7 氷室の不安、相談する TV出演
進行台本をめくる氷室の指先に、じんわりと汗がにじんでいた。
現場の空調は適温のはずなのに、台本の紙が指にやけに張りついてくる。
(更新……まだか。公式サイト、完全に止まってるな)
役者のプロフィールも、出演する犬の詳細も、一切が空白のままだ。
掲示板では〈現場が地獄らしい〉〈マジでやばい犬が来る〉といった信憑性の薄い噂だけが飛び交っていた。
「氷室さん」
耳元に沈んだ声が落ちる。顔を上げると、若手の制作スタッフがいつになく硬い表情をしていた。
普段は明るく冗談ばかりの男だが、今日はどこか空気が重い。
「ゲストに若い芸人、急遽入ったんです」
「へぇ、まぁ、賑やかになるなら――」
氷室が笑みを浮かべかけたとき、その先を遮るようにスタッフが低く言った。
「気を付けてください、犬に……触りたいとか言い出すかもしれません」
「それは、まぁ……バラエティじゃよくあることだろ?」
冗談交じりに返す氷室だが、スタッフはまるで聞こえていないかのように表情を強張らせたままだった。
「あの犬、断耳も断尾もされていないんです」
言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。
「だんじ……何?」
「普通、グレートデンって生後すぐに耳とか尻尾を切るんです。見た目と管理のために。でも、あの犬はしてない、完全に家庭犬として育てられてます」
「それの何が問題なんだ? 見た目が違うだけだろ?」
氷室の口調はまだ穏やかだったが、スタッフの視線は変わらなかった。
「ハルクインタイプは、気質が個体差も激しくて、熟練のハンドラーでもコントロールが難しい時があるって」
「それはプロがちゃんと見てるんじゃ?」
一歩引くようなトーンで氷室が返すが、スタッフは首を振った。
「スイッチが入ったら……誰にも止められません」
その言葉に、ようやく氷室の表情が曇る。笑顔が消え、目の奥に警戒色が差した。
「何が……起きる?」
スタッフは一拍置いて、静かに言った。
「指や手がなくなることも……あります。本気で」
空気が、変わった。
「それとですね――」
スタッフが声を落とした瞬間、空気が変わった。氷室は直感的に嫌な予感を覚えた。
「もうひとつ、気になる連絡がありまして」
言い淀む口調が、ただ事ではないことを告げている。
「番組内容について、フランスの弁護士から直接、連絡が来たんです」
「弁護士?」
氷室の声が低くなる。眉間に寄った。
信じられないという感情が露骨に滲み出ていた。
「映画の話は構わない。ただ、犬のプロフィールには一切触れないでくれと言われました」
「……嘘だろ?」
思わず口から漏れた言葉は、驚きというよりも、あまりに現実味のない展開への拒絶だった。
だが、スタッフは真顔のまま、そっと首を振った。
「調べたら、実在する法律事務所からでした」
「正真正銘、フランスの弁護士、だと?」
スタッフは頷いた。
その動作の重さが、すべてを物語っていた。
氷室の思考が一瞬、止まる。
(犬の情報に、弁護士? なんだそれ。おかしいだろ)
イタズラだと――そう思いたかった。
だが、目の前のスタッフの顔は青白く、目の下には薄いクマが浮かんでいる。冗談でそんな顔になるか?
「……まずくないか、これ」
ようやく絞り出した言葉に、誰も即答できなかった。
インタビューの前日。
薄暗い廊下の片隅、氷室は槇村と白鳥を呼び止めた。
「相談したいことがあるんです」
槇村と白鳥、二人とも犬の専門家と愛護団体に所属シている人間だ。
昨今、動物のタレント番組が増えてきたのでテレビ局で会うことも珍しくない。
インタビューの前日。
氷室は槇村と白鳥の二人を呼び止めた。
「相談したいことがあるんです」
槇村と白鳥――どちらも犬の専門家で、愛護団体にも所属している。ここ最近は動物が絡むテレビ番組も増えたせいか、こうして局内で顔を合わせるのも珍しくなくなった。
槇村は氷室と同じくらいの年齢で、黒いスーツ姿。物静かで、声も低め。廊下の薄暗さが妙に似合っている。
一方、白鳥は三十代半ばくらいだろうか。シュッとしたジャケットを着こなし、バッグのストラップを無意識に指でいじりながら、どこか勝ち気な表情で氷室を見つめている。
「実は番組が決まってすぐ、海外の弁護士から警告がきたんです。犬のプロフィールには一切触れるな、って」
白鳥の眉がきゅっと上がる。
「は? 弁護士ですか?」
「しかも正規の書式で、局の法務も“本物”だって」
白鳥が思わずバッグのストラップを引っ張った。
「そんな重要な話、どうして今になって?」
槇村はほとんど顔色を変えずに呟いた。
「オーナーから依頼を受けたんじゃないですか」
氷室は頭の中に“?”がいくつも浮かぶのを感じた。
オーナー、犬の飼い主ではないのか。
「どういうことですか」
自分でも声が少し裏返ったのが分かった。
「母犬の飼い主です」
その答えに、完全に思考がフリーズする。
何故、そんな間接的な存在が出てくる?
氷室は明らかに戸惑いを顔に出してしまった。
まるでパズルのピースが足りないまま強引に完成させようとしているような、そんな不快な感覚。
「飼い主ではない、母犬の飼い主です。日本人ではないかもしれません」
槇村の言葉が冷静すぎて、逆に背筋が寒くなる。
「あなたの質問次第では訴訟を起こされるかもしれません」
――冗談じゃない。本気だ。
思わず、氷室は喉の奥で息を呑んだ。
質問一つで訴訟になる、そんなバカな、と思ったのだ。 けれど、白鳥の声がそれを遮る。
「テレビに出る以上、そのくらいのことは考えているでしょう」
その一言に、氷室は思わず頷いてしまった。
確かに、映像を通して世に出るということは、言葉ひとつが国境を超える可能性だってある。
だが、それでも
腑に落ちない。
「映画の話は構わないと言ってるんです。ただ、犬のプロフィールには触れるなって、そこまで神経質になる話でしょうか?」
それに反応したのは、白鳥ではなく、槇村だった。
彼はゆっくりと白鳥の方を向き、静かに口を開く。
「国内の範囲で考えていらっしゃるんですね」
白鳥の顔がこわばった。
その表情は自分の知識が足りないと見抜かれたときの、プライドの痛みがにじんでいた。
槇村は淡々と続ける。
「公式サイトを確認しました。犬の情報、特に血統や繁殖履歴が一切掲載されていません。登録名も、出生地も、何もです」
氷室が息をのむ間に、槇村は視線を氷室へ移し、そのまま静かに言った。
「この警告、普通の弁護士の仕事ではないかもしれません。日本のテレビ番組に文句を言いにきた、レベルの話ではありません」
声に感情はなかった。
むしろ、それが逆に重かった。
「血統、遺伝、繁殖、それらに関する情報の漏洩を“経済的損失”と本気で考える世界の話です」
冷たい水を浴びせられたような沈黙が、その場を支配した。
氷室は、言葉も出せずにただ槇村を見ていた。
テレビ番組の枠を、すでにこの話は超えている。
それを最初に察していたのは、他でもないこの男だった。
お笑い芸人の川口は、「出てみないか?」とマネージャーに言われたとき、特に考えずに「いいっすよ」と返した。
犬が出る映画の番組なんて、美味しい仕事じゃん――それくらいのノリだ。
しかも、上からの「出ろ」指令付き。逆らう理由もなかった。
だが、その話を楽屋でぽろっと仲間の芸人に漏らした瞬間、妙な空気になった。
「……お前、調子に乗ってヘタなことしたら大変なことになるぞ」
真顔で言われて、川口はぽかんとする。
「え、なにが?」
「犬に触ろうとか、絶対やめとけよ」
「……えっ、マジで? そんなヤバいの?」
「タレント犬じゃねぇからな。あれで何かあったら、お前、ただじゃすまねぇぞ」
仲間は苦い顔をしていた。
「でもさ、大型犬って言っても、ちゃんと躾けられてるんでしょ? 番組に出すくらいだし」
川口の呑気な発言に、仲間は首を横に振る。
「この犬、情報が出てないんだよ。飼い主も、経歴も、何も。普通じゃねぇだろ」
おかしい――
その言葉が妙に耳に残った。
でも、そのときの川口は、まだ「へー、そうなんだ」くらいの感覚だった。
本当に、その意味を知るのは、もう少し先の話になる。 土曜日、朝9時。
番組開始まで、残りわずか。
氷室は落ち着かない気持ちを胸に、手元の進行表を見つめていた。
ここまで来ても、心のざわつきは収まらない。
原因は、専門家ゲストの二人――槇村と白鳥だ。
槇村は、あの犬のプロフィールには一切触れない方がいい、と真顔で言い切った。
対して白鳥は。
「むしろ、そこまで隠すのはおかしい」
真剣な眼差しで反論していた。
どちらも冷静なようでいて、意見は真っ向からぶつかっている。
氷室自身は、正直、白鳥寄りだった。
テレビに出るというのは、世間に自分をさらけ出すということだ。
それがどれほどセンシティブな存在であっても、全国放送のカメラの前に立つ以上、ある程度の“矢面”に立つ覚悟はあるはずだ。
好奇心にさらされることも、その一部だと、そう思っていた。
(……もうすぐだ)
そう心の中で呟いて、氷室は控室のドアを開けた。
途端に、向こうから小走りにスタッフが近づいてくる。
「あと数分で、役者さんたち到着します!」
焦りと緊張が入り混じった声だった。
スタジオの中では、すでにゲストたちが席に着き、準備は整っている。
緊張感が、目に見えるほどスタジオに満ちていた。
スタッフ同士の会話も減り、足音すら妙に響いている気がする。
「役者さん、入ります!」
その声が響いた瞬間、スタジオがピタリと静まり返った。
時間が一瞬止まったような空白。
誰もがその先に現れる人物に、無意識に視線を向けていた。
最初にスタジオの扉が静かに開き、姿を現したのは――神崎だった。
真っ白なスーツに、首元には派手なスカーフ。
帽子とサングラスで顔の大半は隠されているが、その装いは一目見て、ただの芸能人ではないと分かる。
腕には光を反射する重厚なブレスレット、ちらりと覗く腕時計も桁違いの気配を放っている。
全身から滲み出るのは、金と時間と“裏側”の匂い。
彼の一歩一歩に、現場の空気がわずかに揺れた。
続いて現れたのは丸川だった。
黒いサングラスに、黒いスーツ。
髪はピッチリと撫でつけられ、無駄な動き一つない。
その姿は、まるで本職――そう、まさにヤクザのようだった。
だが、彼の着ているスーツもまた一流品。海外ブランドの光沢が、スタジオの照明にすら屈せず、威圧感すら演出していた。
二人は何も言わず、ゲスト席に腰を下ろす。
氷室はタイミングを見計らい、近くのADに小声で尋ねようとした。
犬はどうしましたと氷室は口を開きかけた」
そのときだった。
スタジオ入口の奥――廊下の向こうから、スタッフの声が聞こえた。
決して大声ではない。
だが、言葉の端に明らかな動揺が滲んでいた。




