王子さまを泣かせるのはいつもあたし
彼と初めて会ったのは四歳の秋だった。親の仕事の関係で遠くの県から越して来た彼は、途中入園した幼稚園のひまわり組、あたしを含む十四人の好奇心にみちた瞳に囲まれて、目いっぱい緊張した様子で挨拶をした。消え入りそうな声だった。
「は、はっとりおうすけです……」
あ、この子泣かせてみたい。一目見た途端あたしはそう思った。
お祖父さんが外国の人だと言う彼は、くるみ色したくりんくりんの髪の毛と白い肌、茶色とも灰色とも緑色ともつかない不思議な色の目を持つ、とっても綺麗だけど、とても泣き虫な男の子だった。
入園早々「ガイジン、ガイジン」と、意地悪な子達にはやし立てられてめそめそと泣いているのを見つけたあたしは、とっさにリーダー格のけんじ君の体を突き飛ばして、彼をその場から救い出した。
「なにすんだよ! ばかちよ!」
失礼な。あたしには美千代という立派な名前があるのに、美を抜かした上に馬鹿を付け足すなんて。
けどそんな事はどうでも良い。けんじ君とその取り巻き達にこれからいじめられようとどうって事ない。
「あのね、ばかって言うほうがばかなんだよ。だから本当にばかなのはけんじ君なんだよ、かわいそうだね」
真顔で言い返すほど、その時のあたしは怒っていたのだ。
あたしより先にこの子を泣かすなんて、と。
「だいじょうぶ?」
彼は袖口でごしごし目元をぬぐって、そのまま腕の影からあたしを覗き見る。涙に濡れた瞳は、まるでビー玉みたいにきらきらしてた。
その日から彼は「みちよちゃん、みちよちゃん」とあたしの後をついて回るようになり、あたしも彼の事を「おーちゃん」と呼んで猫かわいがりした。
泣き虫なおーちゃんを泣かせることは容易い。おやつを取り上げたり、くるくるの髪の毛を引っ張ったりするだけで、おーちゃんの綺麗な瞳は潤んでくる。唇をへの字に曲げ、鼻のてっぺんが赤くなった頃には、もうピンク色の頬っぺたには涙が流れ落ちているのだ。
かわいい。顔をくしゃくしゃにして泣いているおーちゃんはとてつもなく可愛い。
あたしはおーちゃんの泣き顔を見るためだけに意地悪をし、その後嫌われないようにうんと優しくした。泣き疲れた後こそおーちゃんは機嫌が悪いが、ごめんねと謝って頭を撫でてあげれば、やがてまた「みちよちゃん、みちよちゃん」とまとわりついて来る。
そんな日々が数年続き、やがて忘れもしない十歳の夏が訪れる。
成長したおーちゃんは、泣き出す回数が激減した。なんと、堪える事を憶えてしまったのだ。
泣いていないおーちゃんは、まあまあ可愛い。泣くのを堪えるおーちゃんも結構捨てがたい。けれどあたしが本当に見たいのは、ぽろぽろと綺麗な瞳から涙を零し、人より高めの鼻から鼻水が滲み、綺麗な顔を歪ませて、震えながら泣くおーちゃんなのに。
つまんない。
フラストレーションの溜まったあたしは何をとち狂ったのか、市民プールまたは海水浴用の新しいビキニを、おーちゃんに着せようと思いついたのだ。
ショッキングピンクの生地に、コバルトブルーとレモンイエローのフリルの着いた水着は、駄々をこねて買ってもらったものの、改めて見るともの凄く派手で着る事にためらっていたのだが、これは美少女顔のおーちゃんなら着こなせるに違いないと、意気揚々と彼の家へと向かった。
当然の事ながらおーちゃんは嫌がった。それはかつてない嫌がりぶりだったけれど、頭の中に、フリフリのカラフルビキニを無理矢理着せられて泣きむせぶ十歳児(美少年)、という想像図まで出来ていたあたしはそれを遂行しようと必死だった。
とりあえず着ている物をむしり取ろうと、おーちゃんのTシャツに手をかけた時、ドン! と強い力で突き飛ばされてしまった。
「嫌だって言ってるだろ! みちよちゃんなんて、大っっっ嫌いだ!!」
そのままおーちゃんは部屋を出て、階段を駆け下り外へ出て行った。
突き飛ばされたあたしは尻餅をついて、手にはビキニを持ったまま、しばらく動けずにいた。
これまでならあたしの悪戯に怒ったり拗ねたりした事はあるものの、一度もあたしに暴力を振るった事も、怒鳴り声を上げた事もなかったおーちゃんが、あの、おーちゃんが。
嫌われてしまった。自業自得とは言え、それはあたしに大ダメージを与えた。
好きな人に嫌われるのは悲しい。誰がなんと言おうと、あたしの初恋はおーちゃんだったのに。
その日、自宅に帰ってひとしきり泣いた後。おーちゃんを含め、誰かを泣かせた事は数多くあれど、親以外に泣かされたのはこれが初めてだったあたしは、固く決意した。大好きなおーちゃんに、これ以上嫌な思いをさせないために、なるべくその視界に入らないようにしようと。
それからの小、中学校生活。あたしはいない者のように、息を潜めて過ごしてきた。
幸い彼と同じクラスになることはなかったので、休み時間はよっぽどの事が無い限り教室から出なかったし、合同授業や全校集会、運動会(体育祭)や文化祭などは隅っこでうつむきながらじっとしていた。
とは言っても、同じ学校内。大嫌いとまで言われた欧介(おーちゃんとはもう呼べない)と顔を合わせる事が無いと言えば嘘になる。トイレに行く途中の渡り廊下や、時には登下校時の通学路。偶然ばったり出会ってしまうのは不可抗力だ。
欧介はあたしと出くわす度に何か言いたげに口を開こうとするのだが、その前にあたしはそそくさと逃げ出す。大嫌い以上の言葉を聞く勇気は、あたしには無い。
それでも、極めて地味に生きてきた学校生活の中で、嫌でもあたしの視界に入ってしまうのは常に男女問わず、沢山の友人に囲まれ笑っている欧介の姿だった。
小さい頃に比べて髪の毛はだいぶ暗い色になったし、くせ毛も「くるくる」から「ふんわり」程度に落ち着いてきたようだ。遠目だから良く分からないけど、それでも彼の姿は目立つ。すらっと伸びた長身と、周りの誰より彫りの深い整った顔立ち。他にも運動が出来たり、勉強が出来たり、見目が良かったりで人気の男の子はいたけれど、欧介はいわば別格だった。その自信に満ち溢れた表情に、あの泣き虫で弱虫であたしがいないと何も出来ないような可愛い欧介の面影は無い。容姿とそれに見合った物腰柔らかな態度、名前もあいまって一部の女子生徒から「王子」と呼ばれていると聞いた時は、思わず笑いそうにはなったのだが。
そんな彼の姿が視線の端に入るたびに、あたしは物陰に隠れ息を止めてやり過ごすか猛ダッシュで逃げ出し、その後は在りし日の彼を偲んで溜め息をつく。欧介としては思い出したくもない過去だろう。本当はずっと意地悪なあたしの事が嫌いだったのかもしれない。
だから、彼の可愛い泣き顔の記憶はあたしの癒しだけれど、よっぽどの事がない限り、あまり思い出さないようにしている。
胸が痛くなるから。
そんな具合で過ごした日々だったが、とうとう中学校の卒業式の日が来た。
あたしが通っている中学校の生徒の中、おおよそ四分の一はそのまま今の中学校から徒歩十分圏内の県立高校へ進学する。まさに丁度いいのだ。偏差値的にも通学距離的にも。
普通ならあたしもそこを受験したのだろうけれど、あえて止めた。
常に周囲に気を配らなくてはいけない環境に疲れてしまったのだ。ひたすら存在感を消して暮らしてきたあたしには、本当に友達が少ない。クラスメイトの中にはあたしの名前すら知らない子がいるんじゃないかって言うくらいだ。それに友達って言ったって当たり障りの無い世間話をする程度の、浅い付き合いでしかない。それはそういう態度を取り続けたあたしのせいでもある。だって深い話なんて、昔の欧介の事くらいしかないし。
だから新しい人間関係を築きたいと、市内ではあるが家からバス停まで歩いて十分、最寄の駅に停まりそこから電車でさらに三十分かかる私立高校を選んだ。色々理屈を並べたが、結局は欧介が近くの県立高校を志望したと言うのが一番の理由だ。
これからは誰の目を気にすることなく、自由な高校生活を送ろう。
卒業式は概ね感動的に終わった。
意外にも友達は皆一様に涙を流し、一人遠くの高校へと進学するあたしを思ってくれて、
「定期的に会おうね!」
「手紙書くし!」
「結婚式には絶対呼ぶから」
なんて言ってくれたのだけれど、当のあたしは「どうせ最初だけ、良くて一年位かな」と冷めた様子で皆が泣く様子を眺めていた。きっと、卒業式と共に遠く離れていく友人、と言うシチュエーションが彼女らをセンチメンタルな気分にさせているんだろう。
案の定、傍目には感動的な友人との別れの場は「記念に服部君と写真撮る!」という誰かの一言で終わりを告げ、それに続く我も我もの合唱に、そっとあたしはその場を後にした。
ああ、イライラする。何なんだよ、結局友情よりも男か? 男なのか?
妙にささくれ立った気分は、大勢の女子生徒に囲まれた欧介の姿が視界の端に入ったからではない。
「あの、橘。ちょっと」
さっさと帰ろうとするあたしの目の前に立ちふさがったのは、たぶん同じクラスの男子生徒。名前は定かではない。
真赤な顔をして汗を拭きながら彼が言うには、「ずっと可愛いって思って見てた」とか「大人しくて優しそうなところに惹かれた」とか、「高校違うから今のうちに言おうと思って」とか。まあ、有り大抵に言うなら告白だったのけれども、泣き顔が可愛くなさそうだったので考える事もなく即座に断った。
今日は封印していた幼稚園時代の欧介の泣き顔が満載のアルバムでも見よう、あれは癒しだしそれは誰にも文句は言わせない等など、式が終わった帰り道、あたしはそんな事をつらつらと考えながら歩いていた。
あの告白もどきはタイムロスもいい所だ。なんなの、肝心な一言も言わないくせに。
「ずっと見てた」割りに「優しそう」とか、笑えるんですけど。
ああ、むかつくむかつく。断られたからって暴言吐くとかありえない。あたしはこれでも傷つかないようにって言葉を選んだのに、「本気にしてんじゃねえよ。お前みたいな根暗なブス、誰が好きになるか。調子乗るな馬鹿」だって。ばかなのはどっちだよ、ブスとか根暗とかそういう直接的な悪口は人の心を簡単にえぐるんだよ。断って良かった。大体あんな奴の泣き顔なんて醜いに決まってる。どうせみっともなく鼻の穴をおっぴろげて涙も鼻水も垂れ流しで、泣き声なんて獣の咆哮に似てるに違いない。ああ嫌だいやだ、やっぱりこんな日は秘蔵アルバムを開くに限る。一番の見所は、泣く寸前の、あの堪えようとしても堪えきれない――
「美千代」
「わあっ!」
考え事の途中で急に声を掛けられて、あたしは文字通り飛び上がった。そのまま振り向いた先には、ボタンを全部獲られた学生服。目線を上げると、記憶の中よりも大人びた顔の欧介がいた。
懐かしい。こんな近くで彼を見るのはかなり久しぶりでないだろうか。背が大分伸びたみたい。昔はあたしより低かったのに今では見上げなければその顔を見ることが出来ないなんて。
いやそんな事よりも、声が。「みちよちゃん」とあたしを呼んでいた、かつての可愛らしくも甲高いあの声が、随分と低く太ましい事になっていてあたしはびっくり……て言うか「美千代」?
「何で呼び捨て?」
眉をひそめて低い声で尋ねたあたしを見て、一瞬たじろいだように欧介は一歩下がった。
「別に。中学も卒業するのに、今さらちゃん付けなんて子どもっぽいし」
前言撤回。多分あたしの気のせいなのだろう。欧介は舌打ちせんばかりの勢いで、不貞腐れたように言った。
「そう言えば、高校遠くに行くって今日聞いたんだけど、何で? もし、昔の事気にしてるなら別に、そんなの。どうしても美千代が許して欲しいって言うなら、許してもいいし。それで、どうしてもって言うならまた遊んであげるけど」
え、これ誰? まじまじとその顔を見るが、間違いなく服部欧介その人だ。幼い頃の面影を残したまま、そこに凛々しさが加わった彫りが深く整った顔立ち。特に細かった顎の線が逞しくなり、今の彼ならば女の子と間違われる事などまず無いだろう。知らないうちに、声変わりまでしてしまっていた。
見れば見るほど、あたしの中で喪失感が強まっていく。
「別に、許して欲しいなんて思ってないし」
思わずそんな言葉が口をついて出た。
「ていうか、どうでもいい」
そうだ。もう、どうでもいいや。
つくづく実感してしまった。外見も内面も、男らしく逞しく変貌してしまった欧介は、周囲から見ればそれはそれは素晴らしく理想的な男の子なのだろう、それこそおとぎ話の王子さまの様に。「みちよちゃん」と、無邪気にあたしにすがり、簡単に泣き顔を晒す事はおそらく、もう無い。
「どいてくんない? 邪魔なんだけど」
八つ当たりだって分かってる。あたしが勝手に感じてる失望は、言いがかりに近い、いや、言いがかりでしかない事も。けれど、今日はきっと秘蔵アルバムを見ながらあたしはむせび泣く事だろう。あたしの、あたしだけのおーちゃんは、もうどこにもいないんだ。
目の前に立ちふさがる欧介を押しのけようと肩の辺りを押すと、あっけない位に彼はよろめいた。いくらなんでもこれはひ弱すぎるだろうと、腹立ち紛れに近い、いたちの最後っ屁的な捨て台詞を吐こうと欧介の顔を見て固まってしまった。
八の字に下がった眉の下、相変わらずビー玉みたいに綺麗な瞳は潤み始め、涙を零すまいとせわしなく瞬きを繰り返し、下がった口角の端はふるふると震え、それを堪えようとして下唇を前歯で噛む。
「な、何で……そう言うこと……。こっちはせっかく勇気出して…………」
なにこれなにこれ、やばいやばい。マジですっごいやばいんですけど。
久しぶりに生で見る泣き顔の破壊力は凄まじかった。あたしの目は欧介の顔にくぎ付けになり、そこからしばらく動けずにいた。
頭の中に繰り返し繰り返し繰り返す、なにこれやばいのリフレイン。時折、欧介の口が動いて何か言っているようだが、意味を成した言葉としてあたしの耳には届かない。
どれ位時間が経っただろう。犬を散歩させてる通りすがりのおじさんが「ぅうんっ」と、横目であたし達を見ながら咳払いをした所でハッと我に返る。
ここは道のど真ん中。人の往来の少なくないこの場所で、もし近所のおばさんたちに今のこの状態を見られたとしたら軽く死ねる。
あたしは慌ててここから一番近くて他人の目を遠ざける事のできる場所、すなわち自宅へと向かう事にした。強引に欧介の腕を引っ張ると、彼はぐずぐずと泣きながらも素直に後をついてきた。
急ぎ足で家に着き、ドアを開けようとしたら鍵がかかっていて、思わず「ああ、もう!」と声を荒らげながら鞄を漁って鍵を取り出す。後ろでビクッと震えた気配がしたような気がしたが、構うことなくやや乱暴に玄関の戸を開けて、欧介の腕を引きながら部屋へと向かった。
考えてみれば、この状況での親の留守は幸運だったかもしれない。泣いている男子を強引に部屋に連れ込むとか、どんな言い訳も思いつかないし。
散かり気味の部屋に半ば突き飛ばしながら押し込むと、欧介はそのまま崩れ落ちるように座り込み、腕で顔を覆い隠して懸命に涙を止めようと必死だった。
しばらくは無理だろうな、とあたしは思う。彼は一旦、大泣きのスイッチが入るとなかなか泣き止む事が出来ない。小さい頃は、ひっくひっくと変な泣き癖がついて、それを止めようとして止められずまた泣き出すという負のスパイラルがたびたび起きていた。
それにしても泣いている彼は、なんて可愛いんだろう。あたしはうっとりしながら小刻みに震える彼のつむじを見下ろして、思わずそっとその柔らかそうな髪の毛を撫でた。
「おーちゃん」
欧介、いや可愛いあたしのおーちゃんが、涙に濡れた瞳であたしを見上げる。
ちょ、ちょっと待って。その上目遣いは反則――
「みちよちゃあん……!」
がばりと上半身を起こした欧介がこちらに向かって突進してくる。美形ではあるが、涙と鼻水にまみれたその顔はお世辞にも清潔とは言えない。思わず声を上げて身を引きそうになるが、この制服を着るのは今日までと何とか堪えた。
欧介はあたしの胸元に顔を埋めて、何か言いながら顔を擦り付けてくるが、かろうじてあたしの名前だけは聞き取れる程度で、他に何を言っているかは分からない。けれども、いくら鼻水を擦り付けられようと、泣いているおーちゃんはとても魅力的で、あたしの中の母性本能をあらゆる角度からくすぐる。
「もう分かったから。ごめんね、おーちゃん」
そう言って彼の頭をよしよしと撫でると、おーちゃんはやっとあたしの胸から顔を離して、何か期待するようにきらきらした瞳で見上げてきた。
えー、何その顔。頬を赤らめながらくちびるをちょっと尖らせて目を閉じるとか、どこの乙女だよ。
でもしょうがない、あたしも思い切って目をつむってそっとその顔に、くちびるを寄せた。