第40話 【脱出行-6】
私は、小屋の奥、暖炉の前に置かれているソファに、崩れ込むように座り込んだ。
「服、脱いで」
「えっ?」
耳に飛び込んできた拓郎の声に、思わず首を傾げる。
「服、濡れたままだと風邪を引くだろう?」
「え、でも……」
確かに全身濡れ鼠だけど、着替えも無いのに服を脱いだら、余計に風邪を引きそうだと思う。
口籠もる私に拓郎は「心配しないで、準備は万端だから」と、ライターの明かりを頼りに部屋の隅から毛布を抱えてきた。
その毛布は真新しくて清潔そうだ。この古びた小屋には不釣り合いな、新しい毛布。
「ああ、ここはね、柏木さんの『秘密基地』なんだってさ」と、硝子製の小さな灰皿に白いローソクを立てて、火を付ける。
丸太小屋の中に、ローソクの炎が淡い陰影を刻み出した。
「柏木先生の、秘密基地?」
私が疑惑の眼で見詰めている事に気が付いたのだろう。拓郎は、毛布を私に掛けるとクスクス笑い出した。
「そう。まあ、簡単に言えば避難場所かな。研究に行き詰まった時、森を散策していて偶然見付けたんだってさ。たまに、息抜きに来るんだって言ってたよ」
研究に行き詰まって、森を散策?
こんな、山奥に?
「全然、知らなかった……」
私の前の柏木先生は、いつも穏やかで、何でも知っていて、お父さんみたいで――。そんな風に、悩む姿なんて見たことが無かった。
私は、私達は、こんなにも守られていたんだ。
「ほら、脱いだ服貸して。絞って干しておくから」
「あ、は。はい」
私は、雨を吸ってぐっしょりと重くなっているシャツとジーンズを何とか脱いで拓郎に渡すと、そのまますっぽり毛布にくるまった。
拓郎は自分は上着だけを脱いで、絞ってからソファの上に広げた。
「はい、お邪魔しますよ。お嬢さん」
そう言って、拓郎が毛布の中に入って来る。そのまま、私は抱え込まれるように抱きしめられた。
温かい。
それはまるで、お日様を浴びているよう。
全身に広がる安堵感。そして、その安堵感と同じ質量の不安感が押し寄せてくる。
「ここ……」
「うん?」
「見付からないかな?」
ここを知っているのが、柏木先生だけなら、多分闇雲に山狩りをしたところでタイム・リミットまでに見付けられる事は無いように思える。
でも、万が一見付かったら、今の私では逃げ切れない。
「見付からないよ。大丈夫、心配ない」
拓郎の言葉に、何の根拠も無いことは分かっている。でも、何だかこうも自信満々に言われると、そんな気がしてくるから不思議だ。
可笑しい。
さっきまでは、『お姉ちゃんの為に研究所に戻った方が良いのかも』なんて思っていたのに、今はこうして、捕まる事に怯えている。
「俺さ……」
私を抱えたまま、拓郎がボソリと呟いて、言葉を切った。
「え?」
拓郎が耳元で囁く声のトーンは、とても柔らかい。
私は、拓郎が飲み込んだ言葉の意味を探り出そうと、ロウソクの揺れる灯りに照らし出され微妙な陰影を刻む、拓郎の顔を見上げた。
私の視線に、少し目元を緩めると何かを思いだしたように、拓郎はクスリと笑う。
『苦虫をかんだような表情』って、こう言うのを言うのかも知れない。
「いやさ、藍に会ったら絶対本気で怒ろうと思っていたんだ、本当は」
「え!?」
予想外の拓郎のセリフに、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
だって再開してから拓郎に怒られた記憶はない……よ?
私の反応が面白くて仕方が無いと言うように、拓郎は、肩を振るわせて笑っている。
「た、拓郎?」
「でも、実際会ったら嬉しくて、そんな計画は何処かにスッ飛んじまった。我ながら、意志薄弱だなって思ってさ」
「ごめんなさい……」
私には、それしか言える言葉が見付からない。
あんな形で、出てきた――。
ううん。
理由すら告げずに、拓郎から逃げ出した私には、言い訳する資格も権利もない。
「少し眠った方がいい」
後悔の念で一杯でだだ黙り込むしか無い私に、拓郎は穏やかな声を掛けてくる。
ごめんなさい。
トクントクンと素肌から伝わる鼓動が、冷えた体を温かく包み込む。
まだ見つけられる可能性はあるのに。
でも、拓郎と一緒ならきっと大丈夫。
そんな確信に満ちた安堵感で、私はそのまま眠りの中に落ちて行った。