第16話 【お母さん】
両親がいない私とお姉ちゃんにとっては、世話係の前田さんが『お母さん』。
エクボが出来るふっくらほっぺの穏やかな丸い顔は、いつも私たちに安心感をくれた。
いつも優しくて、かといって甘いわけではなく、時には厳しく、私たちを見守っていてくれた。
料理もお裁縫も、ついでに行儀見習いも、本当は『ママ』に教わるはずだった事をたくさん教えてくれた。
何でも作ってしまう前田さんの手は、幼い私にはまるで魔法の手のように映った。
最初に教わった料理は、バレンタインで柏木先生にプレゼントした『ハートのチョコレート』。
あれは、柏木先生が私たちの先生になった最初のバレンタインデー。
私もお姉ちゃんも、まだ六歳。
はっきり言って、おままごとの延長だった。
全身チョコレートまみれになってやっと出来上がったときには、もう先生は仕事を終えて自分の部屋に戻ってしまっていた。
「先生、今日はお仕事早く終わったの? いつも、”藍たちがおやすみするまで、お仕事だ”って言ってるのに……」
首を傾げる私たちに前田さんは、ちょっと哀しい顔を向けた。
「藍ちゃん達。このチョコレート、柏木先生のお部屋まで持って行ってあげなさい」
「えっ? いいのー? いつもは”お部屋には、行っちゃダメ”って……」
「今日は、いいのよ。せっかく頑張って作ったんですもの。行ってらっしゃい。お部屋に入るときは、ちゃんとノックをするのよ」
「は〜〜い!」
確かに前田さんに言われた通り、私たちは、『ノックをして』先生の部屋に入った。
ただ、ノックをしただけで返事を待たなかったけれど。
がちゃり!
勢い込んで開けたドアの向こうには、大きな本棚の前で何かビンのようなものを握りしめて、先生が佇んでいた。
その頬を伝っている光の粒が、涙であることは幼い私たちにも一目で分かった。
先生が、泣いていた――。
「先生!? どうしたの!? どこか痛いの!?」
驚く私たちの音声多重放送のような声が室内に響く。
「いや、何でもないよ。大丈夫。ちょっと、目にゴミが入っただけだよ。どうしたんだい?」
先生は手に持っていた瓶を棚に戻して、私たちをソファーに座らせた。
「二人だけで来たのかい? 前田さんが心配するだろう?」
「大丈夫よ! ちゃんと言って来たから!」
ね、と私たちは顔を見合わせる。
「はい、先生! これプレゼント!」
可愛くピンクの包装紙でラッピングしたチョコレートを差し出した。
「開けてみてもいいかい?」
「うん!」
出てきたハート形のチョコレートを見て先生は一瞬、キョトンとした。
「は……」
やっと、そのチョコレートの意味に気付いたのか、しばらくしてから先生の口からクスクス笑いがもれた。
「ありがとう、嬉しいよ。先生、初めてもらったよ」
笑顔になった先生は、私たちの頭を代わる代わる、くしゃくしゃっとかき回した。
後で前田さんにそのことを伝えると、「柏木先生の、先生が亡くなったの。ええとね。死んでしまったのよ」
そう教えてくれた。
「死んでしまった?」
幼い私たちには、まだ『死』というものがなんなのか、良く分からなかった。
「大好きな人がもう会えない遠い所に行ってしまって、先生は悲しかったのよ。人はね、そう言うとき悲しくて泣いてしまうものなのよ。でもそれは、決して恥ずかしい事ではないの」
私たちは前田さんの話に、わんわん泣いてしまった。
「大好きな人に、もう会えない」
その言葉が、幼心にとてもショックだったから――。