第9話 【初めての味】
「あり合わせだけど、どうぞ」
トンと、目の前に置かれたのは、えび茶色のラインの入った大きな白いどんぶり。
茶色いスープの中には、黄色い縮れた麺とキャベツに半熟の落とし卵。その上には綺麗に小口切りされた長ネギがこんもりと乗っている。
ミソ風味の何とも言えない美味しそうな匂いが、熱々の湯気と共に立ち上って、食欲中枢を刺激した。
うわ……、美味しそう。
思わずお腹が『ぐう』と催促をする。
「インスタント・ラーメンだけど、もしかして初めて食べるとか?」
「はい。初めてです。スパゲッティは良く食べましたけど」
「ホントに!?」
「はい」
『いただきます』をして、猫舌用に出してくれたおみそ汁のお椀に小分けしながら、少しずつ麺をすする。
初めての味が口いっぱいに広がった。
――ラーメン。これがラーメンなんだ。
しみじみ感動する。
何だか、今日は初めての経験ばかりしている。
ファミレスに、写真のモデル……猫が嬉しいと喉をゴロゴロ鳴らすのも分かったし、コタツにラーメンも。
驚きの連続だったけど、それは決して嫌な感覚じゃないくて、ドキドキする楽しさがあった。
それは、たぶん、私の目の前にいるこの人のお陰。
つくづく、不思議な人だと思う。
少年のような屈託の無い笑顔で、警戒心なんかどこ吹く風で、するりと私の心の中に入って来てしまった。
私は、とても特殊な環境で育っていて、接触する人間がごく限られていたために、知らない人間が極度に苦手だ。
苦手と言うよりむしろ、恐怖の対象と言った方が言い得ているかもしれない。
いきなりポンと放り出された『外の世界』は、恐怖で満ち溢れていた。
タクシーはまだしも良かったけど、初めて乗った電車では、中年の酔っぱらいが何か訳の分からないことを言って絡んできたり、人混みに紛れて身体を触られたりとか、ろくな経験をしなかった。
だから、あの公園で芝崎さんに声を掛けられたとき感じたのは、『恐怖』。
なのに今、私はこうして、芝崎さんのアパートでコタツを囲んで、ラーメンをすすっている。
本当に、不思議な人。
チャプン――。
コンパクトな白い空間に、気持ち良さに思わず口を突いて出た『ふう』と言う溜息が反響した。
畳一畳にも満たない広さに、小さな湯船とおもちゃみたいな洗面台。
『ユニット・バス』と言うのだそうだ。
小柄な私でも、膝を曲げてやっと座れるような小さな湯船だけど、何日かぶりで入ったお風呂は、疲れ切った心と体を芯から温めてくれる。
――あの人達は、どうしているだろうか?
ふと、懐かしい面影が脳裏に浮かぶ。
私を育ててくれた『柏木先生』は私にとってお父さんのような人で、白衣の似合うお医者さんでもある。
メガネの奥の穏やかな瞳は、いつでも私たちを見守っていてくれた。
そう私たち。
私と彼女を――。
「藍ちゃん。着替えここに置いておくから」
不意に掛けられた声に、はっと我に返った。
「あ、はい。すみま……」
すみませんと言いそうになって、慌てて「ありがとうございます!」と言い直す。
扉の向こうからは、微かな笑い声が聞こえた。
――ほんと。口癖になっているんだ。
そう実感した。