千早(1)・流されてきた娘
頭あ~、という声に千早が振り向くと、遠くから若い男が自分の方へと駆け寄ってくるのが見えた。
いや、若いと言ったって、千早よりは年上だ。千早は今年で十八。早いところ嫁を貰って落ち着け、と年寄り達にうるさく諫言されているところであるが、その都度適当なことを言ってかわしている。嫁取りとなると何かと面倒だし、今は正直言って、それどころじゃない。
「どうした、三左」
応えながら、網を引いていた手を離し、自分も三左に向かって砂の上を歩き出した。今のところ、漁師の手は充分足りているし、たくさんの魚達を閉じ込めた網は、もう既に波打ち際まであがったところだ。一人くらいは抜けても問題ないだろう。
千早よりも五歳ほど年上の三左は、がっちりした体格の、本来寡黙な男である。無口な上に目つきが鋭く、それだけでなんとなく人に怖れられてしまうという、損な男でもある。けれど性根は優しいし、非常に誠実な人柄でもあるから、千早は同じ島の住民としても、そして手下としても、この男には信頼を置いていた。
三左は千早に近付くと、少し声を潜めた。
「頭、南の浜の崖の下に、女が流れ着いたんで」
「あ? 仏さんかよ」
ずっと昔から、この島の浜に海からの死体が漂着すること自体は、珍しいことではない。船から落ちて溺れた者だったり、戦で斬り殺された兵だったりと様々だが、おそらく、このあたりの潮の流れがそういった漂流物を島へと呼び込むのだろう。
そのおかげで恩恵を受けていることも多くあるのだから、そうそう文句は言えないのだが、しかしまあそれにしたって、見ず知らずの死体を弔うのは、誰にとってもあんまり楽しい作業ではないことくらいは知っている。
「いや、それが、息はあるんです」
三左の言葉に、千早は軽く口笛を吹いた。
島の周囲を囲んでいる激しい潮流に巻き込まれて、それでもなお生きているとは、なんという強運な女だろう。
「どんな女だ」
早速、三左と連れ立って南の浜に向かって歩きながら、千早は訊ねた。
「それが、若い女でして」
「ふーん……」
三左の返事に、がしがしと頭を掻く。
この島にいる人間は、別に誰一人として何かの制約にも規律にも縛られることはないから、皆が思い思いの髪型や服装をしている。千早は少し長めの髪を後ろでひとつに括っているが、三左などは肩の上で短く刈り上げていて、それはそれでかなり珍しい方だと思う。
二人とも、今着ている着物は他の漁師達と同じような丈の短い軽装だが、船に乗って海に出る時は、武装の必要もあって、もうちょっと足軽に似たそれなりの格好をする。あの胴鎧というやつは、けっこう重い。
「別嬪か?」
「今は気を失ってるんで、しかとは判りませんが、多分、かなり」
笑いながらの質問はもちろん軽口のつもりだったのだが、三左はどこまでも真顔だった。
ホントに冗談の通じないやつだな……と感心するが、千早も若い男なので、その答えで興味の度合いが多少強くなったことは否めない。
「若い別嬪さんねえ……」
呟いて、口許に薄っすらと笑みを貼り付ける。
一体、そんな人間が、なんでまた海に落ちたんだか。
***
南の浜に到着すると、三人の男が千早の姿を認めて、めいめい気さくに声を掛けてきた。
千早と大体同年代のその連中とは、自分が「頭」と呼ばれる一年ほど前までは、同じように冗談を飛ばして悪さをした仲だから、今になって態度を変えろという方が無理な話なのだろう。そもそも頭といったって、あくまで現在のところはただの代理でしかないわけだし。きっちり部下として言葉遣いまで改める、三左のような男こそが例外なのだ。
「女が流れ着いたって?」
男たちのうちの一人に訊ねると、彼は頷いて場所を移動し、取り囲んでいたそれを目に入るようにした。
千早は片膝を砂地について屈み込み、横たわっているその娘を真上から検分した。
「……へえ。こりゃ、確かに」
思わず感嘆するような声が出た。
年の頃は、おそらく千早とそう変わらないくらいか。血の気がないせいももちろんあるが、もとから透き通るような白い肌なのだろう。華奢な顎、そのくせ頬はふっくらとしていて、これが桜色に染まればいかにも魅力的に見えそうだ。
閉じられた瞳の睫毛は長く、繊細な線を描く鼻梁の下には、これまた見事に形の良い唇がある。今は紫色になっているそれだって、紅でも塗ればどんなに映えるかと思わずにいられない。
腰の辺りまで伸びた漆黒の髪は濡れそぼっているが、それが身体や顔の線に纏わりついて、なんともいえず扇情的だ。なるほど、男達が取り囲んで、鼻の下を伸ばした馬鹿面で、ろくな介抱もせずに眺め続けていたわけである。
そんな状態だから、着ている着物がそんなに乱れていないだけ、彼女にとっては幸運だった。その着物も、柄はそう派手ではないが、なかなか上等なものであることは、一目で判る。
「頭、こりゃあ……」
「うん。きっと、海賊に攫われてきた、どっかのお嬢さんだな」
眉を寄せた三左の言葉にあっさり続けて、千早は娘の首筋にそっと手を当てる。確かに、多少弱くはなっているようだが、鼓動はちゃんと脈打っていた。
この瀬戸内の海には、多くの島があって、多くの海賊が横行している。大抵が、それぞれの島の住人達が船を操り、それぞれの島の縄張りで海賊行為をするわけである。その海賊達を取りまとめ、時には上前を撥ね、戦時の折には「水軍」などと称して都合よく使い捨てようとするのが、上の連中のやり方だ。
かくいうこの羽衣島だって、昔から海賊を生業として成り立ってきた島なのである。だから島を治めるものは「長」という呼び方ではなく「頭」と呼ばれ、船を出す時には一味を率いて、彼らの先頭に立たねばならない。
ただ、たくさんのその海賊たちにも色々と種類があって、この島のように、海を行く余所の船から「通行料」として荷だけを幾つか貰ったり、時には真っ当に取り引きしたりする比較的穏やかな海賊もいれば、女達を攫って売り飛ばしたり、船に火をつけて人を殺し略奪の限りを尽くしたりする外道集団の海賊もいる、ということだ。
──多分、この娘も、そうして攫われて、自力で逃げようとしたか、何かのはずみで海に放り出されたかしたのだろう。命があっただけ、運が良かった。
「どうしますか、頭。この娘」
「どーするったって、生きてるんなら助けてやらなきゃしょうがないだろ。とりあえず、近くの小屋にでも運んで……」
言いながら、娘の顔をしげしげと覗き込んでいた千早は、そこで言葉を呑み込んだ。
その時、今までぴくりとも動かなかった娘の瞼が、かすかに動いたからだ。
口許に力が入って、きゅっと結ばれる。下がっていた眉が苦しげに寄せられた。気がついたのか、と千早はそれを注意深く見守る。
そして、瞼がまた何度か引き攣るように動いて、娘がようやく開いた瞳は──
緋色、だった。
「!」
瞬間、千早はびくりと身じろぎした。
緋色──血のような赤だ。
目が充血している、とか、そんな程度のものじゃない。そうだ、絶対に違う。たとえれば、暗闇で茂みからこちらを覗く肉食獣のような、はっきりと赤く光り輝く眼だった。大体、白目の部分どころか、黒目の部分まですべてが緋色に染まるなんてことが、普通の人間にあるものか。
心臓が、凍てつくようだ。
その場から動くことも出来ずに、緋色の瞳に吸いつけられる。竦んでしまったように、そこから目を離せない。
そこにあるのは、驚きや恐怖心なども上回るほどの、圧倒的な畏怖だった。
「どうしました、頭」
訝しげな三左の声で、我に返った。
目を瞬くと、娘はじっとこちらを見返していた。そこにあるのは緋色の瞳などではない、普通の、真っ黒でつぶらな瞳だった。今になって、どっと汗が噴き出してくるのを自覚する。
──見間違いか……?
おそらく、そうだろう。いや、そうに決まってる。横たわっている娘に被さるようにして覗き込んでいたから、他の人間たちには、千早の身体に隠れて、娘が目を開けた瞬間は見えていないだろう。わざわざ確認するのも馬鹿馬鹿しい。きっと、単なる光の加減か何かだったんだ、と内心で自分自身に強く言い聞かせた。
「気がついたかい、娘さん」
内心の動揺を押し隠すように、ことさら平坦な声で問いかける。周囲の男達が、今更になって、「おお」とか「やあ」とかの歓声を上げた。
正気づいた娘は、千早の顔を凝視するように見つめたあと、ようやく何度か目をぱちぱちとさせた。気を失っている時は大人びて見えたが、そんな仕草をすると、やはり、年相応にあどけなさが覗く。自分と同じ年くらいかと思ったが、もしかすると、もう少し年下かもしれなかった。
それから身動きしようと試みたようだが、手足が上手いこと動かせないらしい。困惑したように眉を下げ、また千早を見た。起きた時真っ先に目に入った人間だからって、もう既に、頼られているのだろうか。
「無理すんなって。九死に一生を得たばっかりなんだからよ。──ここは羽衣島だよ。あんた、どっかから海に落ちて、この島に流れ着いたんだ。あんたは運が強い。もう、大丈夫だからな」
力づけるように言ってやると、娘は紫色の唇をわななくように動かした。
かすかな唇の動きが、は、ご、ろ、も、と繰り返したように見えたが、声は出ない。
「そう、羽衣島。なに、元気になりゃ、家に連れて行ってやることも出来るから。とにかく、今はゆっくり静養するこった」
いいところのお嬢のようだし、家に連れて行ってやれば、親からたんまり礼金をはずんでもらえるかもしれないからな──という魂胆をもっての言葉だったが、娘は少し安堵したように表情を和ませた。
しかし、娘は再び口を動かして、何かを言おうとし……突然、顔を強張らせた。
「なんだ? どうかしたのか」
その顔を見て、千早が訊ねるが、娘は動転した様子で、何度か唇を動かすだけだ。ようやく動かせるようになったらしい手を、喉に持っていくが、その手も小刻みに震えている。
それで、千早にもようやくピンときた。
「……もしかして、声が出ないのか」
色の失せた顔で、娘が頷いた。海水を呑み込んで、喉でもやられたかな、と千早は顔を顰める。
自分の後ろにいた三左に合図して、手で支えながら娘の身体を起こさせた。娘を運ぶのに、俺が背負う、いや俺が、と揉める他の阿呆な男たちのことは、この際無視である。
「ま、時間が経てば、ちゃんと声が出るようになるかもしれねえし。取り敢えずは、あんたをもっとマシな場所に移してやんねえとな。えーと、あんた、名前……って、そうか、声が出せねえんだったら、言えねえよな」
どーすっかなあ、と手を頭に持っていって考えながら、ふと、娘に目をやって千早は手の動きを止めた。
なぜなら、その時、やっとのことで上半身を立てた娘の顔から、更にざあっと血の気が引いていくのを、目の当たりにしたからだ。
「……まさかとは思うけどさあ、あんた」
頭に置いていた手をゆるりと動かし、嫌な予感を覚えつつ、訊ねてみる。顔には薄っすらと皮肉げな笑みが浮かんだ。
「声が出せないだけじゃなく、自分が何処の誰かも判らない、なんて言うんじゃないだろうな」
ただでさえ血色の悪い顔を、ほとんど白くして、娘は泣きそうになって唇を噛み締め、俯いた。それを見て、我知らず深い溜め息が腹の底から出てしまう。
──厄介な拾い物をしちまったなあ。
忌々しい気分になって舌打ちすると、それが聞こえたのか、俯いたまま娘がびくっと身体を揺らした。とはいえ、千早だって、そんな彼女の心情を慮ってやるほどの度量の広さはない。今までそれなりに優しくできていたのは相応の見返りがあるものと思っていたからで、もともと自分は、女だろうと子供だろうと見ず知らずの人間に施すような、見境のない温情までは持ち合わせてはいないのだ。
……そうでなければ、この戦国の世、島ひとつを背負って生き抜いていけるものか。
「しょうがない、このまままた海に放り込むのもなんだし、最低限、体力を取り戻せるまでは、面倒を見てやるよ。上手くすれば、そのうち記憶も戻ってくるかもしれねえしな」
突き放すように言って、千早は立ち上がった。
あとは三左や他の男たちに任せて、自分は立ち去ろうとし、いや待てよ、と、足を止める。名前がないままだと、いくらなんでも不便だなと思い至ったのだ。
いずれ本当の名前を思い出すかもしれないが、名無しのままでは、面倒を見る人間の方だって、戸惑うだろう。仮の名前だけでもつけてやらないといけないのではないか。そしてこの場合、立場的に、どう考えてもその役目を負うべきなのは自分である。
面倒くさい。
仮の名前なんだから、仮名──かな、とかでいいかなあ、などといい加減なことを思った時、不意に、さっき見たように感じた緋色の瞳が頭を過ぎった。
ただの錯覚だったとはいえ、この自分があんなにも強烈に、何かに惹きつけられたのは、はじめてのことだ。
千早は娘を振り向いた。
「緋名……ひな、にしよう」
怪訝そうな表情をする娘に向かって、笑いかける。それはさっきまでの上辺だけの優しさを含んだものではなく、少々醒めた笑い方だった。
「お前の名前だよ。何もないんじゃ不便だからな。本当の名を思い出すまで、お前の名は『ひな』だ。いいな?」
まるで命令するように、一方的に言い置いてから、千早はくるりと踵を返し、再び歩き出した。
もう娘の方には、一度も振り返らなかった。