第一話・『ネットゲーム、初めて聞きました』
「あちっ!」
右手の親指に熱いお湯がかかり、思わず手を離しそうになったが、そうするとカップラーメンの中身がアスファルトにブチマケることになるので俺は我慢した。
特売で買った九十八円のカップめんとはいえ、一口も食べずにこぼすのは勿体ないし罰が当たる。神様に、それと○ちゃんにもだ。
ところで先程から道行く方々がすれ違いざまに俺の右手に注目してるのは何故だろう。カップめんを持ちながら歩く人がそんなに珍しいか。
いや、単にこれから向かうところが徒歩三分くらいで丁度家を出る時に小腹が空いたから、ならばとお湯を入れて持って出ただけだから。時間の有効活用だから。
そう道行く主婦に丁重に説明したい気持ちを堪えながら、視線を合わせないように左手に持ったプリントを意味もなく見る。
内容はなんてことのなく、迫る中間テスト範囲が書かれただけのものだ。俺も貰って今はくしゃくしゃになってゴミ袋の中でおしくらまんじゅう状態だ。明日の朝は燃えるゴミの日だしな。
そうだ。今、俺が持つプリントは俺のではない。本来帰りのホームルームに教室に居れば受け取れたはずのそれを、俺はわざわざ病欠した生徒に届けに向かっている最中だ。
友人でもなく、会話を交わしたことすらなのに、どうして俺が届け役を任されたのかというと家が近いという、たったそれだけの単純明快な理由だ。友人か携帯メールで送ればいいものかとも思うが、そいつは友人もおらず携帯も持ってないようで、困った末に俺に頼んだというわけだ。
人付き合いが不得手な俺でさえ一人、今の高校にいるのに、一人もいないとは……確かにそいつが誰かと会話してるところを見たことはないし、むしろ拒絶しているようにも見える。誰かが話しかけても素っ気ない反応をしているし、まるで影のような存在感で教師に指されところも見たことはない。
クラスでは浮いた存在。
それが俺の早崎伊織の印象だった。
「……くずれ荘。相変わらずベストネーミングだな」
アパート名が彫られた長年の月日の経過を物語るくすんだ木の板を眺め、俺は呆れ半分に感心して呟いた。
名は体を表すの見本にしたいその建物は、確かに台風一過とともに無くなっていてもおかしくないくらいにボロい。
築五十年は経ってるらしいからそうなっていても別段変ではないのだが、このアパート名を考えた家主は何を思って命名したのだろうか。
俺の今し方の呟きを引き出すために名付けたのだとしたら、かなりの長期計画だったなと素直に感心せざるを得ない。
あまり眺めているとカップめんが伸びてしまうし、さっさと用件を済まそう。
担任の話では早崎の部屋は二〇四号室だったなと、鉄製の錆びた階段をカンカンと響かせて上がる。
事情は知らないが早崎は一人暮らしをしていると聞いた。こんなボロアパートの一室でとは、様々な憶測が脳内で巡ってしまい、俺は目頭が熱くなる。
噂では頻繁に休むため病弱な令嬢説も流れたが、さすがにお嬢様はこんなところには住まない。日夜バイトで働き詰めた結果体を壊した――という理由の方が納得できる。
そんな悲壮感溢れるストーリーを脳内で創りながら部屋の前に着いた。ネームプレートにも『早崎』とある。
新聞受けに放り込んでいくことも考えたが、病欠ということで様子も見てくるよう担任に頼まれたことを思いだしノックをする。担任(二十八歳・女・独身)に思春期の生徒を一人暮らしの異性の家に送り込むというのは危険だと忠告してみたが『新堂なら大丈夫だろ』と面白い冗談を訊いたように笑いながら返された。
「…………あ」
返事はなく、カップめんの状態を気に掛けると俺はとんでもない過ちに気付いた。
箸がねえ。
箸がないと熱くて食べれないじゃないか。カップ焼きそばならなんとか手掴みでいけるが、熱々のスープに手を突っ込むのは自殺行為だ。俺はバカだ。壁に頭を打ち付けたくなるが痛いからやめた。
今すぐ走って返っても、一分半くらい掛かるし、全力疾走するとお湯が暴れて火傷する確率が高い。
ここは、プリントを渡すついでに割り箸でも借りるのがカップめんに対しても最良の判断だ。こいつだって一番美味い時に食べてほしいに決まってる。だろ?
もう一度、強くノックをする。
しかし、返事はなかった。
事態は急を争う。俺は試しにノブを握ると簡単に回った。鍵は掛かってないようだ。不用心だが幸運だ。悪いと思いつつも俺はドアを開いた。
外観からの想像通り部屋はパッと見て六畳一間の手狭な部屋だった。玄関から左を向くと台所があり、汚れた食器が無惨にシンクを埋めていた。食器の泣き声が聞こえてきそうなくらいの酷い有様だ。
部屋の奥に視線をやると更に酷い。
角に置かれたゴミ箱は許容量をオーバーしており、そこから溢れたゴミくずが周りに散らばり、足の踏み場もないくらいに衣服やら雑多な物が数多く床に散乱している。
俺は口端をひくかせ、今にも部屋に上がり込みたい衝動に駆られる。
汚いを超越した部屋を見渡していると、早崎の特徴である長い黒髪が畳に墨汁をこぼしたように広がっているのが見えた。姿は玄関を仕切る引き戸に隠れているが、居留守かよと俺は苛つきながらも、
「早崎さん」
そう呼びかけると黒髪がスルスルと戸の向こうに消えていき、少ししてゆったりした足取りで早崎が姿を見せた。
「……誰?」
早崎は顔を歪ませ気怠そうに聞いてきた。
ボサボサの長い髪は自室だからというわけではなくいつもそんな感じだ。身だしなみに無頓着なのを表すように今の格好は、恐らくは中学時代であろう紫のジャージ上下だ。うちの指定は赤だからな。
別に同級生のオシャレとはかけ離れたジャージ姿を見ても幻滅はしない。俺の妹なんざ休日以外は寝る時を除いてほとんどジャージだ。
しかし、早崎も身だしなみを気にかければいいのにと、余計なお世話かも知れないがいつも思う。顔立ちは整っているのだし人気が出るだろう。告白だってあるかもしれない。
けれども、俺はその一人に加わろうとは思わない。容姿だけで俺は人を好きにはならないし、今言ったことからしても印象は悪くなったばかりだ。
「隣の席の奴を忘れんなよ」
名前はともかく全くの他人のように「誰?」と聞かれるとは予想外だった。
早崎はゆっくりと首を傾げてから、思いだそうと仮想の教室を浮かべたのか右を向いた。
「いや、そっちは窓だろ」
早崎の席は窓際最後尾だ。隣の席は俺しかいない。
言われて早崎は左を向き、そして前を向き、
「あー、見たことある顔。多分」
俺はズルッと古典的リアクションをし、
「多分かよ」
「私はクラスの百分の一くらいしか顔を覚えてない」
と、早崎は薄く笑い胸を張る。ジャージ越しでもボリュームを感じさせる胸がより強調され……って、
「うちのクラスそんなにいないから! どんなマンモス学級!? 百分の一ってもはや顔のパーツの一部しか覚えてないだろ。というか何で自慢げなんだよ」
「そう。その死んだ魚のような目だけは覚えている」
「目だけかよ!? 酷い言いぐさだな!」
まあ、子供の頃から『やる気を見せろ』と先生から目を見てよく言われてきたが。幾ら一所懸命やっていても言われたのはショックだったな。
「で、誰なの?」
「ああ、俺は新堂要。……ってヤバい」
こんな悠長に話をしている間に刻々と乾麺は水分を吸って食べ時を逃してしまう。
俺は腰を九十度に折り頭を深く下げ、頭より高い位置でパンと手を打った。
「頼む。箸を貸してくれ! 一生のお願いだ!」
「…………は?」
ズルズルズル。モグモグモグ。
うん、涙が出るくらいに美味しくはない。麺とスープの状態からして三分オーバーといったところか。うどんにしとけばまだマシだったか。
「何でカップラーメン持ってきてるの?」
呆れたように早崎は俺を見上げ聞いてくる。
俺は部屋に上がらせてもらい、座るスペースもなく立ち食いでラーメンを啜り、早崎はパソコンが置かれた机の前に座っている。
「話せば長くはならない。しいていうなら時間の有用活用だ。それと、箸は洗って返す」
「ハンカチじゃないんだから……というか捨てて。割り箸だし」
こんな見事に割れたのに捨てるのは勿体ない気もするが。ズルズルズル。
「それで、私の隣の席らしい新堂かなめが何の用?」
「何故フルネームなんだよ。つか、呼び捨てかよ」モグモグ。
「リアルで人の名前呼んだことないから。私のことも呼び捨てで構わない。様付きでも可」
「何様ですか……」
しかも、淡々と友達つき合いがなかったような事をカミングアウトされたな。呼んだことないって……今まではどうしてたんだよ。
「先生には先生、両親にはお父さんにお母さん、弟には貴様と呼んでた」
弟が不憫だ。俺は食い終わったカップめんをとりあえず台所に置いて……置けないから持ったまま、
「……友達は?」
「いない。いたことがない。リアルでは」
「リアルでは?」
「しいていうならゲームが友達」
うわあ……イタい子がここにいました。友達は簡単にはできないと俺は知っているが、いたことがないと事も無げに言うなんて涙を禁じ得ない。
「何で泣いているの?」
「いや、何でもない。……ところで早崎は一人暮らししてるらしいがどうしてなんだ?」
涙を袖で拭いながら、話題を変えようとした質問だったが、高校生が安アパートで一人暮らしというのは海よりも深い理由があるかもしれないし、踏み込むべきではなかったと後悔する。
「私の両親が……」
早崎は、壁際、パソコンの方を向き、ため息を挟む。マズかった質問だったか……
「……ネット回線を引かせてくれなかったから」
「……は?」
「それで実家からじゃ通学に不便な高校に進学して、一人暮らしをさせてもらって、仕送りをやりくりしてパソコンを買って、回線を引いたの」
「何でそこまでしてネットしたいんだ」
涙なくしては聞けないような話じゃなくて安堵はしたが。
「ネットゲームしてみたかったから」
淡々と早崎は答えた。
「ネットゲーム?」
聞き馴染みのない単語に俺は首を傾げた。俺は家庭で禁止令が出てるわけでもないが、ゲームには関心がなく知識が薄い。しかし、それでも単語ごとの意味は理解できる。
「ネットは網で、ゲームは遊びだから、網で遊ぶって事は、つまりは虫取りだな!」
俺は導いた答えを自信ありげに突きつける。意外にも早崎はアウトドア派だったのか。更には子供心まで持ち合わせた。
早崎は少しむっとしたように眉を寄せ、
「アホ。バカ。アホ。腐れ」
「ちょっとボケただけなのに酷い言われようだな」
「……そうだったんだ。ごめん」
急にしおらしくなり早崎は頭を下げる。こうも素直に謝られると俺の方が悪く思えてくる。
「いや、俺も下手なボケだった。すまん」
「私も、リアルでそういう会話したことないから……こんな程度の低いボケをする人がいるなんて知らなかった」
「俺をそんなに貶したいのか」
それより、さっきから聞く“リアル”ってなんだろうか。それよりも俺は部屋に上がり込んでからずっとしたいことがあった。
一人暮らしの同級生の部屋で、俺は体がが疼いてならない。俺は早崎に真剣な眼差しを向け、言った。
「この部屋を片付けさせてくれ」