千早(8)・七夜
船から降りて地面に足を着き、ふう、と軽く息をついた途端、背後から「頭」と声をかけられた。
振り返り、千早は少し驚いた顔になった。
「七夜。なんだお前、いつ戻ってきた?」
「さっき」
七夜と呼ばれた男は、そう言って懐手をしたままにっこりと笑った。
それだけで、随分と離れた場所で魚を干していた若い娘たちから、きゃあっと黄色い声があがった。七夜がその声に反応してそちらを振り向き、さらに笑って、その上に愛想よく手まで振ったりするものだから、娘たちの嬌声はますます甲高くなるばかりである。千早はうんざりして顔を顰めた。
「相変わらずだな、お前」
「勘弁してよ、頭。これが俺の生き甲斐なんだからさ」
七夜は悪びれもせず平然と答えた。
この男の特徴を一言で言い表そうとするなら、まず誰もが頭に浮かべるのが「美形」という言葉だ。千早だと、そのあとで、「女好き」とか「お調子者」とか「ちょっと変人」とかの言葉をくっつけるわけだが、残念ながら女たちにはそこまでは見抜けないとみえる。
通った鼻筋、涼やかな切れ長の目、そのくせ笑うと愛嬌がある。海育ちのわりに色もそう黒くなく、細身だが軟弱に見せない程度に筋肉もついている。全身から匂い立つ色気は役者さながらで、若い娘なら誰でも、一目で恋に落ち、夢中にならずにはいられない──らしい。本人の弁によると。
そんなことをいけしゃあしゃあと言うことからでも判るように、七夜というのは、自分の美貌を十二分に自覚して、しかもそれをなによりの自慢としているような男であった。
「俺みたいないい男は天下を探してみてもそうはいない」というのが七夜の口癖で、女に関しては、来るもの拒まず去るもの追わずといった無節操さ。しかしここまで堂々としていると、却って憎めないものなのか、女からも男からも恨まれたことはないらしい。タチは悪いが、不思議な魅力の持ち主であることは間違いなかった。
「船の手入れしてたんだろ? ちょっと船尾の板が割れてるってだけで、別にどこも壊れてもいなきゃ穴が開いてるわけでもないのに、ご苦労さんだね」
七夜は目を眇めながら海賊船を見上げ、感心するように言った。
島に戻ってきたのは「さっき」ということだったのに、さすがに耳が早い──と、千早のほうも感心してしまう。
「この船は羽衣島の命綱だからな。少しでも悪いところがあるなら早いうちに直してやらねえと」
小さい漁船の方だって同じように大切なことには変わりはないが、大きい船の方は一艘しかない上に、また同じ規模のものを用意しようとすると大変な手間と金がかかる。多少火矢を射かけられても大丈夫なくらいには頑丈な造りにはなっているが、それでも出来るだけ細々と手をかけてやるに越したことはない。
「だったら人を使ってやらせればいいじゃないか、あんた頭なんだし。なにもせっせと自分が修繕したり掃除したりしなくてもさ」
掃除をしているところまで見られていたらしい。自分ではこっそりやっていたつもりだったので、千早は少しバツが悪い思いで、指で自分の頬をぽりぽりと掻く。
「じゃあ、お前が手伝え」
誤魔化すようにわざと居丈高に言ってみたが、七夜は笑って、「やだよ」と断った。
「俺、そういう肉体労働は向いてないんだ。女相手に身体を使うのは好きなんだけどね」
「……あっそ」
にこにこしながら無邪気な声でそんなことを言われては、千早としても脱力するしかない。七夜は千早よりも年齢が上のはずなのだが、この顔を見ていると、とてもそうは思えなかった。もちろん本人が、意図してそういう顔を作っているのだろうが。
油断するとすぐに素が出てしまう千早には太刀打ちできないほど、七夜は「自分」を隠すことに長けている。
「女ってのは、どうしてお前みたいな奴にきゃあきゃあ言うのかね。そういう下品なことを言う男のどこがいいのか、俺にはさっぱりわかんねえけど」
「またまた。頭だって嫌いじゃないくせに。それに、頭だって女に人気あるでしょ、俺ほどじゃないけど」
「はいはい、お前ほどじゃないけどな」
「いやほんと、『千早さんなら金は要らない』なんて遊び女はいっぱいいるよ。女房も恋人もいないし、決まった女を作らないところが、またいいんだってさ」
「お前みたいに、決まった女をたくさん作るのも問題なんだよ」
「しょうがないでしょう、この顔は俺の唯一の取り柄で、自慢だもん。できるだけ多くの人間に見せたいじゃないか。皆を楽しませて俺も楽しいなら、何の問題もないってもんでしょ」
「お前は他にも取り柄や自慢があるだろ。なんでも聞きつけるその耳とか、馬鹿みたいに広い人脈とか、見てないようでしっかり見てる目とか」
「それは俺の仕事。自慢とは違うよ。──本島のほうは、ちょっとキナくさくなってきたね」
くだらない会話の流れのまま、七夜はにこやかな表情をまったく変えないで、さらりと言った。
「──……」
言葉を途切らせ、すっと緊張を走らせたのは千早のほうだ。
素早く周囲に視線を巡らすと、若い娘たちはまだ七夜のことをちらちら見ながらきゃっきゃっと賑やかに騒いでいた。距離が離れているから、こちらの声までは届かないことを確認し、ほっとする。
一瞬迷ったが、しかし結局、その場に留まりなんでもない顔で会話を続けることにした。確かに、こそこそと物陰に移動して話すよりも、このほうが目立たないに違いない。七夜はいい加減そうに見えて、そういう判断は千早よりも正確で、早い。
……だてに、幼い頃から長いこと特殊な仕事を任されているわけではない、ということだろう。
七夜はれっきとした羽衣島の住人だが、あまり島にいることはない。島の人間には「本島で仕事を持っているから」という説明をしていて、それは大筋で嘘ではないが、真実でもないのだ。
彼が羽衣島の貴重な「情報屋」だということを知っている人間は、この小さい島の中でも、ごく限られている。
「頭はもうちょっと、顔に出ない訓練をしたほうがいいね」
七夜に、くすくす笑いながら忠告された。
こいつ、絶対俺の反応を見るために突然話を切り出しやがった、と千早は思う。面白くはないが、もっともなので憮然とするしかない。
「気をつける。──で?」
「上のほうが、水面下で陰険な争いを続けてるのは変わらないよ。でも、そうだな……ほら、ちょっと以前から、三つに分裂して揉めてる家があったでしょ。今までは仲が悪いなりに、三家でなんとか均衡を保ってやってきてたんだけど、ここにきて、ひとつの家が崩れだしてね、それであとの二家が諍いをはじめちゃったんだ。なんとか話し合いくらいで事が収まればいいけど、そうならなければ、他のところにも騒動が飛び火しかねない。その場合、下手をすれば、こっちにもとばっちりが来るかもしれないから、心の準備をしておいたほうがいいかもね」
七夜は具体的なことは何ひとつ口にはしなかったが、千早は眉を寄せて腕を組んだ。
以前から揉めている三家、といえば名前を出されるまでもなく判る。この小さな島から見れば、雲の上くらいに隔たった場所にいる大きな一族だが、一旦争いが起これば、巻き込まれるのは間違いなく自分たちであるから、その動向には無関心ではいられない。
「崩れた、っていうのはどこだ?」
「重保のところ」
千早の問いに、七夜はあっさりとした口調でその家の当主の名を出した。
「そこはそこで、いろいろと火種を抱えてたらしいよ。詳しいことはさすがの俺でもよく判らないんだけど、とにかく何か不祥事があったことは間違いないらしくて、そこの武士が何人か、手討ちだか切腹だかで命を落としたみたい。それでそのゴタゴタの最中に、家督争いまで起こっちゃってさ、残りの二家はその混乱に乗じてあらゆるものを掠め取ろうと、お互いを牽制し合いながら我先に身を乗り出してる状態なんだ。なまじ地位や権力があると、大変だよねえ」
薄っすらと皮肉な笑いを浮かべながら七夜は肩を竦めたが、千早は重苦しい気持ちを、なんとか息に代えて外に吐き出した。
どうして上の連中というのは、現在自分が持っているものだけで満足できないのか、と思う。
両手に持っているものだけでは足りないのか。この上さらに欲張ろうとするのは、一体なんのためなのか。そうやって強欲に手を伸ばす代償として、踏みつけにしているものが人の命であることを、どうしてなんとも思わないでいられるのか。
向こうに言わせれば、こんな島ひとつを守るのに汲々としている千早の器が小さすぎる、ということなのかもしれない。しかし、自分の手の中に握っている、人々の命、生活、この先の人生、そういったものの重さを知っていれば、どうやったって慎重にならざるを得ないではないか。
それらを無視してまで、欲しいものはなんだ?
「……じゃあ、そっちのほうはまた動きがあったら知らせてくれるか」
「あいよ」
七夜は軽く請け負って、それから、「そうそう」と思い出したように付け足した。
「流されてきた娘の身元のことだけどさ」
──その瞬間、とん、と千早の鼓動が不規則に動いた。
そういえば、七夜にそれを調べておいてくれと依頼したのは、他ならぬ自分なのだった。今までそれを忘れてしまっていたことこそ、どうかしている。
だが幸いなことに、七夜は千早の内心までは気づかなかったようで、淡々と続けた。
「そっちはダメだね。わりと裕福な家で、最近娘がいきなり行方不明になったところ、なんていったら、多少は人の口の端にのぼったりするもんじゃない? なのに、いろいろ手を尽くして調べたつもりなんだけど、噂のひとつも聞こえてこない。あの娘、もしかしたら本島の人間じゃないのかもしれないよ」
そう報告する彼の顔は、少しだけ悔しそうだった。きっと、そんなのはちょっと調べれば簡単に判るだろうと、高を括っていたのだろう。
「……ふうん」
千早は素っ気ないくらいの声音で返事をした。
何も判らなかったという結果は、落胆したっていいはずのものなのに、自分の中にそういった類の感情がまるで湧いてこないことに、却って戸惑うくらいだった。
七夜がちらりと千早を見る。
「なんていったっけ、あの娘」
「ひなだよ。……なんだよ、お前が女の名前を覚えないなんて、珍しい」
からかうように言ってやると、七夜からは、「俺は自分に言い寄ってくる女にしか興味ないんだ」という言葉が返ってきた。
それはそれでどうなのだろう、という気がする。自分に言い寄ってくる女なら誰でもいい、という意味にも、結局興味があるのは自分だけ、という意味にも取れる。どちらの意味でも、七夜らしいが。
「それで、どうすんのさ、頭」
「どうするって?」
訊ねられたことの意味が判らずに問い返したら、思いきり呆れた顔をされた。
「何トボケたこと言ってんの。このまま、あの娘の身元が知れなかったら、どうすんだ、ってことだよ。あんた、最初は『もし記憶が戻らず、返す家も判らなかったら、本島のほうで相応の引き取り手を探す』なんて言ってたじゃないか。今もそのつもりでいるのかい。もし、そっち方面で根回しが必要なら、俺がしといてやるけど」
思わず、言葉に詰まってしまった。
そういえば、当初の自分は、完全にそのつもりだったんだっけ。千早自身、そういう場合は、女を押しつけられそうな家についての心当たりに不自由していない七夜に頼もうか、なんてことを考えていたくらいなのだ。
このまま記憶が戻らず、身元が判らなくても、間違いなく「あちら側」の住人であるだろう娘を、ずっとこの島に置いておくわけにはいかないから──と。
ここで千早が「頼む」と一言言えば、顔の広い七夜はすぐにだって、それなりの引き取り手を見つけてきてくれるのだろう。ひなはあの容姿だし、育ちの良さだって見るだけでも判るから、そこそこの家が喜んで養い先になってくれるかもしれない。
そうすれば千早は肩から余計な荷物をひとつ下ろせて、ひなだって、こんな島にいるよりもよほど豊かで平穏な暮らしを手に入れられる。双方共に、万々歳だ。
でも──
「……まだ、声も出せないしな。もうちょっと、様子を見てみるよ」
千早はぼそりと答えた。
どこが引き取り手になったとしても、ひなは安穏とした生活の代わりに、多くのものを失うだろう。政略結婚の手駒として使われるか、あるいは金持ちだが年寄りの愛人扱いにされるか。
贅沢に慣れた娘なら、こんな島で粗末に暮らすよりは、そちらのほうがよっぽど幸せだろう、と、つい最近までの千早は思っていた。
けれど、果たして本当にそれがひなにとっての「幸せ」なのか、現在の千早には、その判断がつかなくなっている。
──だって、今のひなは、あんなにも懸命にここで頑張って生きようとしているのに。
「ひょっとしたら、そのうち記憶も少しは戻るかもしれないし、さ」
我ながら言い訳がましく言うと、「そう、判った」と拍子抜けするほどあっさりと七夜は頷いた。
そして、綺麗な顔をちょっと意地悪く歪ませて、にやりと笑った。
「そうだよね、そのうち思い出すかもしれないよね。今みたいに、頭の家で、親父さんの面倒を見ている時にでもね」
「…………」
千早はしばらく沈黙してから、じろりと目の前の情報屋を睨んだ。
「……お前、『さっき』帰ってきたって、絶対ウソだろ」
少しだけ赤い顔になってそう言うと、七夜はひどく楽しそうに笑った。




