8 ビジョンブラッド、リードはなし
スタジオの床に、硬質な音が響く。
誰も、その音の正体が分からなかった。
だが、すぐにスタッフ、ゲスト、そして氷室――全員の目が同じ場所に吸い寄せられる。
犬だ、一匹の巨大なグレートデンが、照明に照らされながら、ゆっくりとスタジオ内を進んでくる。
白と黒が入り混じった毛並み、その存在感に、場の空気がピリピリと張りつめていく。
しかし、誰もが次の瞬間、さらに強い違和感に襲われた。
リードがない、付き添いも、ハンドラーも。
犬を扱う人間の姿すら見えない。
犬だけが歩いてくる。
「……だ、大丈夫なの?」
「やばくないか……?」
スタッフたちの不安そうな声が、ざわめきのようにスタジオ中に広がっていく。
やがて、神埼の椅子のすぐそばに近づくと、静かに伏せて座った。
本当に、雌なのか――。
槇村は息を呑んだ。
犬の姿が視界に収まった瞬間、その輪郭が頭の中でぐらついた。
ネット上では、すでに「雄より大きいのでは」との噂が飛び交っていた。
画面越しでは半信半疑だったが、実物を前にすれば、それが誇張ではなかったことが分かる。
筋肉のつき方が普通ではない。
皮膚の下に流れる線は滑らかで、だが重たく、まるで闘犬種のように無駄がない。
断耳も、断尾もされていない。
血統が良い――その一言では片づけられない、“何か”がある。
タレント犬ではない。
大型犬だから、躾が行き届いているだろう。
そんな言葉は、この犬には似合わない。
だが、最もおかしいのは――誰も付き添っていないということだった。
ハンドラーは? 指示を出す人間は?
スタジオ内をぐるりと見渡す。
だが、犬に目を配っている様子の人間は一人もいない。
誰かが舞台袖で手信号を出している様子もない。
その異常さに、槇村の喉が乾いた。
隣に座る白鳥もまた、目を見開いていた。
普段は堂々とした態度を崩さない彼女が、あからさまに声を震わせて言った。
「……危険でしょう」
その声は、誰かに向けた問いではなく、自分自身の理性に対する警告のようだった。
白鳥の視線もまた、スタジオ内を忙しく巡る。
飼い主はいない。
命令を出す人間もいない。
あり得ない。
こんな現場、聞いたことがない。
司会席にいる氷室もまた、その空気を感じ取っていた。
目の前にいる二人の専門家。
槇村と白鳥。
普段なら絶対にブレないはず、その目が、今、明らかに揺れている。
口には出さないが、動揺が、全身ににじんでいる。
氷室の胸に、じわりと冷たい感覚が広がっていく。
進行表には何も書かれていない。
神崎は隣に静かに伏せている雪を嬉しそうに見た。。
「気に入ってくれたようだな、ビジョンブラッド」
その声は優しさというより、満足感がにじみ出ていた。
氷室は無意識に、雪の首元に目をやった。
ルビー――それも、明らかに異様な赤だった。
これはテレビ出演のための演出、イミテーションだ。 そうに決まっている。
「言いたいこと、わかるよ」
神崎が不意に、氷室に向かって微笑んだ。
その笑みは、ただの冗談では済まされない、何かを知っている者の顔だった。
「偽物、イミテーションだと思ってるんだろ?」
ズバリと言い当てられて、氷室はわずかに眉を動かした。
図星――いや、それ以上に“まさか”が現実味を帯びてきたことに、心の奥がひどくざわついた。
「本物に決まってる。一点ものだ」
神崎は、確信に満ちた声で言い切る。
ニッコリと笑う表情は場違いなほど楽しそうだ。
だが、その横で黙っていた丸川が、ついに口を開く。
どこか不満げに、ぼそっと呟いた。
「お前じゃない……選んだのは店長だ」
氷室は一瞬、聞き間違いかと思った。
ゲスト席に座る槇村と白鳥も、ルビーの存在に気づいていたのだろう。
二人とも目を見開き、言葉を失っていた。
白鳥は硬直したまま、何かを言いかけて口をつぐむ。
槇村はただじっと、雪の首元の赤い宝石を凝視し続けていた。
氷室は冷や汗をかきながら、ようやく気づいた。
“異常”なのは犬だけじゃない。
ここにいる人間たちもまた――どこか、常識の外側にいる。
――これはもう、動物を飾りとして“消費”してる。
その不快感が、心の中にじわりと広がっていた。
美しい宝石、豪華なスタジオ、目を引く構成。
でも、犬は生き物だ。感情も、緊張もある。
なのに、この犬は、人の視線を意にも介さない。
それが逆に、白鳥の神経を逆撫でした。
「……この犬、変よ」
思わず呟いた声は誰にも届かない。
隣にいた槇村もまた、犬から目を離せずにいた。
この沈黙、この制御されたような静けさ。
大型犬ならもっと緊張するものだ。
興奮を抑えるためのサインが、どこかに出る。
それがない。
(これが躾でできる領域か? いや、これは……)
槇村の喉が乾いた。
一方で、芸人の川口は──完全に気圧されていた。
(ちょっと触って笑いにできたら……そう思ってた)
収録前、楽屋で仲間に言われた言葉が脳裏に蘇る。
『馬鹿なこと、すんなよ』
何が馬鹿なのか、その時はピンと来なかった。
でも今、目の前で伏せているその犬を前にして──川口は、指一本すら動かせない。
全身が硬直している。
(これ、笑っていいやつじゃない)
そんな確信が、川口の胸を圧迫していた。
ちょっとイジってみよう、なんて気持ちは完全に霧散していた。
氷室はスタジオ全体の空気の異変に気付いた。
白鳥は唇を噛み、槇村はじっと犬を凝視し、川口は額に汗を浮かべている。
それら全部が、犬がそこに「静かにいるだけ」なのに、全員が呑まれていた。
「すごく大きな体格ですが、普段は何を食べているんですか?」
川口の素朴な質問に、神崎がにやりと微笑んだ。
「専属の食事係がいるんだ。犬専用のな」
その一言に、川口は思わず「えっ?」と声を上げた。
「ドッグフードじゃこの体は維持できないよ」
その言葉を受けて、すかさず白鳥が食いつく。
「専門の料理人ということですか? どんな食事を?」
神崎は軽く肩をすくめた。
「彼女はインド人でね。日本語は分からない。挨拶くらいならできるが」
その瞬間、白鳥の表情が一瞬止まった。
隣の槇村も、無意識に姿勢を正した。
(インド人……日本語が話せない?)
専門家として多くの犬の飼育現場を見てきた二人にとって、“日本語の通じない専属料理人”は、さすがに規格外だ。
川口がたまらず質問を重ねる。
「じゃあ、普段の指示とかはどうしてるんですか?」
白鳥も気になる様子で続く。
言葉が通じない相手に、どうやって食事の管理や指示を出すのか?
そのとき、今まで黙っていた丸川がぽつりと呟いた。
「イタリア語だ」
「……え?」
一瞬、空気が止まった。
白鳥はまばたきを忘れ、目を丸くする。
槇村も口元を押さえ、無言で神崎と丸川を見比べた。
(イタリア語……? インド人の料理人が? 犬と?)
頭の中で疑問が渦を巻く。
白鳥はつい犬を見やった。だが、雪と呼ばれたその犬は、まるで全てが当然だというように落ち着き払っていた。
――何かが根本的に違う。
専門家であるはずの自分の知識が、目の前で音を立てて崩れていく。
白鳥はそんな不安を噛みしめながら、無意識に椅子の肘掛けを握りしめていた。
「犬がイタリア語を理解するんですか?」
白鳥の率直な疑問に、丸川はまるで当然のことを問われたかのように、憮然と返した。
「おかしいのか? イタリア語がわかったら」
一瞬、スタジオの空気が凍る。
白鳥は言葉を飲み込んだ。
だが、なぜか丸川の一言が胸にひっかかった。
常識を疑われている気がして、妙な居心地の悪さがこみ上げる。
(……でもやっぱり変よ。普通じゃない)
白鳥は視線を伏せる。まだ、自分が何に違和感を抱いているのか整理できないままだった。
隣の槇村は、そのやり取りを静かに見つめていた。
食事係がインド人、使う言葉がイタリア語――
(つまり、この犬は最初から“日本語圏”の犬じゃない)
血筋や管理体制、犬の精神的な安定ぶり。
あまりに“国際的”すぎる背景。
(海外、しかも多言語環境で育てられてきた個体……)
槇村の中では、犬の育成環境のピースが静かに繋がり始めていた。
だが、そんな分析ができる余裕は川口にはなかった。
「えっ……え? インド人? イタリア語? ちょ、待って、料理人って、犬専用の……? え? どういうこと??」
彼は思わず首を傾げ、周囲を見回す。
さっきまでの“おもしろ質問枠”としての余裕は跡形もない。
“専属の料理人”の時点でギリギリだった脳内の常識が、“インド人”と“イタリア語”の連続パンチで完全にキャパオーバーしていた。
(こんな世界があんのかよ)
川口の目には、本気で理解できない混乱が浮かんでいた。
「この映画、出演の役者は舞台出身の方が多いと伺っています」
氷室の言葉に、スタジオ内の空気がすっと引き締まった。
軽やかな雑談の延長かと思われたその問いは、次の一言で微妙な空気に転じた。
「それと……子役の姿が見えませんが?」
その瞬間、神崎の表情は変わらなかったが、サングラス越しの丸川の口元が微かに歪んだ。
「セリフも読めない、演技もできない子供の世話を、スタッフや役者がやるべきだと?」
その声は、冷たい氷をぶつけるように刺さった。
氷室の眉がピクリと動いた。
驚きではない。不快感だった。
(…言い過ぎじゃないか?)
思わず何か言おうとした氷室に、神崎が落ち着いた口調でかぶせてきた。
「誤解しないでくれ」
彼は笑っていたが、その声は妙に静かだった。
「監督が日本人だと思ったのかな?」
神崎が、何気なく笑ってみせる。
その笑顔は無邪気なようで楽しんでいるようでもあった。
「フランス、イタリア、ドイツ……複数の監督が現場で指示を出すんだよ」
「韓国とインドもいるぞ、それ」
丸川が、当然のように指を折って補足する。
――複数? それも、ヨーロッパからアジアまで?
氷室の思考が一瞬、真っ白になる。
監督というのは一人のはずだ。
映画には“色”が必要で、 その“色”を決めるのが監督じゃないのか?
「え……じゃあ、佐川さんは?」
頼みの綱のように口をついて出たその名に、神崎が肩をすくめてみせる。
「総監督だよ。全部をまとめる立場さ。ほら、大変だろう?船頭多くして…ってやつ」
「実際、現場はなかなか地獄絵図だぜ」
丸川が口元でにやりと笑う。
氷室の胸が、ざわりと音を立てた。
一本の映画に複数の監督――
冗談じゃない、氷室は内心でそう叫んでいた。
だが、神崎も丸川もごく当然のことのように平然としている。
(過去にそんな映画があったか? いや、あってもインディーズの短編とか、小さな企画だけのはずだ…)
不安になった氷室は、思いきって二人の役者に視線を向けた。
「それでは役者さんたちは困るんじゃないですか? 通訳とか、どうしてるんです?」
次の瞬間、神崎の笑顔がふっと消えた。
丸川も、すっと険しい目になる。
「現場で通訳? 本気で言ってるのか?」
丸川の言葉は、呆れと苛立ちが半分ずつ混じった響きだった。




