第32話 【覚醒】
「私がむざむざと何もせずに、死んだりする訳ないでしょう? 私を誰だと思っているの。あの、日掛源一郎の孫娘なのよ?」
そう言ってお姉ちゃん、私のオリジナル体である日掛藍は、惚れ惚れするような鮮やかなウィンクをして見せた。
私は、覚醒した地下五階のあの蒼い部屋から、今はお姉ちゃんがいつも使っている一階のメディカル・ルームに移されている。
扉の向こうには、屈強なガードマンが二人、私が逃げ出さないように見張っていた。
あの告白の夜、お姉ちゃんと柏木先生から、私の出生の秘密を教えられたあの部屋――。
落ち着いた上品な調度品。、まるでホテルのスイートルームのようなこの部屋は、まるで時間が止まってしまっているみたいに、全てがあの日のままだった。
違っているのは、あの日とは私たちの位置関係が入れ替わっていることで、私がベットの背にもたれて座り、お姉ちゃんがベットサイドの椅子に座っていること。
枕元に置いてあるデジタル時計には、20:00の文字が表示されている。
遮光カーテンがきっちり引かれているので、窓から外の様子は見えないけれど、夜の闇に包まれていることは確かだ。
二十畳の広いメディカル・ルームには今、私とお姉ちゃんの二人だけ。
微かな医療機器の奏でる機動音が、静かな部屋の中に優しく響いていた。
芝崎さ……拓郎は、柏木先生に呼ばれて柏木先生の部屋に行ってしまって、ここにはいない。
完全な覚醒をしていなかったこともあるけど、何より拓郎が研究所に居ることの驚きのあまり、私は拓郎とロクに言葉を交わしていない。
正直、怖かった。
たぶん今、拓郎は柏木先生から全てを知らされているのだろう。
私が、クローン体であること。
戸籍の無いこと。
この世に存在しない人間だと言うこと。
それを知った拓郎が私をどう思うのか?
それは、想像するだけで言いようのない恐怖心をかき立てる。
それを知るのが怖かったから、私は逃げ出したのだから。
「心配?」
ベットの背にもたれながら、黙り込んでしまった私の顔を覗き込んで、お姉ちゃんがクスリと笑い声を漏らした。
その黒い大きな瞳は、深く澄んだ色合いをしていて、思わず吸い込まれそうになる。
相変わらず白いその顔は、半年前とは少し違うように見えた。
それは、美しい女の人の顔――。
そう私が言うと、お姉ちゃんは『あなたもそうよ』と笑った。
「私……、拓郎に酷いことをしたの。プロポーズをされた翌日に、黙ってアパートから逃げ出してしまった」
「でも、芝崎さんはここまで藍を迎えに来たでしょ? それは、藍に文句を言うためじゃないと思うけど?」
文句を、言う?
お姉ちゃんの言葉に、思わず間の抜けた表情になってしまう。
その私の反応を、楽しそうに見詰めながらお姉ちゃんは、言葉を続ける。
「文句を言われた方が、気が楽かも知れないけどね。まあ、後でせいぜい叱られなさい。あなたが彼に心配を掛けたことは間違いないんだし、彼にはその権利があると思うわ」
それに――。
「ああ言う、一見優しそうなタイプは、怒らせると怖いわよ?」
人ごとなお姉ちゃんは、何処までも楽しそうだった。
でも、その何の陰りも見られない笑顔の影に、侵しがたい強い決意があることを、今の私は知っていた。