「オーデイションの現実」
少し手直ししました
「……光石も来てるのか。どうなってるんだ」
神崎が吐き出すように言った瞬間、二郎の心臓がドクンと跳ねた。
——光石、その名前に聞き覚えがあった。
テレビでは脇役が多いが、観る者の記憶に強く残る男。
くぐもった声、鋭い目線、ほんの一瞬の登場でさえ、場の空気を塗り替える存在感。
自分よりも年上だったはず。
「あの男、先月、一人芝居をやったらしい。海外でな」
神崎の声が低くなった。
「一人芝居を三時間、海外だぞ」
「……三時間……一人で?」
思わず聞き返した二郎の声が、少しだけ震えていた。
神崎は、苦笑いを浮かべた。
「化け物だよ、あいつは」
その顔には、敬意と畏怖が混ざっていた。
「なんであの男が脇役しかやらないか……分かるか?」
神埼の言葉に二郎は首を振った。
「食われるからだ。主役でも」
神崎はため息を吐いた。
「それでも、舞台で共演したがる役者はいるんだよ。舞台上の緊張感が変わるんだ。光石がそこにいるだけで——空気が張りつめる。」
神崎の顔には、明らかな動揺がにじんでいた。
(……そんな人間が、この場に?)
ここは何なんだ?
ただのネット募集のオーディションじゃなかったのか?
そんな疑問を抱えたまま、オーディションの時間が始まった。
審査員席には、二人の若者が座っていた。
一人は、落ち着いた雰囲気をまとった女性。
長い黒髪を無造作に結い、目は鋭く、どこか物書きの匂いを纏っている。
もう一人は、やや痩せ型の男性。
目元が涼しく、端正だがどこか影がある。
——水川と佐川。
(若い……若すぎないか?)
カメラが設置されて別室で見ているのかと思った。
だが。
そんな気配もない。
二人の目だけは、冗談じゃないほど鋭かった。
数ページの台本、その中にある短いセリフ。
「相棒、待たせたな」
たったそれだけの一行。
だが、妙に引っかかった。
(……相棒? ってことは、もう片方は決まってる?)
この台詞を受ける「誰か」が、すでに決まっていて、それに合わせるキャストを探している?
それとも演出のミスリードか?
そもそもこの脚本、どんなシーンなんだ。
分からない。不安だけが胸に広がる。
だが、台本を読み終えたあと、二郎はふと、気づいた。
審査員の顔。
その目の奥にある微細な変化。
——落胆ではなかった。
この作品の原案は、彼女が数年前に書いた短編小説。
引退した刑事とその愛犬の、静かな余生を描いた物語。
そのモデルとなったのは、水川の亡き父と——**愛犬・龍た。
佐川は眼鏡の縁に指をかけ、そっと押し上げた。
その動作ひとつにも、心の揺れが滲んでいた。
この企画を、映像化したいと最初に言い出したのは自分だ。
映像クリエイターとして無名でも、この物語に出会ったとき、胸が熱くなった。
——震えるくらいに、撮りたいと思った。
それほど、水川の描く物語には“生”が宿っていた。
龍はグレート・デンだった。
その大きさと存在感、賢さ、忠誠心。
それらがそのまま、作中で描かれる“相棒”のイメージと重なっていた。
佐川は当然、実際の龍をモデルに撮ることを考えていた。
だが——
龍は、死んだ、突然。
大型犬には多い、心疾患による突然死だった。
老齢も重なり、ある朝、起きたらそのまま息をしていなかったという。
「父は、私よりも。分かり合ってた」
ぽつりと水川が呟いた。
「“お前だけだよ、俺の気持ちが分かるのは。相棒”って……
父は、いつも龍にだけ話しかけてました。
私には言わなかったような言葉を……」
水川の目は伏せられたままだったが、佐川は感じていた。
彼女がこの作品を書いたのは、
亡き父と、亡き愛犬と、ようやく向き合うためだったのだと。
「……グレート・デンでは、無理じゃないですか」
佐川は、正直、その言葉の意味をちゃんと理解できていなかった。
単純に考えていた。
「演技指導が難しい」
「調達が困難」
そういう話だと思っていた。
けれど違った。
かけがえのない存在との再会であり、別れでもあった。
「……それでも、俺は……映像にしたいんです」
佐川の声は静かだが、心の奥を削るような響きだった。
「あなたの“龍”がいたその場所、物語を残したいんです」
オーディションが終わったあと、二郎はビルの外へ出た。
午後の光が少し眩しかった。
深く息を吐いてみても、胸の重さは変わらない。
(……落ちたかもしれない)
そんな不安が、じわりと湧いてくる。
出し切った手応えはあった。けれど、あの場にいた役者たちの顔が浮かぶたびに、
自分の存在が霞んでいく気がした。
「二郎さん」
ミサキの声がした。
振り返って言葉を返そうとしたが、
一瞬、言葉が詰まった。
ミサキは全身黒尽くめだった。
黒のパーカーにジーンズ、黒のマスク。
だが、それ以上に二郎の視線を奪ったのは。
彼女の隣にいる犬だ。
大型犬。いや、“大型”なんて生易しい言い方では足りない。
巨大だった。
身体にピタリと合うフード付きのパーカーを着せられて、頭まですっぽり隠されている。
犬種が分からないが、ただの犬に見えなかった。**
「雪です。ショーコちゃんの犬なんです」
ミサキが説明した。
二郎はゆっくり近づいたが、雪は動かなかった。
まるでぬいぐるみのように、じっと座っている。
しつけが行き届いてるから静かなのか。
近づいても反応しない。
「近くに犬も入れるオープンカフェがあるんです」
ミサキがニッコリ笑った。
その笑顔に引っ張られるように、二郎はうなずいた。
カフェに入ると、店員が少し驚いた顔をした。
だが、ミサキがマスクを取って微笑みかけると、店員は一瞬で安心したようだった。
(……やっぱりすげぇ顔してんな、この人)
犬の大きさに驚いてもミサキが美人だから安心感があるのだろう。
美人ッ手得だと二郎は思った。
「オープン席がいいんですけど」
ミサキの言葉に、店員は即座に頷いた。
テラス席に落ち着くと、注文した珈琲が運ばれてくるまでの間、二郎はちらりと、雪を見た。
(……こんなに静かな犬っているか?)
ゴールデン、シェパード、コリー。
テレビでは、どの犬も人懐っこくて愛嬌があって、飼い主にすり寄ってる。
(ショーコの犬なのに、ミサキが預かってる……?)
ミサキがショーコちゃんと話し始めた。
「またバンで釣り三昧なんです。雪はお兄さんのとこで預かってるんですけど、腰がね」
「えっ?お兄さん、また怪我したんですか?」
驚いて聞き返すと、ミサキは苦笑して言った。
「街で子供にぶつかって、転けたんですって。……足、ひねったみたいで」
「……えぇっっ、また……?」
思わず大声が出た。
「……お前、ちょっと楽観してないか?」
そう言われたとき、佐川は返す言葉に詰まった。
犬好きの友人に相談しただけのつもりだった。
だが、相手の目は思っていたよりも真剣だった。
「グレートーデンが子供に優しいとか、家庭犬に向いてるとか。ネットの情報や本の言葉を、鵜呑みにしてないか?」
思わず口をつぐんだ。
「そんなつもりはない。ただ……慎重にはしてるつもりだ。」
友人は、長年保護犬活動をしている男だった。
知識も経験も豊富だ。だからこそ、言葉のひとつひとつに重みがあった。
「あのサイズだ。ちょっとしたことが“事故”になる。」
「事故……?」
「食事中に腸が捻れてな……数時間で死ぬ。食べながら急に苦しみ出して、助からないこともある。」
佐川は息を呑んだ。
あの優雅で堂々とした犬が、そんな脆さを抱えているとは思いもしなかった。
「繊細すぎるんだよ。
身体が大きい分だけ、心臓も胃も、全部に負担がかかる。」
友人は静かにコーヒーを口に含み、そして言った。
「あと、個体差が激しい。人間で言えば、穏やかな奴もいれば、すぐキレる奴もいる、“撮影向き”の犬なんて、簡単に見つからない。」
佐川は唇を噛んだ。
その現実を、想像の中では避けていたのかもしれない。
「タレント犬を探せばいいんじゃないか?」と、ようやく言葉を絞り出した。
友人は首を横に振った。
「探せば“いるかもしれない”。でも“使える”とは限らない。それに、タレント犬ってのは、生きた道具じゃない。」
「……期待しないほうがいい、ってことか。」
「実物、見たことあるのか?」
友人が問う。
佐川は少し間を置いて、
「写真なら……」と小さく答えた。
「毛色ひとつ、目の色ひとつで、扱い方がな。中にはプロでも手が出せない犬がいる。」
(自分は、何を撮ろうとしてるんだ?)
それは“犬の物語”ではなかった。
生きて、喋らない何かを撮ろうとしている。
それはもはや、演出でも撮影でもない。
人間の都合の外にある“命”そのものだった。
佐川はそのとき、初めて悟った。
——映像を撮るということは、
“命の時間”を切り取ることなのだ。




