第31話 【夢・うつつ】
蒼い、淡い光に満たされた不思議な空間に、私はたゆたっていた――。
波のように、寄せては返す優しいリフレイン。
痛みも苦しみも無い、まるで母の胎内のようなその暖かさに包まれて、私は長い長い夢を見ていた。
夢……?
みんな、夢だったのだろうか。
もう一人の、自分の分身。
幼い時からずっと一緒だった、大好きなお姉ちゃん。
優しい、お母さんのような人。
優しい、お父さんのような人。
そして……。
大好きな、大好きな、あなた。
あの、冬の公園で出会った事も。
あの、美しい優しい写真の風景も。
あの微笑みも。
不安な夜は、ギュッと抱きしめてくれた、暖かい胸から伝わる鼓動も……。
みんな、夢?
それでも、いい。夢でも。
夢でもいいから、あなたに会いたい。
拓郎……、あなたに会いたい……。
不意に、誰かの手が頬に触れた。
そっとそっと触れる、優しい手。
「藍――」
誰かが私を呼んでる。
「藍」
夢……? まだ夢の続きを見ているの?
夢か現か分からないまま、私の意識は蒼い世界から白いまばゆい光の中へと引き寄せられた。余りの眩さに、目に映るものが何なのか判然としない。
「う……ん……」
声が上手く出ない。まるで声帯が麻痺してしまったかのように、口から漏れるのは荒い呼吸音だけだった。
『ああ、そうか――。きっと移植手術が始まるんだ』
私は、自分がベットの上に横たえられているのを感じて、そう思った。どうせなら、あの幸せな夢の中で消えてしまえたら良かったのに。神様はやっぱり意地悪だ。そう思った時、誰かが私の左手をギュッと握った。
その暖かい懐かしいような感触に、急激に体の感覚が戻ってくる。
ようやく像を結びだした私の瞳に映ったのは、会いたくてたまらなかった人の顔だった。
少し固めの癖のある黒い髪。少年の様な真っ直ぐな瞳。その瞳が、心配そうに私を見詰めている。
えっ!?
「拓……ろ? ど……して?」
まだろれつの回らない口で、私は必死に声を絞り出した。
どうして、拓郎がここにいるの? まだ、夢を見ているの?
私には拓郎がここに、日掛生物研究所にいる事が理解出来なかった。
彼にはここのことは一切話していない。と言うよりむしろ話せなかった。その彼が今目の前にいて、自分を心配気に見詰めている。
「私が呼んだのよ。あなたを連れて行ってもらう為にね」
不意に降ってきたお姉ちゃんの声に視線だけを巡らせると、拓郎すぐ右隣に立っているお姉ちゃんの姿が見えた。その顔には何故か、悪戯っ子のような微笑みが浮かんでいる。
「え……? で、も、手術……は?」
混乱して訳が分からない私の言葉を引ったくるように、お姉ちゃんはきっぱりと言った。
「ばかね。移植手術なんてするわけないじゃないの。言ったでしょ、私は大丈夫だって。何故戻って来たりしたの? せっかく、自由になれたのに」
少し怒ってみせる、お姉ちゃんの表情は優しい。
「おかげで、変な時にお祖父様は来ちゃうし、こっちの計画がめちゃくちゃよ、もう!」
と、腰に手を当て『プン!』と頬をふくらませた。
「計……画?」
「そう、とっておきの計画!」
そう言うとお姉ちゃんは、綺麗なウィンクを一つ。そして、満面の笑みを浮かべた。