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「君を愛することはない」と言われたので「では念書を」と迫ったら、冷酷公爵が泣き出した

作者: キュラス
掲載日:2026/05/22

「君を愛することはない。この結婚は単なる政略だ。君には公爵夫人としての義務だけを果たしてもらう。……それ以上を、私に望むな」


初夜の寝室。王都で最も美しいとされる豪奢な天蓋ベッドを背にして、帝国が誇る『氷の公爵』こと、クラウス・フォン・ルーフェンは冷たく言い放った。


月明かりに照らされた銀糸のような髪に、氷河を思わせる鋭い蒼の瞳。戦場では敵国から「死神」と恐れられ、社交界では「歩く絶対零度」と囁かれる彼に相応しい、見事なまでに冷酷な宣言だった。彫刻のように整った顔立ちは、一切の感情を排したかのように強張っている。


相対する私、しがない貧乏伯爵家の長女であるリディル・アークライトは、その完璧な「冷酷公爵のテンプレ台詞」を正面から受け止め、小さく、ひっそりと安堵の息を吐いた。


(なるほど。巷の令嬢たちの間で流行っている『白い結婚』というやつね。助かったわ)


普通の、それこそ純真無垢な深窓の令嬢であれば、夫となる男性からの拒絶に顔を覆って泣き崩れるところだろう。絶望し、愛されるために健気に努力する道を選ぶのかもしれない。


しかし、私は純真無垢でもなければ、愛に夢見る少女でもなかった。

病弱な父と浪費家の母に代わり、膨大な借金の返済スケジュールを組み、寂れた領地の特産品を売り込み、悪徳商人相手に胃潰瘍寸前まで立ち回ってきた、生粋の『実務家』である。


愛がない? 大いに結構。

愛や情といった不確かな感情で契約内容(結婚生活)がブレるほうが、よほど厄介だ。情に絆されて不当な扱いを受け入れたり、愛人問題でドロドロの愛憎劇に巻き込まれたりするのは御免である。ビジネスライクな関係こそ、私が最も得意とする分野だった。


「左様でございますか。旦那様のお考え、しかと承知いたしました」


私は完璧なカーテシー(淑女の礼)を見せると、スッと姿勢を正した。

そして、ウェディングドレスの幾重にも重なるフリルの裏――自作の隠しポケットから、あらかじめ用意していた特注の最高級羊皮紙と、インクの要らない魔石ペンを取り出した。


「では、後々のトラブルを防ぐため、ただいまのお言葉をこちらの『念書』に一筆いただけますでしょうか?」


「…………は?」


氷の公爵の完璧な顔に、ピキリと間抜けな亀裂が走った。


*****


「ね、念書、だと……?」


クラウス様は、私がサイドテーブルの上に広げた羊皮紙と、押し付けたペンを交互に見比べながら、呆然と呟いた。先ほどの威圧感はどこへやら、その蒼い瞳は戸惑いに揺れている。


「はい、念書です。口頭での約束は法的拘束力が弱く、後々『言った』『言わない』の水掛け論になりがちですから」


私はにっこりと営業スマイルを浮かべ、スラスラと羊皮紙に条件を書き込み始めた。


「まず、第一条。『甲(公爵)は乙(私)に対し、恋愛感情に基づく一切の接触を持たない』。これは基本ですね。次、第二条。『乙は公爵夫人としての対外的な義務(夜会への同伴、領地経営の補佐等)を果たす代わり、甲は乙の私生活に関与しない』。……ああ、重要なことを忘れていました」


私はペンを走らせる手を止め、クラウス様を見上げた。


「『君を愛することはない』ということは、当然、跡継ぎを作るための行為もない、ということでよろしいですね?」


「っ!? な、ななな……っ!」


クラウス様は顔を真っ赤にして、後ずさった。氷の公爵が、まるで純情な少年のような反応を見せているが、気にしている場合ではない。ここは大事なポイントだ。


「無言は肯定と受け取ります。では第三条。『甲は乙に対し、寝室の共有および身体的接触を永久に要求しない。これに違反した場合、甲は乙に対し違約金として金一千万ガルドを支払うものとする』……と」


「い、いっせんまん……!?」


「おや、公爵家の財力からすれば安すぎましたか? では三千万ガルドに……」


「違う! 金額の問題ではない! 永久に要求しない、とはどういうことだ!?」


クラウス様が慌てて身を乗り出してきた。私は首を傾げる。


「どういうことも何も、旦那様ご自身がおっしゃったのではありませんか。『愛することはない』と。愛もないのに跡継ぎの道具としてだけ扱われるのは、実務家として……いえ、一人の人間として割に合いません。お互いに割り切ったビジネスパートナーとしてやっていくのであれば、権利と義務、そしてペナルティの明確化は必須です」


私はビシッと人差し指を突き立てた。


「さらに第四条。『将来的に甲に真実の愛の相手(恋人)ができた場合、乙は速やかに離縁に応じる。その際、甲は乙に対し、慰謝料として領地一つと生涯年金を保証する』。……完璧です。さあ、旦那様。こちらの末尾にフルネームでご署名と、公爵家の紋章印をお願いいたします」


「ま、待て……待ってくれ、リディル……」


クラウス様は羊皮紙を受け取ろうとせず、わなわなと震える両手で顔を覆った。


「どうされました? 条項に不満がおありですか? でしたら修正の協議に応じますが」


「ちが……そうじゃない……」


震える手の中から、くぐもった声が漏れる。そして、ゆっくりと顔を上げたクラウス様の目元を見て、私は息を呑んだ。


帝国が誇る冷酷無比な氷の公爵。

数々の戦場をくぐり抜け、敵の返り血を浴びても表情一つ変えなかったという伝説を持つ男。


その彼の、鋭く美しい蒼の瞳から――ポロポロと、大粒の涙がこぼれ落ちていたのだ。


「えっ……? だ、旦那様……?」


「ちがうんだ……私は……っ、そんなつもりで言ったんじゃない……っ!」


クラウス様は、まるで迷子になった子供のようにボロボロと泣き出し、その場に崩れ落ちるように膝をついた。


*****


「あの、泣かないでいただけますか。私が悪徳取り立て人みたいではないですか」

「ヒック……ううっ……だって……永久に接触しないとか……そんなの、あんまりだ……」

「ご自分で言い出したことでしょう!?」


初夜の寝室は、完全にカオスと化していた。

私は念書とペンを持ったまま仁王立ちになり、床に座り込んで泣きじゃくる大柄な公爵を見下ろしている。傍から見れば、妻が夫を虐待しているようにしか見えない。


「落ち着いてください。深呼吸して。……はい、吸ってー、吐いてー。で、いったいどういうことなのか、論理的かつ簡潔に説明していただけますか?」


私がなだめるように言うと、クラウス様は目元を赤く腫らしながら、ぽつりぽつりと語り始めた。


「……私は、その……女性経験が、皆無で……」

「はあ。まあ、ずっと戦場にいらしたと聞いていますし」

「君のことは……夜会で初めて見たときから、その、ずっと……美しいと、思っていて……」

「……はい?」


思わぬ言葉に、私の声が上擦る。


「私の容姿は怖がられるし、口下手だし……どう接していいか分からなかった。そんな時、部下の騎士が貸してくれた恋愛小説に……書いてあったんだ」

「恋愛小説?」

「ああ。『俺様で冷酷な振る舞いをする男ほど、後から甘やかした時のギャップで女は落ちる』と……。だから、最初は冷たく突き放して……その、徐々に心を開いていく過程を……楽しんでもらおうと……」

「…………」


私は天を仰いだ。

(どこの三流なろう系小説よ、それ……!!)


つまり、この男は。

私に一目惚れしていたものの、コミュ障ゆえにアプローチ方法が分からず、部下の適当なアドバイスとフィクションの知識を真に受けて、初夜という超重要イベントで『冷酷な俺様公爵』のロールプレイをしてしまったのだ。


「で、でも君が……いきなり念書なんて出すから……! 永久に触れないとか、愛人ができたら離婚とか……っ、私は君と普通に、あたたかい家庭を築きたかったのに……っ!」


「あたたかい家庭を築きたい男が、初夜に『君を愛することはない』とは言いません!!」


私は思わず手元の丸めた羊皮紙で、公爵の銀髪の頭をスパーンと叩いてしまった。


「痛っ……」

「当たり前です! 相手の気持ちも考えず、自分勝手なシナリオを押し付けるのは、ただの自己満足です! 私は借金取りや悪徳商人と渡り合ってきたんですよ? 不利な口約束など絶対に許しませんし、リスクヘッジは完璧に行います!」


私が怒涛の勢いで説教すると、クラウス様は「うう……ごめんなさい……」と小さく縮こまった。身長190センチ近い大男が、子犬のようにしょんぼりしている姿は、なんとも形容しがたい。


(……はぁ。まさか、氷の公爵の中身が、こんな面倒くさいポンコツだなんて)


私は盛大にため息をつき、手元の羊皮紙を破り捨てた。ビリビリという音に、クラウス様がビクッと肩を揺らす。


「いいですか、旦那様」

「は、はい……」

「私は実務家です。回りくどい駆け引きや、非効率なすれ違いは嫌いです。もし本当に私とやり直したいのであれば、三流小説の真似事などやめて、最初から正直に言ってください」


私は新しい羊皮紙を取り出し、再びペンを走らせた。


「今から『新・誓約書』を作成します。第一条『甲は乙に対し、嘘や見栄を張らず、常に誠実であること』。第二条『問題が発生した際は、速やかに話し合いの場を設けること』。第三条……」


書き終えた羊皮紙を、今度こそクラウス様の目の前に突きつける。


「これに署名できるなら、先ほどの暴言は忘れて差し上げます。……どうしますか?」


クラウス様は、目を丸くして羊皮紙と私の顔を交互に見つめた。その蒼い瞳から、もう涙はこぼれていない。代わりに、何か眩しいものでも見るような、熱のこもった光が宿っていた。


「……君は、本当に……面白い女性だな」


先ほどの泣き顔が嘘のように、クラウス様はふっと柔らかく、これまでに見たどの作り笑いよりも美しい、自然な微笑みを浮かべた。


「署名しよう。これからは、君のやり方に従う」


彼が流れるような筆致でサインをし、公爵家の紋章印を押した瞬間。

私たちの、極めて実務的で、それでいて致命的に不器用な『本当の』結婚生活が幕を開けたのだった。


翌朝。広々とした天蓋ベッドで目を覚ました私は、視界の端に信じられないものを捉えて微直立不動になった。


「おはよう、リディル。よく眠れただろうか。私は君の寝顔があまりにも愛らしくて、昨晩は一睡もできなかった」


ベッドの脇に置かれた椅子に深々と腰掛け、目を血走らせた『氷の公爵』ことクラウス様が、私を凝視していたのである。

その姿は、冷酷無比な死神というよりは、ご主人様が起きるのを待ちわびて一晩中お座りをして待っていた大型犬のようだった。


「……おはようございます、旦那様。一つお伺いしても?」

「なんだろうか。なんでも聞いてくれ。今日の君の髪の跳ね具合も、計算された芸術のように素晴らしいな」

「なぜ旦那様は、ご自身の部屋に戻られなかったのですか?」


昨晩、私たちは『新・誓約書』にサインを交わした後、とりあえず初夜の行為はなし(お互いの合意と段階を踏むまで保留)ということで合意した。そして、私はてっきり彼が自室に戻るものだと思っていたのだ。


「なぜって……ここは夫婦の寝室だろう? 誓約書第一条『嘘や見栄を張らず、常に誠実であること』に従い、私の正直な気持ちを申告させてもらうと、君と一秒でも長く同じ空間にいたかったからだ」


真顔で、しかも低く響く美声で、どストレートな愛情表現を叩きつけられる。

どうやらこの男、「冷酷な俺様」という枷が外れた結果、今度は「愛が重すぎる正直者」へと極端なクラスチェンジを果たしてしまったらしい。


「……誓約書を守る姿勢は評価しますが、睡眠不足は業務の効率を著しく低下させます。次からはちゃんと寝てください」

「善処する。だが、君の寝息を聞いているだけで、私の魔力が回復していくような不思議な感覚があったんだ。これが……愛?」

「それはただの気のせいです。さあ、起きますよ。今日はやることが山積みですから」


私はベッドから抜け出し、呆れながらも身支度を整え始めた。

正直なところ、悪い気はしなかった。これまでの人生、借金取りの怒号や、悪徳商人の値切り交渉ばかり聞いてきた私にとって、こんなにもストレートに好意を向けられるのは初めての経験だったからだ。

……まあ、その好意の表現方法が少し(いや、かなり)ズレているのはご愛嬌だろう。


*****


朝食後、私はさっそく公爵家の執務室に乗り込んだ。

公爵夫人の義務として、領地経営の補佐や家計の管理を行うためだ。実務家としての血が騒ぐ。


「素晴らしい……!」


私は山積みになった帳簿をめくりながら、歓喜の声を上げた。

実家の貧乏伯爵家とは桁が違う資産額。広大な領地から上がる莫大な税収。そして、それらを管理するための膨大な書類。


「リディル、そんなに帳簿が面白いのか? 私が用意した宝石のカタログよりも?」


執務机の向かい側で、クラウス様が少し拗ねたような顔でこちらを見ている。彼は私が執務室に入ると、なぜか自分の仕事を放り出して向かいの席に陣取り、ずっと私を眺めているのだ。


「宝石は資産価値が変動しやすいですし、売却時の目減りも大きいので後回しです。それより旦那様、この帳簿、少し無駄が多いですね」

「無駄?」

「はい。例えばこの第3領地の治水工事。毎年同じ業者に発注していますが、相場より2割ほど割高です。それに、王都の邸宅の維持費。使っていない客間の暖炉まで毎日薪をくべているようですが、これは完全な経費の無駄遣い。さらに……」


私は次々と問題点を指摘し、改善案を提示していった。

借金地獄の実家を立て直した私にとって、これくらいの経費削減は朝飯前だ。むしろ、削れる無駄が山ほどあるこの状況は、腕の鳴る宝の山に等しい。


「……君は、本当にすごいな」


クラウス様は、目を丸くして私の説明を聞いていたが、やがて感嘆の息を漏らした。


「剣を振るうことしか能がない私には、そんなこと思いもよらなかった。私の公爵家は、君という女神を迎え入れたらしい」

「女神ではなく、ただのケチな実務家です。……ところで、旦那様。先ほどから私の顔ばかり見ていますが、ご自身のお仕事はよろしいのですか?」

「君の顔を見るのが今の私の最優先業務……と言いたいところだが、誓約書に『問題が発生した際は話し合う』とあるから正直に言おう。君に見とれていて、書類の文字がまったく頭に入ってこない」


堂々とした職務怠慢の宣言である。


「……誓約書を言い訳にすれば何でも許されると思っていませんか?」

「そんなことはない。ただ、私は君に嘘をつきたくないんだ。君の瞳は深いエメラルドのようで、見つめていると吸い込まれそうに……」

「はいはい、口を動かす前に手を動かしてください。この書類、今日中に決済が必要なのでしょう?」


私はクラウス様の顔に書類の束を押し付けた。

「冷酷公爵」と呼ばれた男をこんなに雑に扱っていいのか、たまに不安になるが、当の本人が「君に叱られるのも悪くない」などと嬉しそうに微笑んでいるので、もう考えるのをやめた。


*****


午後。

執務室で一息ついていると、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。


「閣下、失礼いたします。第2騎士団副団長のレオンハルト、定時報告に参りました」


入ってきたのは、金髪で爽やかな顔立ちの青年騎士だった。彼がクラウス様に敬礼をした後、私に気づいて目を丸くする。


「おや、奥様もご一緒でしたか。これは失礼を」


私は彼に軽く微笑み返しつつ、脳内である情報を照合していた。

レオンハルト。第2騎士団副団長。クラウス様の腹心の一人であり……。


(……間違いない。こいつが、旦那様にあの『三流恋愛小説』を貸し付けた元凶ね)


私は営業スマイルを顔に貼り付け、彼に向き直った。


「初めまして、レオンハルト卿。夫がいつもお世話になっております」

「あ、いえ、こちらこそ……って、あれ?」


レオンハルト卿は、私とクラウス様を交互に見比べ、不思議そうな顔をした。


「閣下、昨日の『アレ』、上手くいったんじゃないんですか? もっとこう、冷え切った関係からスタートして、徐々に心を溶かしていく劇的な展開になるはずじゃ……」


「レオンハルト」


クラウス様の声が、急に氷点下まで下がった。

本来の『氷の公爵』としての威圧感が、執務室の空気をピリッと引き締める。レオンハルト卿はビクッと肩を震わせた。


「あの馬鹿げた小説の件は、二度と口にするな。私はリディルに多大な精神的苦痛を与え、あやうく一生口を利いてもらえなくなるところだったのだ」

「えっ!? そ、そんなはずは! あの本は巷の令嬢たちの間で大ベストセラーで……」

「大ベストセラーであろうと関係ない。私はリディルに対して、常に誠実でありたいのだ」


クラウス様はそう言い切ると、私の手をとって恭しく口付けを落とした。

レオンハルト卿は、その光景を見て「信じられない」というように口をパクパクさせている。


「……だ、旦那様、人前でそういうのは」

「誓約書に『人前で愛情表現をしてはいけない』という項目はなかったはずだが?」

「屁理屈を言わないでください」


私はクラウス様の手を軽く叩き、レオンハルト卿に向き直った。


「レオンハルト卿。あなたの善意からのアドバイスだったのかもしれませんが、人間関係において『意図的なすれ違い』は、タイムロスとストレスの元でしかありません。ハイリスク・ノーリターンの不良債権のようなものです」


私はビシッと彼を指差した。


「真の信頼関係は、日々の誠実なコミュニケーションと、明確な合意形成コンセンサスの上にのみ構築されます。フィクションの展開を現実に持ち込むのは、投資詐欺に引っかかるのと同じくらい愚かな行為ですよ」


「投資、詐欺……!?」


レオンハルト卿は、私のビジネス用語混じりの説教に圧倒され、完全に固まってしまった。


「……というわけで、今後旦那様に変な入れ知恵をするのはご遠慮ください。旦那様の情緒が乱れると、私の業務効率に響きますので」


「は、はいっ! 申し訳ありませんでした、奥様!」


レオンハルト卿は直立不動で頭を下げると、逃げるように執務室を去っていった。


*****


「……ふう。これで変な横槍は入らないでしょう」


私が満足して息を吐くと、背後からクラウス様が不機嫌そうな声を上げた。


「リディル」

「はい、何でしょうか」

「……君が他の男と長く話しているのを見て、胸の奥がチクチクした。これも正直に申告しておく」


振り向くと、クラウス様が眉間にシワを寄せ、大型犬が縄張りを主張するかのように私をじっと見つめていた。


「嫉妬、ですか?」

「ああ。私は心が狭い男のようだ。レオンハルトを辺境に左遷したくなった」

「冗談でもそういう職権濫用は禁止です」


私はため息をつきつつも、彼が自分の感情を隠さず、まっすぐに伝えてくれることに、胸の奥が少し温かくなるのを感じていた。


「旦那様」

「なんだ」

「誓約書第一条に従い、正直に申し上げます」


私は彼に歩み寄り、背伸びをして、その銀糸の髪をそっと撫でた。


「私は、不器用でも真っ直ぐに気持ちを伝えてくれる、今の旦那様の方が……その、好ましいと思っていますよ」


クラウス様は目を丸くした後、顔を真っ赤にして両手で顔を覆った。


「……っ! リディル、君は、私をどうしたいんだ……!」

「何もしていません。事実を述べただけです」


泣き虫で、過保護で、愛が重い氷の公爵。

私たちの結婚生活は、契約書の上のビジネスライクな関係から、少しずつ、けれど確実に、別の形へと変化し始めていた。


それから数週間後。

私たち夫婦は、結婚後初めてとなる公的な場――王城で開催される建国記念の夜会に出席することになっていた。


社交界という名の伏魔殿。そこは、貴族たちが笑顔の裏で牽制し合い、派閥争いと情報収集に血道を上げる戦場である。

当然、公爵夫人としての私の『価値』が品定めされる場でもあった。


「リディル。この部屋にあるドレスと宝石、すべて君のものだ。どれでも好きなものを選ぶといい。いや、いっそ全部着てみるか?」


夜会の数日前。公爵邸で一番広い客間は、王都中の高級ブティックから取り寄せられたドレスと宝飾品で埋め尽くされていた。

色とりどりのシルク、零れ落ちそうなほどのレース、そして目が眩むような輝きを放つ宝石の数々。並の令嬢であれば歓喜の悲鳴を上げて卒倒する光景だろう。


しかし、私は冷ややかな目でその『資産の山』を査定していた。


「……旦那様。これ、全部買い取るおつもりですか?」

「もちろんだ。君を世界で一番美しく飾るためなら、公爵家の財の半分を注ぎ込んでも惜しくはない」

「却下です。流動資産をこんなに実用性の低い装飾品に固定化させるなど、財務管理の観点からあり得ません。それに、一度の夜会で着られるドレスは一着だけです」


私はため息をつき、控えていた商人たちに向き直った。


「申し訳ありませんが、購入するのは一着のみです。予算は……そうですね、この中から最も『着回しが利き』『流行に左右されず』『資産価値の落ちない』最高品質の布地を使ったものを選びます」

「なっ……リディル、それでは私の気が済まない! 君への愛を、私は財力で証明したいのに!」

「愛を財力で証明しようとする男は、最終的に身を持ち崩しますよ。誓約書第一条、誠実であれ。無駄遣いは誠実な家計運営に反します」


私がピシャリと言うと、クラウス様は「ううっ……」と呻いて引き下がった。大型犬がしっぽを丸めているような幻覚が見えるが、ここは心を鬼にしなければならない。


結局、私が選んだのは、深い夜空を思わせるミッドナイトブルーのシンプルなドレスだった。過剰な装飾はないが、布地の光沢とカッティングの美しさが際立つ逸品だ。


「……ドレスはそれでいいとしよう。だが、せめてこのネックレスだけは着けてくれないか?」


しょんぼりしていたクラウス様が、一つのベルベットの箱を差し出した。

中に入っていたのは、大粒の蒼い宝石があしらわれたプラチナのネックレスだった。彼の瞳と同じ、氷河のように澄み切った蒼色。一目で、それが桁外れの価値を持つ国宝級の代物だとわかる。


「これは、ルーフェン公爵家に代々伝わる品だ。魔除けの加護が込められている。……私の代わりに、君をあらゆる悪意から守ってくれるように」

「旦那様……」


その真摯な瞳と、控えめだが確かな愛情に、私は小さく息を吐いた。


「……わかりました。これは、ありがたくお借りします。その代わり、夜会では私が旦那様を『社交の悪意』からお守りしますね」

「ああ。頼りにしているよ、私の優秀な妻」


クラウス様は嬉しそうに微笑み、私の首元にそっと冷たい宝石をつけてくれた。

彼の大きな手が首筋に触れた瞬間、なぜか心臓がトクンと跳ねたのは、決して魔除けの効果などではないだろう。


*****


そして迎えた、建国記念の夜会当日。


王城の豪奢なシャンデリアが照らす大広間は、色鮮やかなドレスを着飾った貴族たちで埋め尽くされていた。

オーケストラの優雅な演奏が響く中、私たち夫婦がエントランスに姿を現すと、広間の空気が一瞬にしてピンと張り詰めた。


「あれが、氷の公爵閣下……」

「隣にいるのが、借金まみれのアークライト伯爵家の娘か」

「なんでも、白い結婚らしいわよ。閣下は彼女の顔も見ようとしないとか」

「まあ、可哀想に……」


ヒソヒソという囁き声が、波のように広がっていく。

無理もない。現在のクラウス様は、私に向けた『愛が重い大型犬』の顔を完全に封印し、冷酷無比な『氷の公爵』の顔を完璧に作り上げているのだから。


氷河のように冷たい視線。一切の感情を排した無表情。その圧倒的な威圧感に、周囲の貴族たちは道を開けるように後ずさっていく。

誰が見ても「妻を愛していない冷酷な夫」にしか見えないだろう。


しかし――。


(リディル、今日の君は本当に美しいな。周りの男どもが君を見ているだけで、私は今すぐこの広間を氷漬けにしてしまいたい衝動に駆られているよ)

(旦那様、顔と声のギャップが激しすぎます。それに腹話術のようにお話しされるのはやめてください。笑いを堪えるのが大変です)


私の耳元では、クラウス様が超低音の美声で、延々と甘い(そして少し物騒な)愛の言葉を囁き続けていたのだ。

彼は表情筋を微動だにさせず、周囲には「妻に冷たい言葉を投げかけている」ように見せかけながら、実際には「君のうなじが綺麗だ」「早く家に帰って君の淹れたお茶が飲みたい」などとこぼしているのである。


(まったく、器用なのか不器用なのかわかりませんね……)

(私はただ、君にしか聞こえない声で愛を囁きたいだけだ)


そんなやり取りをしながら広間を進んでいると、不意に私たちの前に立ち塞がる影があった。


「おや、これはルーフェン公爵閣下。ご結婚、おめでとうございます」


わざとらしい笑みを浮かべて現れたのは、でっぷりと太った中年の貴族――ガルシア侯爵だった。彼は実家であるアークライト伯爵家に、法外な利子で金を貸し付けていた悪徳貴族の一人である。


「……侯爵か」

「それにしても、閣下も物好きでいらっしゃる。いくら魔力と武力に秀でているとはいえ、あのような借金まみれの貧乏伯爵家から妻を娶るとは。……奥様も、公爵家の重圧に耐えられるのか、少々心配ですな」


ガルシア侯爵は、ねっとりとした視線で私を舐め回すように見た。

周囲の貴族たちが、面白そうな余興を見つけたと言わんばかりに耳をそばだてている。ここで私が泣き寝入りすれば、公爵家の顔に泥を塗ることになる。


クラウス様が一歩前に出ようとしたのを、私は扇子でそっと制した。

(お下がりください、旦那様。ここは実務家の出番です)


私は完璧な営業スマイルを浮かべ、ガルシア侯爵に向き直った。


「ご心配いただき、ありがとうございます、侯爵様。ですが、公爵家の財政管理は非常に合理的かつ健全であり、私のような実務経験者にとっては非常にやりがいのある職場……いえ、嫁ぎ先でございますわ」

「ほほう、実務経験とな? 借金取りから逃げ回る経験のことかな?」


侯爵の嫌味な言葉に、周囲からクスクスと嘲笑が漏れる。

しかし、私は笑顔を崩さなかった。


「ええ、おかげさまで『悪質な高利貸しの手口』や『不正な帳簿の読み方』には大変詳しくなりましたわ。……ところで、ガルシア侯爵様。侯爵が投資されている東部領の鉱山開発ですが、ずいぶんと『経費』が嵩んでいるようですね?」


「なっ……!?」

ガルシア侯爵の顔から、スッと血の気が引いた。


「先日、公爵家の投資案件を見直しておりましたら、侯爵の鉱山事業の報告書に目を通す機会がございまして。作業員の給与や資材費の計上が、市場価格の約3倍になっているのはいかがなものかと。まるで、どこかに裏金として流れているような……」

「ば、馬鹿な! でたらめを言うな!」


「でたらめかどうかは、監査院が調べればすぐにわかることですわ。それに、南部の貿易商会との取引でも、関税の申告漏れがあるのでは? もし公爵家がこれらの事実を王家に報告すれば、侯爵様の資産は一気に『焦げ付く』ことになりますが……よろしいのですか?」


私は扇子で口元を隠しながら、首を傾げてみせた。

公爵家の書斎で頭に叩き込んだ、貴族たちの不正や弱み。その中でも、ガルシア侯爵の帳簿のずさんさは群を抜いていたのだ。


「き、貴様……っ、たかが小娘が、私を脅す気か……っ!」


激昂した侯爵が、私に向かって手を振り上げようとした、その瞬間。


バキィッ!! と、広間の床が凍りつくような音が響いた。


*****


「――誰に向かって口を利いている、ガルシア侯爵」


絶対零度の声。

クラウス様が一歩踏み出すと、彼を中心に目に見えるほどの冷気が広がり、ガルシア侯爵の足元に霜が張った。


「ひっ……!」

「私の妻は、事実を述べたまでだ。それを脅しと受け取るということは、身に覚えがあるということだな?」


蒼い瞳が、獲物を狙う鷹のように侯爵を射抜く。

その恐ろしいまでの殺気に、広間にいた全員が息を呑み、沈黙した。


「そ、それは……っ、私はただ、閣下の名誉を案じて……っ! このような貧乏娘に、閣下がたぶらかされているのではないかと……っ!」

「たぶらかされているだと?」


クラウス様は鼻で笑った。

そして、ゆっくりと私の方に向き直ると、周囲の目など一切気にすることなく、私の腰を引き寄せ、その大きな手で私の頬を包み込んだ。


「勘違いするな。私が、彼女に惚れ込んでいるのだ。彼女の美しさ、賢さ、そして何よりその不屈の精神に、私は心底惚れ抜いている」


甘く、熱く、そしてどこまでも響き渡る声での、公開告白。

先ほどまでの冷酷な公爵はどこへやら、今の彼は、ただ一人の女性を熱烈に愛する男の顔をしていた。


「リディルは私の人生の光だ。彼女が私の妻となってくれたことこそが、私にとって最大の誉れである。……私の妻を侮辱する者は、このルーフェン公爵家に対する明確な敵対行為とみなす。覚えておけ」


「あ、ああ……っ」


ガルシア侯爵は完全に腰を抜かし、這うようにしてその場から逃げ出していった。

広間は水を打ったような静けさに包まれた後、やがて「氷の公爵が、あんなにも情熱的に……」「なんて素晴らしい夫婦愛なの……」と、ため息まじりの称賛の声が上がり始めた。


「……旦那様」

「すまない、リディル。少しやりすぎただろうか? だが、君を傷つけようとする輩を許すことはできなかった」


クラウス様は、心配そうに私の顔を覗き込む。

その顔は、またしても「褒めてほしい大型犬」に戻っていた。


「……いえ。費用対効果としては最高のパフォーマンスでした。これで、私に無用なちょっかいを出す貴族はいなくなるでしょう」


私は小さく笑い、そっと彼の手を握り返した。


「それに……私を守ってくださって、ありがとうございました。少しだけ、格好良かったですよ」


「少しだけ!? 今のは私なりに100点満点の立ち回りだったはずだが!?」

「自己評価が高すぎるのはビジネスにおいて危険です。気を引き締めてくださいね」

「ううっ、君は本当に厳しいな……だが、そんなところも愛している」


華やかなシャンデリアの下、周囲の羨望の眼差しを浴びながら、私たちは密かに微笑み合った。


政略から始まり、念書で結ばれ、不器用なすれ違いを経て手に入れた、この関係。

ロマンチックな恋愛小説のような甘さはないかもしれない。甘い言葉よりも、帳簿の数字や契約の条項を話し合う時間の方が多いかもしれない。


それでも。

嘘偽りのない言葉で愛を伝えてくれるこの不器用な男との生活は、どんな莫大な財産よりも、私の人生を豊かにしてくれる『最高の投資』だと、胸を張って言えるのだ。


「さあ、旦那様。もう用は済みましたし、早く帰りましょう。明日は領地の農業改革案の決済が待っていますよ」

「ああ、喜んで。君と徹夜で書類仕事をするのも、悪くない悪夢……いや、幸せな時間だ」


氷の公爵と、実務家令嬢の、愛と利益に満ちた結婚生活は、まだ始まったばかりである。

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