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千早(7)・重なる足音



 山を下りたら、どちらからともなく、繋いでいた手を離した。

 自分が手から力を抜いたような気もするし、ひなのほうからするりと手を抜いたような気もする。いや別に、そんなことはどうだっていいのだが。

 なんとなく無言になって、今度は平坦な道を、二人でひなの家に向かって歩く。千早が先に立って、ひなが少しだけその後ろに続いた。


 自分たちが一緒に歩く時はいつもこうだな、と千早は心の中で呟く。別にいいんだけど。いいんだけど、でも──


 内心もやもやと蠢くものがありながら、それでも千早の足は止まらないままだった。止まらず歩き続けるものだから、当然、二人の距離はまったく縮まらない。それどころか、ひなは少し急いで歩いているくらいだろう。千早にとっては普通の速度でも、彼女にとってそうではないことは、つい先ほどの山の上り下りで判った。

 どうして今になってそんなことに気づいてしまったんだ、と舌打ちしたいような気分になってしまう。先日、ひなを自分の父親に会わせるために連れて歩いた時は、そんなこと考えもしなかったのに。

 考えもしなかったから、あの時、ひながどんなに必死になって自分に置いていかれないように、後ろをついてきているのかなんて想像もしなかった。だから、彼女のほうを振り向きもしなかった。

 でも、こうして気づいてしまったら、千早は嫌でも自分の歩く速度を落とさざるを得ない。足は止めないけれど、ひながゆっくりとついてこられるように。

 それでも、何かが違うような気がする。しっくりこない。もぞもぞして、落ち着かない。こんな風に、歩きたいわけではないのだ。

 自分が今したいのは、こんなことじゃなく。


「……ひな」


 名を呼んではみたものの、取り立てて何かを話そうと思ったのではない。後ろを向けば、ひながもの問いたげな顔で続きを待っているだろうことくらいは推測がつくから、前方を向いたまま、千早は素早く頭を回転させた。

 何を言おう?


「あのさ……お前、俺の親父が床に臥せってるの、知ってるだろ」


 舌に乗せてしまってから、すぐに後悔した。こんなことを口にする気はなかったのに、自分たちに共通の話題というと、それくらいしか思いつかなかったのだ。

 ちらりと後ろに視線をやってみれば、ひなは真面目な表情でこっくりと頷いている。その顔を見たら、ますます中途半端なところで話を打ち切るわけにはいかなくなってしまった。

 ぽりぽりと頭を掻く。しまったなあ、とは思ったものの、一旦はじめてしまった以上、続けるしかない。


「あれは、病気っていうか、腹に受けた刀傷が元でさ、身体の中の臓腑がイカレちまったんだよ」


 刀傷を受けることになった詳細については、特にひなの耳に入れることはないだろうと判断して、省略することにした。

 自分にとっても、その記憶は苦いものでしかないから、あまり積極的に話したいわけでもない。

「あの親父も頑固なんで、なるべく自分のことは自分でしたいと思ってるようなんだけどな。起きたり歩いたりも出来るんだけど、それも、人の手を借りなきゃちょっと難しくて。俺がいつも傍にいられりゃ一番いいんだろうけど、そういうわけにもいかねえから、普段は近くに住む女衆が交代で面倒をみてくれてるんだ」

 ああそうだ、どうしてこんな話を始めてしまったのかといえば、あの父親が、ひなと会ってから、冗談交じりにつるっと口に出していた言葉が、千早の頭にあったからだ。


 あんな可愛いお嬢さんが時々顔を見せに来てくれたら、俺もそれだけで元気になれるってもんだがなあ──


「それでさ、親父の奴、この間会ってから、えらくお前のことが気に入ったみたいで……もし、お前にその気があったら」

 そこで千早は口を噤んだ。今の自分が、ものすごく取り返しのつかないことを言おうとしていることだけは判るから、かなり躊躇する。

 やっぱりここから強引に別の方向に話を変えちまうか、とこっそり考えたところで、ぱっと、目の前にひなが飛び出してきた。

 千早の前に立ったひなは、ぽんぽんと自分の胸の辺りを手で叩き、それから、千早の家がある方向を指で指した。

 何かを頼みこむように頭を下げ、真っ直ぐに千早の顔を見る。

「…………」


 やめてくれねえかなあ、異様に張り切ったような、その顔。


 そんなのを見てしまったら、「いや冗談だから忘れてくれ」などとはもう言えやしない。この場合、馬鹿なのはもちろん千早自身であるわけだから、なんとか深い溜め息をつくのを押し殺す。

「……悪いな、頼まれてくれるか」

 しょうがなくそう言うと、ひなはにっこりと嬉しそうに笑った。

 なんだよ、そんな顔も出来るのかよ、とまた思う。動揺が顔に出ないように、かなり苦労した。ひなは笑うと随分と幼く見えるんだな、という発見もあって、尚更どういう態度を取ればいいかよく判らない。

 しかし、早速ひなが千早の家に向かおうとしたのには驚いて、慌てて引き止めた。


「いやいや、待て、別に今すぐじゃなくていいんだよ。っていうか、お前の手が空いてる時に、ちょっと様子を見に行ってくれたりする程度でいいんだ。俺は時に二、三日くらい島を空けることもあるから、そういう時とか。あの通り、口は達者な親父だからさ、して欲しいことがあったら自分で言うから、それを聞いてやってくれるか」


 ひなは、それを聞いてがっかりしたような顔をしたものの、こくりと頷いた。ほっとする。

「……じゃ、お前ん家に帰るか」

 何もしていないのに疲れて、千早は肩を落として息を吐きながら、ようやく話をそこまで戻した。何も言わずに歩き続けていれば、何事もなくひなの家に到着していたのに、どうしてこんなことになってしまったのかと、自分自身不思議でしょうがない。

 ひなは大人しく再び頷いて、歩みを再開させた。


 さっき千早の前に出てきたからか、今度は、ごく自然に自分の隣に並んで。


 ざく、ざく、と砂を踏みしめる音が重なる。さっきまではてんでバラバラだったそれが綺麗に揃うのは、千早が、それと意識しなくとも、ひなの足並みに合わせるようにして歩調を緩めることが出来るようになったからだ。


 自分の後ろではなく、隣にいるから。


 黙って二人で足を動かしていると、ふと、ひなが千早の着物の袖に目を止めた。

 ちょん、と袖の端を引っ張るようにするので、ん? と自分の着物に視線を移してみれば、袖先の辺りが小さくほつれていた。そんなことはしょっちゅうなので、気にも留めていなかったのだが、ひなは微笑んで、自分の指で針を動かす真似をした。縫ってくれるということらしい。

「これかあ? 別にいいよ。そんなに大きいもんじゃないし、どうせ縫ったって、すぐに破れるしよ」

 無造作に返すと、ひなはちょっと口を結び、首を横に振った。ほつれた箇所を指で指し示し、そのまま一直線に動かす。ここがほつれると、破れ目が広がるのはすぐだ──と、言っているのは、千早にも判った。同様のことは、今までにも何回か経験がある。

「お前、ホントにこういうことは詳しいんだな。魚は炭にするくせに」

 感心しながら余計なことまで言うと、ひなは赤くなって、自分の顔の前で急いで手を振った。

 もうあんなことはない、と言っているのか、それとこれとは関係ない、と言っているのかは、微妙なところだ。

 可笑しくなって声を立てて笑ったら、ひなは少し恨めしげに見やってきたが、しばらくして自分も可笑しくなったらしく、ふわりとした笑顔になった。


 声が出たら、さぞかし鈴の鳴るような笑い声が聞けたんだろうなと思うと、ちょっと残念だった。


 そういえば、こんな風に、ひなと笑い合うのははじめてのことだ。

 ──なんだ、そうか、と納得する。


 結局、自分はこうして、ひなと並んで歩きたかっただけなんだ。


 前と後ろなんて、そんな不自然なものじゃなく。隣同士、ちょっと顔を動かせばひなの姿が視界に入る場所で、彼女の呼吸の音が聞こえてくるくらい近くで。

 最初からこうしていれば、あんな余計なことも言わずに済んだのにな、という後悔はあったものの、かといって、もう撤回する気にもなれなかった。



          ***



「あっ、ひな!」

 ひなの家にまで来ると、賑やかな二太と三太の兄弟が大声を上げながら駆け寄ってきた。

「どこに行ってたんだよー、ずっと姿が見えないから、俺たち、心配してたんだぞ!」

「千早、お前がひなを連れ出したのか! 俺たちに黙って勝手なことするなよな! この女ったらし!」

 ひなは困ったように笑って二人に謝る仕草をしたが、顔を見るなりぎゃんぎゃん責められた千早は目元が引き攣ってしまう。

「……お前ら、あんまり生意気なこと言ってると、海に放り込むぞ?」

 二人の耳を引っ掴んで脅してやると、兄弟は悲鳴を上げながらひなの背中に廻った。それはいいが、千早から逃れた途端、今度は揃ってひなの耳にひそひそとろくでもないことを吹き込み始めるから、タチが悪い。

「ひな、千早の奴に、なんにもされなかったか?」

「危なかったな。気をつけろよ? あいつ、ああ見えてけっこう女遊びが激しいって評判だからな。本島のほうでもな」

「こら待て、お前ら、いい加減に──」

 さすがに少し焦って足を踏み出しかけたところで、後ろから「頭」と新たな声がかかった。なんでこうも揃ってやがる、と思わず手で顔を覆いそうになったが、観念して振り返る。


「よ、よお、三左」

 ちょっとだけ強張った愛想笑いになってしまうのは、いかんともしがたい。


「……今まで、頭と一緒にいたんですか」

 問いかけがなんとなく詰問めいて聞こえるのは、三左のもとからの強面のせいだ。多分。その質問に、これといって他意はない、はずだ。……多分。

「おう。悪かったな、心配させたみたいで。一言言っておきゃよかったな。ひなも、この島のこと、多少は知っておいたほうがいいかと思って、ちょっと案内してやってたんだよ」

 ことさらになんでもない口調で言った。その言葉のどこにも嘘はないのに、どうしてこんなに気を遣ってしまうのだろう。

「そうですか……」

 睨まれてる、わけじゃないよな、これが三左のいつもどおりの顔なんだよな、と千早は一生懸命自分に言い聞かせた。声がやけに低く聞こえるのも、別にいつものことだしな。

「ええっと、あのよ三左、ちょっと言っておきたいことがあるんだけど」

 ひなが二太と三太に手を引かれて連れて行かれるのを横目で見て、千早は三左を手招きした。

 三左の顔が怖いのは今に始まったことじゃないのだから、気にしないことにしよう、と決意する。


「島の連中が、ひなのところに縫い物を持ち込んでる件でさ」


 千早がそう言っただけで、三左は、ああ、と了解したように頷いた。しかし、それをすべて「善意」だけで引き受けている、という話についてはやっぱり初耳であったらしく、驚いて目を見開いた。

「それは……知りませんでした。俺は、てっきり」

「うん、まあ過ぎたことはいいとしてもさ。どうしようかと思ったんだけど、やっぱりこういうことは、俺やお前より、八重が適任だと思うんだよな。八重から、『人に頼みごとをするんなら、それなりの手土産くらい持ってくるのが常識ってもんじゃないのかい』なんて叱り飛ばしてもらったほうが、却って話が穏当にいきそうな気がするだろ。ま、金でなくても、多少の食い物かなにかでいいと思うんだけど、ひなにも、仕事する以上、見返りはきっちり受け取れって言っておいたから。お前、八重に会ったら、このこと伝えておいてくれるか」

「はい」

 返事をしてから、三左は窺うように千早に視線を向けた。

「しかし、頭は、てっきりこういったことに反対なさるもんだとばっかり思ってましたが」

「あー……うん、まあ、諸手を挙げて賛成ってわけじゃねえけど」

 言葉を濁したのは、やっぱり未だに、千早の中には、拮抗するふたつの感情があるからだ。

 八重と同じく、ひなの自立を手助けしてやりたい気持ちと、あの娘は結局、身分違いのお嬢さんで、いずれはこの島を出て行く身だという気持ちと。


 しかしもう以前のような、ひなを切り捨てるような振る舞いは、自分には出来ないだろう、ということくらいは自覚がある。


「まあ──とりあえずは、本人のやりたいようにやらせてみるさ」

 千早の軽い言い方をどう思ったのか、三左は少しの間無言だったが、やがてゆっくりと頷いた。

「……ああ、それと、ひなに、うちの親父の面倒を見る手伝いをしてもらうことになったからよ」

 かなり意図的についでのように付け加えたのだが、三左の顔が固まったのを見て、千早は大急ぎでその場から退散することにした。余分な説明はしないに限る。自分にだって、どうしてそんな成り行きになったのか、今ひとつ判らないというのに、理の通ったことなんて言えるはずがない。

「そういうことなんで、よろしくな。じゃあな」

 片手を挙げて踵を返したが、自分の背中に向けられる三左の視線が痛かった。

 その視線を感じながら、胸の中でひとりごちる。ひなが悪夢にうなされていたことや、ぽろぽろ涙を零していたことなんかは、三左には言わないほうがいいんだろうなあ、やっぱり。

 余計に、変な誤解を受けそうだ。ひながはじめて笑ったところを見たとか、手を繋いで山を登ったことなんかも、もちろん言わないでおこう。返ってくる反応が怖い。


 「間違っても、あの娘には惚れるなよ」と、何度も三左に向かって言った自分の言葉が、今になって千早の頭の中で反響していた。





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