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ひな(7)・十野



 次の日、家のことを済ませてから、ひなは早速、千早の家に行ってみた。

 千早はいなかったが、話は通じているらしく、千船はひなのことを歓迎してくれた。けれど同時に、少しばかり申し訳なさそうにもしていた。


「いやあ、悪いね、ひなさん。俺の軽口を、あのバカ息子がまともに受け取りやがってさ。昨日あいつの口からこれを聞いた時には仰天して、なんでそんなこと言いやがった、って叱ってやったんだけど、『いや俺にもよく……』なんてことをもごもご言うばっかりでよ。あいつは時々、訳がわからねえ」


 そう言う千船は、本気で不思議そうに首を捻っている。

 けれど、ひなが来るようになったことについては、不満があるというわけではないようなので、ほっとした。

 様子を見に来るといっても、未だ万事において拙いひなの場合、さして病人の世話が要領よくやれるわけでもない。迷惑に思われるくらいなら来ないほうがいいということくらいは、自分だって弁えているつもりだ。


 とはいえ、夜具で横になっている千船の傍らに膝を揃えてちんまり座り、ひなはそれから少し困ってしまった。


 千船は今のところ、何も要求してはこない。そうすると、まず、自分は何をすべきなのだろうか。

 見回してみると、千早の家は男所帯らしく雑然としてはいたが、それなりに清潔だった。千早がやっているのか、近所の女衆が気をきかせて掃除をしてくれているのか、一瞥したところ、埃が溜まっているような場所もない。

 朝の食事はもう済ませているだろうし、晩の食事まではまだ時間がある。千船の枕元には、桶に入った水と手拭い、瓶子に入った飲料用の水がきちんと準備されて置いてあって、そういう点でも手を出せるようなことがないのだった。千早はきっと、こういったところでも気の廻る青年で、息子なのだろう。

 困ったまま土間の方まで視線を移せば、そこには漁師らしく、銛や網、縄などが置かれてあった。けれど、同じ場所に同じように無造作に、刀が二振り立て掛けられてもあることに気づいて、ひなは少し驚いてしまう。

 ずっしりと重量のありそうなその刀は、柄の部分に布が巻いてあり、そういう無頓着さが、却って随分と荒々しい印象を受けた。よくよく気づいてみたら、筒に入れられた矢などもあって、そういうのを見ると、今までぼんやりと捉えていた「海賊島」という言葉が、にわかに真実味を帯びて立ち上がってくるようだった。


「──……」

 かちりと頭の中を何かが掠めていったが、ひなは強く瞬きをして、それを振り払った。すぐに、そこからまた目を逸らす。

 なにか別のことを考えなければ。


 逸らした先にあったこの家の囲炉裏は、いい感じに使い込まれていて、周囲もきちんと片づけられていた。そういえば、普段の食事はどうしているのだろう、とふと思ったら、

「飯は、いつもは千早が作ってくれてるよ。あいつがいない時には、誰かが持ってきてくれるんで、遠慮なく馳走になってる」

 まるで心の中を読まれたように返事をされて、弾かれたように振り返る。

 千船は楽しそうな笑顔を浮かべていたが、ひなは恥じ入って顔を赤くした。もともと千船の観察眼が鋭いというのもあるかもしれないが、それにしたって、あまりにもぶしつけに、家の中をじろじろと見すぎていた。

 ひなのその様子を見て、千船はさらに笑った。「そういえば」と言って、ふいに瞳に悪戯っぽい光を湛える。

 髭があるし、千船のほうが全体的にがっちりしているからぱっと見た感じでは判らないが、そういう顔をすると、この人物は、驚くほど千早とそっくりなのだった。いやこの場合、千早が父親に似ていると言うべきか。


「ひなさんは、なかなか料理の腕が見事なんだってな。千早のヤツがよ、『いいか、これだけは言っとくが、ひなが飯を作るって言い出したら、なんとしても阻止しろよ。食ったら死ぬぞ』なんて念を押すように言っててさ」


 くっく、と千船は苦しそうに笑い転げている。そんなに笑って身体に障るのではないかと心配になるくらいだが、ひなとしては、ひたすら真っ赤になってじっとしているしかない。

 この父子は、顔だけでなく、そういうことで楽しむところもよく似ている。

 そしてもうひとつ、新しい発見をした。千早は、結構しつこい。

「ああ見えて、千早はかなり器用だし、料理も案外手際がいいんだぜ。ひなさんも、ヤツに教わってみちゃどうだい」

 千船が面白そうに言ったが、ひなは少しだけ頬を膨らませ、首を横に振った。確かに、千早は腰軽くてきぱきと物事を進めることに慣れていそうだから、料理だって片づけだって、ひなよりもよっぽど手早く上手に出来るのだろう。でも、他の誰に料理を習っても、千早にだけは習いたくない。

 ひなのその顔を見て、千船がまた笑い声を立てた時、


「──あら、おじさん、今日はやけに上機嫌なのね」

 という声と共に、入り口にかけられている筵がぱっと跳ね上がり、そこからひょっこりと若い娘が顔を覗かせた。


「おう、十野か」

 千船の明るい言い方で、その女性が、知己の人物なのであると判る。そもそも、千船のことを「おじさん」というくだけた名で呼ぶ人を、ひなははじめて見た。

 とおの……と胸の中で、名前を繰り返す。

 娘は、慣れた様子で家の中にすたすたと入ってくると、ひなに目を留め、

「あらっ」

 と驚いた顔をした。

 初対面の見知らぬ人間に対する警戒心をまるで浮かべず、すぐににっこりと笑って見せた彼女は、それだけでもう、誰からも好かれるであろう天性の人柄の良さを感じさせる。

「ひょっとして、ひなさん、じゃない? 島に流されてきたお嬢さん。ちがう?」

 島に流されてきたお嬢さん、と言った時の彼女の声音には、なんのこだわりも、皮肉も込められていなかった。にこにこと笑う表情にも、人懐っこさと、屈託のなさしかない。

 だからひなは、多少勇気を振り絞って、微笑んで頷いた。

 それを見た十野がさらに笑みを深める。

 そしてまた口を開いたのだが、しかし、今度はすごかった。


「やっぱりそうなの。こんにちは、あたし、十野っていうのよ。よろしくね。齢はね、十七になるから、ひなさんとそう変わらないってくらいかしら。話には聞いてたけど、会うのははじめてよね。ひなさんはお裁縫が上手だって聞いて、あたしも一回ご挨拶がてら、おうちに行こうかなあって思ってたのよね。ほら、あたしってわりと粗忽なもんだからさ、お母ちゃんがお前もこの機に縫い物を習っておいでなんて言ってさ。まあでも、そうじゃなくてもちょっとお喋りくらい出来たらいいんじゃないかって思ってね、でも手ぶらで行くのもナンだしさ、なにか手土産をぶら下げていこうか、何を持っていこうと考えてたのよ。ほら、三左も千早も、そういう方向にはてんで気のきかない男たちだからさ、せめて同じ年頃のあたしが若い娘らしい彩りっていうか華やぎを──」


「おいおい、十野」

 千船に遮られ、十野はようやく、はたと口を噤んだ。

 目の廻る思いでなんとか必死に十野の話についていこうとしていたひなも、やっと人心地つけて息を吐く。八重といい、この羽衣島の女性は、全員がこのように早口で話し好きなのだろうか。

「あー、眩暈がする。お前、興奮すると喋るのが止まらなくなるのは、子供の頃からちっとも直らねえな。おっ母さんにも、それでしょっちゅう怒られるんだろうが。俺もひなさんも、そんな風に息を継ぐ暇もなく喋られちゃ、口を挟む隙が一分もありゃしねえ」

 そもそも言葉を話せないひなには口を挟めないわけだが、千船に言われて、十野は照れ笑いをした。

「あはは、ごめんねえ。千早のやつにも、いつも散々文句を言われてるんだけどさ、癖っていうのはなかなか直らないのよ。ごめんね、ひなさん、びっくりしたでしょ」

 ひなは笑顔を浮かべ、首を横に振った。ひな自身は、八重のように、二太や三太のように、そしてこの十野のように、よく喋り、よく笑う、気性の明るい人は大好きだ。

 それに、十野の言葉には、ひなへの好意や気遣いが端々に感じ取れて、それが素直に嬉しかった。口が生き生きと動くたび、大きな瞳までもがくりくりと動くさまは、とても可愛らしいとも、思った。

 ただ。


 千早のやつにも、いつも散々文句を言われてる──


 という部分を耳にした時、なぜか、大きな塊が一気に胸につかえたような気分になってしまっただけだ。

「で、なんで、ひなさんがここに?」

 ひなの内心とは無関係に、十野はさっさと千船の傍にまで来て腰を下ろすと、今になって話を本来あるべき筋に戻した。

 最初、ひなに向けて問いかけようとして、あ、という顔をし、改めて千船のほうを振り向く。口がきけない、ということはちゃんと知っているようだ。


 ……千早が話したのかもしれない、とひなはそれを見て思った。


 自分の父親に対して話すように、ひなのことを、料理が下手だなんてそんなことまでも、全部彼女に話しているのだろうかと思ったら、再び胸にずしんと重い衝撃が走って、落ち着かなくなった。「それがよ、千早が……」と千船の説明する声も、ろくろく耳に入らない。

「あらまあ、いくらひなさんが美人だからって、自分の父親の世話を頼むなんて、図々しい」

 話を聞いて、呆れたように十野はそう言ったが、ひなはますます胸が痛んできた。十野に他意はないと思うけれど、その台詞は、ひながこの島では部外者であることを強調されているようだったからだ。

 十野は、くるりとひなのほうを向いた。

「ひなさん、いくら島の頭代理だからって、千早の言うことなんざ、そうそう真面目に受け取ることないのよ? 今はあんな偉そうにしてるけど、ちょっと前までは、手のつけられないただの悪餓鬼だったんだから。あたしもさあ、昔は仲良く遊んだもんだけど、今じゃ『女には関係ない』って、こうよ、こう! まったく生意気よね」


 ひなはなんとか、ぎこちない笑みを返すので精一杯だ。大丈夫だろうか、強張ったりしていないだろうか、と我ながらはらはらする。


「おじさんもさあ、なんとか言ってやりなさいよ。ひなさんはまだ、この島にだって慣れてないのに」

 千船に対しても遠慮なく文句を言う十野の姿を見て、ひなは不安になった。

 千船がこれを聞いて、「そうだなあ、やっぱりもう来なくていいよ」なんて言い出したらどうしよう。せっかく、少しは千早の役に立てるようなことが出来ると思っていたのに。

 もともと、やらせて欲しい、という意思を表明したのは自分のほうで、どちらかといえば、千早は渋々それを了承したという感じだった。さしたる助けにはなれなくても、出来るだけのことはしたいと思って張り切っていたひなだが、千船本人からはっきり必要ないと言い渡されてしまったら、もうどうしようもない。

 寝ている千船の枕元に座り込んでぺらぺらと話し続けている十野の着物の袖を、ちょんちょんと引っ張ってみたが、気づいてはもらえなかった。言葉はなくても意思の疎通が出来はじめてきた八重などとは違って、今しがた会ったばかりの十野に、自分の思っていることを上手いこと伝えられるかどうかも自信がない。


 でも、このまま事態をぼんやりと眺めているのは、嫌だった。


 十野の話を聞きながら、千船の視線は、おろおろと手を小さく振ったり首を振ったりしているひなのほうに据えられている。

「……千早が決めたことなんでな、十野」

 一瞬途切れた十野の話の合間を見計らって挟まれた千船の声は、断固とした響きがあった。

「ひなさんが自分から来てくれてる限り、俺はなにも言ったりしねえよ。それに正直言えば、俺だって、ひなさんみたいな若くて可愛い子に世話を焼かれるのは、そりゃもう嬉しいしよ」

 にやりと笑う千船の言葉は、どこまでが本心なのかよく判らなかったが、十野はますます呆れた顔になった。

「なに言ってんだかね、この助平親父は。──こんなこと言ってるけど、いいの? ひなさん」

 問われて、ひなはこくりと大きく頷く。

「嫌々じゃなく? 千早に、無理強いされてるわけじゃないの?」

 真っ直ぐに十野を見返し、しっかりと、また頷いた。

「そう……」

 呟くように言った十野の瞳に、一瞬、何か温かなものが混じった気がした。


 八重や三左の瞳によく見られるもの。ほんの時々、千早の瞳にも現われるのと、同じものだ。


 十野はひなに向けてにっこり笑った。

「じゃあ、あたしもちょくちょくここに来ることにしよう。そうしたら、ついでにお裁縫も習えるしね。おじさんはすごく手のかからない病人だからさ、ついてる間、ちょこちょこっとあたしに教えてくれる?」

 言われた内容に、ひなは少し戸惑ってしまったが、千船が陽気に同意した。

「そりゃいい。ひなさんは、島の連中にも針仕事頼まれてるんだろ? そいつも持ってきて、ここでやるといい。十野はなにしろうるさいから、やたらと気が散るかもしれないけどな」

「えっ、なによ、他の連中、ひなさんにそんなこと頼んでるの? 厚かましいったら──そういえば、あたしもさあ、着物をいくつか仕立て直したいと思ってて」

 憤慨したかと思えば、けろりとした声でそんなことを言い出す十野は、本当に憎めない性格をしていた。ひなも、ここは素直に笑ってしまう。

「言っておくが、習うんでも、仕事を頼むんでも、ちゃんと手間賃は払えよ、十野」

 千船が釘を刺すように言うと、十野はきょとんとした。

「何言ってんのよ、あたりまえじゃないの、そんなこと」

 と言い返すその声には、なんの疑問もない。

 ああ──とそれを見て、ひなは思った。思ったというか、納得した。心から。


 きっと、千早は、十野のような人とこそ、お似合いだ。


 何を考えるよりも先に、どんな説明を聞くよりも先に、ひなの心はそうやって、納得してしまった。

 納得してしまったから、ひなの中で形をとりつつあった何かは、そこで立ち止まらざるを得なかった。中途半端な位置で、自分でもまだ完全には自覚していない気持ちに蓋をして、それ以上進んでしまわないように、止めてしまうしかなかった。

「じゃ、今日のところは帰るわ。また来るからね、ひなさん、おじさん。じゃあね!」

 すっくと立ち上がって、十野はきびきびと別れを告げると、来た時と同様に、元気に家を出て行った。

 彼女が出て行ってしまうと、家の中はたちまち静かになった。千船が苦笑しながら、ひなのほうを向く。

「あの十野と千早は、昔からの仲良しでね。家が近いし、千早の母親とあの子の母親が縁続き、ってこともあってさ。十野のほうが年下なんだけど、千早なんざ、今でもあの調子でよくガミガミ叱られてて、『あのお喋りには閉口だ』なんて、うんざりしながら零してるぜ」

 ひなはそれに、微笑んで頷いた。

「千早と十野を添わせようなんて話もあって、その時は二人とも満更じゃない感じだったように見えたんだがなあ」

 笑いながら続けられた言葉に、ひなはもう一度、ゆっくりと頷いた。

 口許にあるほのかな笑みは、不自然なほど、微動だにしなかった。





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