた。

「……なあ、知ってるかい、ひなさん。千早はさ──」


 囁くように言いながら、素早く手が伸びてきて、ひなの手を握った。


「……!」

 避ける暇もなかった。驚いて、振りほどこうとしたけれど、五平の手の平は執拗にひなのそれを握り締めて離さない。

 いや、とひなの中で悲鳴が聞こえた。

 胸に湧いたのは、自分でもどうしようもないほどの恐怖と嫌悪感だけだった。手から伝わる熱が、千早に対して感じた温かさとはまったく違う。安心するような気持ちは欠片もない。曖昧な躊躇いも振り捨てて、拒む強い意志がくっきりと目覚めた。

 五平はますますひなに向かって足を踏み出してくる。薄笑いを浮かべ、握られた手に力がこもった。もう一方の手が伸びてくる。

(こわい)

 声が出せないことが、これほど切羽詰って恐ろしいものだと感じたことはなかった。身が竦むほどに怖い。足が震えた。

(こわい。怖い。誰か)

 誰か助けて──


 ──我を呼ぶか?


「おい」

 低く抑えられた声が背後から飛び込んできたのはその時だった。

 同時に、五平がぱっとひなの手を離し、二三歩後ろに跳びすさる。くらりと眩暈がして、その場で膝が崩れそうになるのを、なんとかこらえた。

 今、頭の中で何かの声がしたように思ったけれど、気のせいだっただろうか。


「千早」

 上辺だけは愛想よく、でもどこか忌々しそうに、五平はその人の名を口にした。


「俺は言っておいたはずだがな、五平。下手なことをしたら、俺も三左も黙っちゃいねえぞって」

 すらりとした姿勢で立っている千早の表情も声音も、静かなくらいだった。脅すというよりは世間話でもしているように、つまらなさそうな無機質な瞳で、ぽきぽきと音を鳴らす自分の右手を見る。

「……それとも、実際に痛い目に遭わないと判らねえのかなあ」

 平坦な言い方なのに、背筋が冷たくなるような迫力があった。

「やだな、冗談はやめてくれよ、千早」

 五平は明らかにたじろいで、卑屈に笑いながらそのままさらに後ずさった。じゃあな、と一言だけ吐き捨てるように言って、くるりと背を向け走り去っていく。

 その後ろ姿を胸を撫で下ろしながら見送って、ひなは千早に向き直った。

 ありがとう、というつもりで頭を下げようとしたら、


「おい」

 と、さっきと同じ言葉を、今度は自分に向かってかけられた。


 しかもその声は、五平を止めるために出したさっきのものよりも、荒々しく尖っている──ような気がする。

 え、と目を瞬くと、千早にじろりときつい目で睨まれた。気のせいではなかった。どう見ても、怒っている。

 そういえば、不愉快そうな顔や不機嫌そうな顔は何度も見たが、千早がこんなにもはっきりと怒りを表に出しているのははじめて見る。千早の体つきや俊敏な動きは、しなやかな獣のようだと思ったことがあるけれど、一旦こうして怒りが明確に現われると、その印象は確信に変わった。威圧的な獰猛さ、誇り高さの片鱗が窺えて、怖いというより、美しい。

 少し見惚れてしまって、なんの反応も返せずにいたら、千早はますます眦を吊り上げた。

 訂正だ、やっぱり怖い。


「──お前、なんで俺を避けてんだ?」


 唐突な詰問に、ついぽかんとしてしまった。てっきり、自分の不注意さを叱られると思っていたので、台詞の内容を理解するまでにちょっとだけ時間がかかった。

 理解した途端、狼狽した。まさかそんなことを言われるとは予想もしていなかったので、咄嗟に繕うことも出来ない。

 顔を赤くし、大急ぎで首を横に振った。その否定を、「ウソつけ」と一刀の許に切り捨てられる。

「毎日俺のとこに来てるんだろ。なんで、いつもいつも俺が戻る前にさっさと帰るんだよ。今日だって、早めに帰ってきたら、今しがた逃げるように出て行ったって十野が言うから、追いかけてきてみれば五平なんかに捕まってるし。……なんなんだよ、一体」

 苛つきを隠すことなく千早は乱暴に言い捨てた。千早の口から「十野」の名が出たことに、一瞬、胸がちくりと疼く。

 ひなは十野に対してしたのと同じように「八」を指で作ろうとしたが、その前に、千早がぼそりと遮った。


「……俺、なにかお前を怒らせるようなことしたか」


 その言葉に、思いきり当惑した。自分の無礼さを、千早に不快に思われることはあるかもしれないとは思っていたが、こんな形で問われるとはまったく想像の範囲外だった。

 ちがう、というつもりで首を横に振ると、千早はますます口をへの字に曲げた。先ほどまでとは違って、今度はなんとなく、拗ねた子供のように見える。

「じゃあ、またなんか変な遠慮でもしてんのか」

 ちがう、とまた首を振ろうとして、思い留まった。千早と十野の間に遠慮している、といえばそうかも、と思ったからだ。ちょっと、違うような気もするのだが。

 どう返していいのかまごついていたら、千早はがしがしと自分の頭を掻いた。後ろでひとつに束ねられている髪の毛が、勢いよく揺れる。

「お前の考えること、俺にはよく判んねえよ。お前に親父の世話を頼んだのは俺だろ、なにを遠慮なんてすることがあるんだ? 俺、そのことでお前になんの礼もしてない。十野には、『あんた、また何か無神経なこと言ったかしたかしたんでしょう。さっさと謝りなさい』なんてガミガミ叱られるしよ」


 ああ、そうか、十野に言われて追いかけてきたのか──


 そう思ったら、胸の中を冷たい風が吹き通っていくような感じがした。無理矢理、口の端に笑みらしきのを浮かべたが、ダメだ、やっぱり上手に出来ない。だから会いたくなかったのに。

「……怒ってる、わけじゃねえんだな」

 確認するように問われて、こくんと頷く。

「俺を避けてるわけでもねえんだな」

 また頷く。嘘をつくのは少し苦しかったけれど、そうするしかない。

「──じゃあ、いい」

 ぶっきらぼうに言って溜め息をつくと、千早は突然ひなの手首を掴んで、引っ張るようにして歩き出した。

「帰るんだろ。送っていくから」

 また五平が現われたらと警戒しているのだろう。引きずられるようにひなもまた足を動かし、千早のあとについていく。

「ひな」

 と、前を向きながら、千早に呼ばれた。顔を上げると、振り向いた彼は今までの険を消して、ほんの少し目元をやわらげていた。

「明日は、ちゃんと俺が帰ってくるまで待ってろよ。十野が『たまには四人でご飯食べようよ』って言ってたんだ。新鮮な魚とか貝とか、たくさん持ってきてやるからさ。八重には、俺が今から言っておく。そうすりゃ心配することもないだろ」

「…………」

 さっきよりも随分と明るい口調だった。ひなの気を引き立たせようとしているのか、気まずい空気を和ませようとしているのか、どちらにしろ、そこには優しいものが含まれていた。


 ──でも、根本的なところで、千早は全然判っていない。


 強く掴まれた手首がじんじんと痛む。けれどそれよりも、胸の痛みのほうがよっぽど大きくて、ひなは強張った微笑のまま、それでもなんとか、頷いた。





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