12 映画に出れば変わる、母親と息子の行動が始まった
(息子の修二を売り込むだけ。チャンスは逃さない)
震える指で発信ボタンを押す。
一度、二度の呼び出し音。
胸の鼓動が早くなる。
「……Bonjour, maison Saphir Film.」
聞こえた瞬間、恵梨香の頭の中が真っ白になった。
「え、あの、日本語……?」
返ってきたのは、穏やかで、しかし完全に異国の声。
英語でもない。わずかに巻き舌、流れるような響き。
それがどれほど柔らかくても、意味はまるでわからなかった。
「えっと……ムービー……キャスト……マイ・サン、ヒズ・アクター!」
焦りで息が詰まる。
相手は数秒沈黙し、何かをフランス語で言った。
口調は穏やかだが、どこか突き放している。
「Non, madame。」
通話が切れた。
静まり返った部屋の空気が、一瞬で重くなる。
手の中のスマホが震えているのは、通知ではなかった。
自分の手が震えているのだ。
「ノン……マダム……?」
口の中で繰り返す。
その言葉の意味もわからないのに、
胸の奥がひどく冷たくなった。
「達也、聞いてくれる?」
声は妙に落ち着いていた。
自分が正しいと信じている人間の声だ。
ソファで仕事メールを確認していた達也が、小さく顔を上げる。
「制作会社に連絡したの。修司のこと、ちゃんと売り込もうと思って。でも、英語じゃない言語で話されて、全然分からなかったのよ」
恵梨香の言葉はという戦果報告のようだった。
達也は心の中ではすべてを察してしまった。
“なんで勝手に突っ走るんだ”
“恥かいただけじゃないか”
驚くと言うよりも呆れてしまった。
胸の中に石のような思い感情が沈むのを感じた。
「映画会社に?」
恵梨香は振り向きもせずに答えた。
「修二のためよ。あの子、輝ける場所が必要なの」
映画会社に連絡したが話が通じなかったということを聞いて達也は、安心した。
口に出せなかったその感情が心に静かに沈殿していく。
だが、それだけでは終わらなかった。
自分の胸に沸いた不安が、妻の“野心”だけではなく、息子・修二の“欲”にも繋がっていることに、彼は気づいていなかった。
それは思いがけず――夕食の席で、露骨に顔を出す。
「父さん、あの映画……気になってるんだよね」
味噌汁の湯気越しに、修二がふいに言った。
「丸川とか神埼ってさ、なんかただのおじさんでしょ? しかも犬が主役なんてさ……変だよ。ウケないって」
達也は、箸を持ったまま固まった。
その言葉は、鋭く、重く、静かに彼の胸に突き刺さった。
馬鹿にしてる?――いや、それすら生ぬるい。
(舐めきってる。完全に……)
世代の壁か、感性の差か、それとも教育の失敗か。
それを突き止めるよりも早く、達也の心には、怒りとも悲しみともつかない感情が広がっていった。
返す言葉が見つからなかった。
言葉にすればするほど、自分の小ささをさらけ出してしまう気がしたのだ。
「父さん、前にスポンサーしてたよね?」
修二の声は決して重くはない。
何気ない、会話のつもりなのだろう。。
「ずいぶん前の話だ」
短く返す。
それだけで会話を終わらせるつもりだった。
修二は、それ以上何も言わない。
ちらりと上がる視線。
――言わなくても、わかってしまった。
(出たいのか、おまえは)
達也は、箸を置いた。
食卓の上の小さな音が、やけに耳につく。
修二は笑っている。
あくまで“なんとなく”を装っている。
だが、その奥には甘えが透けて見えた。
子供特有の、悪気のない下心。
父親なら助けてくれるだろうと思っている?
それが、達也にはひどく不快だった。
(まるで、俺の立場を“道具”みたいに見てる)
心の奥で、何かがかすかにきしんだ。
親としての情があるぶん、余計に嫌だった。
恵梨香が軽率に動くのはまだわかる。
だが、修二のそれは、無垢な顔をして、無意識に他人を使おうとする“甘さ”だった。
その甘さが、無自覚だからこそ、余計にたちが悪い。
達也は黙って湯呑みに口をつけた。
ぬるくなった茶が、舌の上で苦く広がる。
修二はまだ何か言いたげだった。
空気を読んだのかもしれない。
けれど――それすらも“計算”に思えた。
(気づいてないだけで、お前、もう俺を試してるんだよ)
その夜、食卓の会話はそこで終わった。
テレビの音が遠くで流れている。
だが、達也の中では、音という音が全部、静まり返っていた。
冷えた味噌汁を見つめながら、彼は小さく息を吐いた。
――息子の目の奥に、自分の知らない知らない他人を見た気がした。
恵梨香は映画の公式サイトを覗いてしまうのをやめられなかった。
夕食の片づけを終えて、修二が部屋で台本を読んでいる。
夫の達也は今日も遅くなるようだ。
自宅には戻らずウィークリーマンションに泊まるつもりなのかもしれない。
恵梨香はソファに座り、スマホの画面を指でなぞった。
あの映画――最近、ネットで話題になっている作品。
監督も原作者も若手だ、なのに映画の役者たちの衣裳。
海外ブランド、ロゴもない。
もしかしてオートンクチュール、提供された?
若手の二人だ、資金があるとは思えない。
スポンサーがついているのは確かだ。
けれど、彼女の興味を引いたのは、そこではなかった。
「白と黒の……犬?」
ポスターの中で、雪の上に立つ犬がこちらを見ていた。
白地に黒い斑点。真っ直ぐな目。
その瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
見覚えがあった。
どこかで、確かにこの模様を知っている。
昔、うちにも、こんな犬がいた気がする。
思考よりも先に、指が動いていた。
写真フォルダを開く。
アルバムの年数を遡るたびに、心臓が早くなる。
撮影現場のスナップ、雑誌用の撮影データ、家族写真。
その中に、ふと目に留まった一枚があった。
冬の日の庭。
幼い修二と並んで写っている、白と黒のまだら模様の犬。
名前が思い出せない。
だが、その瞳――まるで画面の中の犬と同じだった。
恵梨香は思わずスマホを近づけた。
呼吸が浅くなる。
時間の感覚が、少しずつ遠のいていく。
(まさか……同じ犬じゃないわよね)
そう思いながら、笑い飛ばせなかった。
心のどこかがざわついていた。
指が勝手に検索窓を埋めていく。
公式の情報を読み漁るが犬に着いては雌と犬種しか書かれてない。
「……詳細、非公開?」
小さく呟いた声が、自分でも他人のように聞こえた。
偶然にしては、あまりにも出来すぎている。
あの子を手放したのは、修二の撮影が増えた時期だった。
“しつけが難しいから”とトレーナーが言い、譲渡の話は自然に決まった。
でも――その後、どうなったかは知らない。
知ろうともしなかった。
今になって、胸の奥がじりじりと痛む。
スマホの画面に映るポスターの犬の目が、まっすぐこちらを見ている。
恵梨香は唇を噛んだ。
「……もし、あの子だったら」
言葉にしてしまった瞬間、頭の中で何かがはじけた。
それは理屈ではなく、確信のような感覚だった。
運命と呼ぶにはあまりにも都合がいい。
でも、彼女の中ではもうそれ以外に説明がつかなかった。
“あの映画に、修二が出るべきだ。”
そう思った。
理由なんてどうでもよかった。
もう心が動いてしまったのだ。
それが、恵梨香の暴走の始まりだった。
最初に書き込んだのは、午前二時を過ぎてからだった。
「映画に出ている犬、昔うちにいた子に似ています」
たったそれだけの文を掲示板に投稿した。
名前も出さず、写真も添えない。
数分後にはコメントがついた。
──“犬なんて似てるのいくらでもいるだろ”
──“売名?”
──“誰も興味ねえよババア”
恵梨香はスマホを握る手が震えるのを感じた。
誰かに笑われている。
胸の奥で、小さな音を立てて何かがひび割れた。
「……匿名だから信じてもらえないのよ」
自分に言い聞かせるように呟いた。
彼女はもう一度スマホを手に取り、今度はSNSのアカウントを開く。
プロフィール欄に、名前を入れた。
“元子役・修二の母、野上恵梨香です。”
投稿ボタンを押す直前、ほんの一瞬だけ指が止まった。
だが、次の瞬間には画面が切り替わり、自分の言葉が世界に放たれていた。
“映画に出演している犬が私たちの家にいた犬と酷似しています。
譲渡の際に記録を残しています。
もし関係者の方が見ていましたら、ご連絡をください。”
送信。
一瞬の静寂のあと、画面に「いいね」が付き始めた。
そして、次第にコメントが膨れ上がっていった。
──“やっぱり売名か”
──“犬の飼い主が主役気取りw”
──“修二ってあの子役?懐かしいw”
画面が熱を持つように赤く点滅する。
批判の言葉が波のように押し寄せる。
だが恵梨香は、恐怖よりも高揚を感じていた。
「見てる。誰かが見てる。」
そう思うと、心臓が早鐘のように鳴った。
「あの犬、ルークが帰ってきたらね、修二。あなた、また映画に出られるかもしれないわよ」
母の言葉に、修二の心臓が一瞬止まった。
(映画に……出られる?)
胸の奥で、乾いた音が弾けた。
現場のライトの光、監督の指示、拍手。
「修二くん、次いきまーす!」
あの頃の自分が、鮮やかに蘇る。
たまらなかった。
忘れたつもりでいたけど、あの快感は一度知ったら抜け出せない。
世界が自分を中心に回っていた、あの錯覚。
母は、それをよく知っている。
「ルークが戻ってくれば、あなたは映画に」
「……ほんとに?」
「ええ、信じて。修二ならまた輝けるわ」
修二は無意識に頷いた。
でもその瞬間、頭のどこかで“父さん”という単語が浮かんだ。
父がこの話を聞いたら、どう言うだろう。
容易に想像できた。
――くだらない夢を見るな。
――もう子供じゃないだろう。
――現実を見ろ。
(父さんは、俺の味方じゃない。)
子供だからこそ、わかってしまう。
言葉じゃなくて、声のトーン、間の取り方。
父さんは俺の話を聞いていない。
修二は無意識に口角をわずかに上げた。
嘲笑でもなければ、皮肉でもなかった。
自分に関わってこないなら、それでいい。
こっちだって、関わらない。
そう思った瞬間、父という存在が、自分の中で“他人”になった。
線を引いたように。静かに、でもはっきりと。




