千早(6)・掴む手
適当に時間を潰してからひなの家に戻り、大人しく眠っているかどうかだけを確かめるために、ちらりと出入り口に掛かっている筵を押し上げ覗いてみれば、夜具の中で苦しそうに身を捩じらせているひなの姿があった。
それが、この島に来た最初の夜に高熱を出して苦しんでいた様子にそっくりだったものだから、千早は驚いて一気に筵を跳ね上げ、足早に彼女の許へと近寄った。
「おい、ひな?」
枕元に腰を屈めて覗き込み、声をかけるが、ひなは荒く短い息を忙しなく口から吐き出し続けるだけで、目を開けようとはしない。
そっと額に触れてみたが、熱はなかった。どうやら、悪い夢でも見てうなされているようだ。
苦悶するように細い眉が中央にぎゅっと寄せられ、額には珠のような汗がいくつも浮いていた。声の出ない唇からは掠れるような息遣いが間断なく漏れて、華奢な指が上掛けを強く握り締める。
頭を動かすたび、着物の合わせ目から覗く、汗ばんだ白い首筋がのけ反るように強調された。
──その姿が、いつものひなとは違って、非常に艶めかしく扇情的であったものだから、千早は我知らず息を呑んだ。
自分の喉が鳴るのを意識する。そんな場合でないことは承知だが、千早だって若い男だから、ふいに立ち上がってくる情欲ばかりはどうしようもない。
本島で遊び女を相手にする時とは違う胸の高まりがあって、落ち着かなかった。添い寝をするとか襲うとかいったさっきの軽口が、やけにしつこく頭の中でこだまして、そんな内容を口に出したことを後悔したほどだ。
それでもなんとか、残る理性で無理矢理のようにそれを抑えつけ、千早は「ひな」ともう一度、名前を呼んだ。
呼んではみたが、今の彼女の耳には、その声は入らないようだった。もともとこの名前は仮の名前であって、この娘の本当の名ではないのだから、眠っている彼女の意識までは届かないのも無理はない。
古来より、真名はその人間を支配するほどの力があると言われるが、逆に言えばいくら仮の名を呼んだって、悪夢を吹き飛ばすような効力はないのかもしれなかった。
一体、どんな夢がこれほどこの娘を苦しめているのだろう、と思う。眦の端には薄っすらと涙が滲み、強く握り締める拳は震えてすらいる。
口は助けを求めるように何度か動いたが、そこから言葉が紡ぎ出されることはないのが、尚更痛ましい。
(ひょっとして、攫われた時の夢でも見てんのか)
一度そう思いついたら、今度はかなり堪らない気分になった。
一部の外道集団が、攫ってきた女相手にどれほど酷い仕打ちをするかなんて話は、この地域では昔から日常的に耳に入ることだ。同じ海賊業とはいえ、この羽衣島のようにのんびりとした気質とは、まったく相容れないものがそこにはある。
ひなも多分、大なり小なり手荒い扱いを受けたのではないか──というのは、千早だって以前から考えていたことだが、せっかく失われているそういう辛い記憶が、夢の中で甦り、彼女を責め苛んでいるとしたら、そんなに救われないことはない。
千早は少し息を吸うと、腹に力を入れ、再び呼びかけることにした。今度こそ、ひなを悪夢の中から引っ張り出すために。
「ひな! おい、大丈夫か?!」
それでようやく、ひなは目を覚ましたようなのだが、出し抜けに起き上がったと思ったら素早く両手で自分の顔を覆って、その様は随分と尋常でないもののように思えた。どうやら、現に戻ってきたからといって、悪夢は完全に彼女を解放したわけではないらしい。
「おい、どうした」と言葉をかけてじっと窺っていると、その格好のまま身体を小刻みに震わせていたひなは、しばらくしてからやっと、息を詰めたようにそろそろとこちらに顔を向けた。
千早と目を合わせた途端、黒い瞳に、安堵の色が浮かぶ。
自分もそれを見てほっとして、続けて声をかけようとしたのだが、口から出る寸前でそれを飲み込んだ。
──ふいに、ひなが、ぽたぽたと涙を落としはじめたからだ。
何をするにも唐突なやつだな、と千早が驚いたのはそういう理由で、涙を流したこと自体には、そんなに驚かなかった。むしろ、驚いているのがひなのほうであったのが、よっぽど意外だった。
ひなは自分の涙を自分の指で拭い取ると、それをまじまじと見つめた。自分が、どうして泣いているのかよく判らない──とでもいいたげな、不思議そうな表情で。
しかし、その幼子のような仕草に、千早は却って胸を衝かれた。
島に流されてきてから今まで、ひなはこうして涙を流したことなどあったのだろうか。
自分はずっとひなの身近にいたわけでもない。むしろ、意図して距離を置いていた。そんな千早の前で、彼女が涙を見せなかったのは当然だ。
とはいえ、じゃあ、三左や八重の前ではこんな風に無防備に泣いていたのか、というのも疑問だった。そうだとしたら、こんな顔で自らの涙を訝しそうに見たりはしないだろう。
ひなはそれほどまでにずっと、この場所で一人きり、心を張り詰め続けていたのか。……泣くことさえ、忘れてしまうほど。
そう思うと、千早だってこたえるものがある。そこまで彼女を追いやったのは、間違いなく千早自身なのだから。
けれど、ひなは、長く泣くことを続けなかった。濡れた頬を自分の着物の袖でぐいと拭うと、そこにはいつものように少し頼りなさげなほっそりとした面があるだけで、もうその目から涙は出ていなかった。
「……夢、みたのか」
静かに問いかけると、ひなはこくんと頷いた。わずかに恥ずかしそうにしているのは、うなされているのを千早に見られたことに対してなのだろうか。
「……何か、思い出したか?」
その質問には、ひなは俯いたまま少しだけ間を取り、その後で首を横に振った。それから、謝るように頭を下げる。「自分の身元が明らかになるようなことは思い出さなかった」、という意味で返事をして、千早に対してそれを詫びてもいるらしい──ということをその時になって気づいた。
そういう意味で聞いているのではないのだが、まさか直截に「自分が何をされたのかを思い出したのか」と訊ねるわけにもいかないので、千早は口を噤むしかない。
うーん、と心の中で唸りながら、眉を寄せ、腕を組む。
……何かを言いたいし、したいのだが、その「何か」が、自分でもなんなのか判らない。
罪悪感めいた気持ちもあるし、自分の前ですぐに泣くことをやめてしまったひなに対して、妙に苛立たしいような気持ちもある。彼女を可哀想に思う気持ちはもちろんあるが、かといってそれを率直に表に出すほど、千早は素直な性格でもない。
一言で言うと、千早はひなに対して、どういう態度を取ればいいのか判らないので、当惑しているのだった。だったら今までのように放っておけばいいような気もするのだが、なんだかそれも自分の中で抗うものがある。
「少しは、寝不足が解消できたか?」
あれだけ夢にうなされて、解消も何もあったものではないだろうとは思ったが、そう問うと、ひなはこっくりと頷いた。
まあ、どちらにしろ、今の今で再び寝ようという気は起こらないだろう。よし、と思って、千早はすっくと立ち上がる。
──どうすればいいのか判らないのなら、せめて、今の自分が思いつくことをしよう。
それが、ひなにとって特に救いにも助けにもならないようなことでも。自分にも、そうすることの意味がよく判らなくても。
「じゃあさ、これからちょっと俺に付き合わないか」
突然の申し出に、ひなは目をぱちぱち瞬いた。首を傾げ、意味を問うような仕草をする。
「お前も、この島のこと、少しは知っておいたほうがいいんじゃないかと思ってさ」
今の今までそんなこと思ってもいなかったのに、実際に口にすると、まるでずっと前から考えていたことのように尤もらしく聞こえた。
「一緒に来るか?」
ひなは千早に対して警戒心が強いようだから、承諾するかどうかは半々かな、と思っていたのだが、意に反して、ひなはすぐに頷いて同じように立ち上がり、上掛けを片づけはじめた。
そのことを少しばかり嬉しく思った自分がいたのは、否めない。
***
その場所は、山の中の獣道を通ってしか行けない所なので、女の足には少々きつい。
ましてひなは、どう考えても山道などは歩き慣れておらず、そもそもその細い足は、あまり距離を歩いたこともないのではないかと思えるほどの繊細さだ。なるべくなだらかな道筋を選んで歩いているつもりだったが、あとに続くひなは、半分も行かない地点ですでに、苦しげに息が上がってしまっていた。
「ちょっと、お前にはきつかったかな」
前方の視界を塞ぐようにして茂る枝を払いのけながら山道を登っていた千早だが、後ろを振り向き、肩で息をしているひなの様子を目にして、困ったようにそう言った。
ひなはその言葉に首を横に振って、気丈についてこようとはしているが、どう見ても無理がある。この場合、非があるのは、彼女の体力のなさをあまり考えていなかった千早のほうだ。
「引き返すか」
提案しても、ひなは唇を結び、首を横に振って頑なに否定するばかりである。けっこう意地っ張りでもあるんだな、と感心するように思ったら、ちょっとだけ笑えた。
「じゃあ、俺に掴まりな」
と手を差し出したら、ひなは一瞬躊躇したものの、自分の手を伸ばしてきた。おずおずといった感じでこちらに向かってきたその手を、しっかりと捕まえる。
繋がれた手は、温かく、柔らかかった。
今まで働いたことのない証のように千早が思っていた白く綺麗な手は、それでも、頑張って何かを掴もうという努力はしているのだろう。慣れない生活に、少し荒れてきてもいるようだった。しかし千早にとっては、今のその手のほうがよっぽど好ましく感じる。
ぐっと握って、また前に視線を戻す直前、視界に入ったひなの顔が朱に染まっていることに気づいた。また赤くなってる、と呆れてしまう。子供じゃあるまいし、やめて欲しい。
……こっちまで、照れくさくなる。
「──よし、着いた」
いつもここに来る時の倍くらいの時間をかけてそこに到着すると、千早はそう言って、振り返った。
繋いだ手を引っ張られるようにして足を踏み出したひなは、眼前に現われた景色に目を見張っている。
山道を抜けて辿り着いたそこは、切り立った崖となっており、すぐ目の前には美しく輝く海が広がっている。崖の下を覗き込めば、島にある集落や、浜の様子などが手に取るように一望できるのだ。
「よく見えるだろ」
千早が言うまでもなく、ひなはもう崖の端近まで寄って、熱心にその下を見下ろしている。この崖のすぐ下が、島の住人たちが呼ぶところの「南の浜」──ちょうど、ひなが海に流されて漂着した場所だということを、判っているだろうか。
ここから見ると、羽衣島というのは、半月の両端が出っ張ったような形状をしており、半円形の部分に山がそそり立ち、その山に守られるようにして集落と浜があることが判るはずだ。
山側は地形的に船が停められないので、外敵があってもそちらから島には容易に侵入出来ない。島を取り巻く潮流も、味方をしてくれている。
「この島の周りは潮の流れが激しくて、しかも不規則だからな。その流れを読むことの出来るやつは島にしかいない。知らない船がこの島にやってこようとしても、まず潮に流され押し戻される。けど、流れによっては、海に浮かぶ漂流物が、吸い寄せられるようにしてこの下の南の浜に打ち上げられるんだ。値打ちもんが運ばれて、島の懐が潤うことも多いから、俺らはそれを海からの恩恵だと思ってる」
じっと千早の顔を見つめてくるひなを見返しながら、千早はあくまで淡々と、
「……もちろん、『人間』も、よく流れ着く」
と続けた。
「けど、それは大体、死人だ。いや、俺が知る限り、この浜に生きた人間が漂着したことなんてなかったと思う。──お前は、運がよかったんだ」
運がよかった、と力を込めて繰り返した。
たとえ何があったにしろ、命があったのは運がよかったと、千早は本当にそう思うのである。
この戦乱の世で、人の命なんてのは、国のあちこちで毎日あっけなく失われ続けているけれど、だからってそれが軽いものだとは思っていない。ひなは強運に守られて生き延びた。それは僥倖と呼ぶべきものだ。
ひなは千早をしばらく見つめ続けたあとで、顔を動かし、崖の下の浜に目をやった。
彼女が何を思っているのかは判らなかったが、儚げなその横顔はひどく美しいものにも見えて、千早は束の間目を奪われてしまう。
ただ、心だけは、それとは関係なく別の方向へと動いていた。……いや、あるいは、それとこれは全然、別のものではなかったかもしれないのだが。
(昼の間、ひなが仮眠を取る時に、なんらかの手を打ったほうがいいんじゃねえのかな)
その時、千早の脳裏には、うなされる先程のひなの姿が鮮明に甦っていたのである。
額の汗、頬に張りつく髪、唇から零れる荒い息遣い。
あんなところ、五平あたりに見られたら、間違いなく大変なことになりそうだ。正直、自分だってちょっと平常心を保つのが難しかった。きっと五平でなくても、男にとっては目の毒だろう。三左も……まあ、奥手だとはいえ、男であるわけだし。
(問題が起きたら困るからな)
と考える頭の片隅で、それ以外の気持ちがあることにも薄々気づいていたが、千早はそれには敢えて目を瞑って知らんぷりすることにした。
他の男には、見せたくない──という気持ちには。




