21
直は何かに呼ばれる様に足を踏み出した。
一歩一歩、月に近付く。
月も空から落ちてくる様に、ゆっくりと大きくなりその輝きを増していった。
川に青と紫の空が映る。
あの時渦を巻いていた空は、もう渦を成していない。
月が街全体を明るさで満たした時、川が光を反射して黄金に輝いた。
全ての者が目を閉じた。
瞼を通しても感じる光に「失明するのではないか…それが罰なのか」とカロンは考えた。
あるいは、全ての消滅…とも。
しかし、光はゆっくりと治まっていく。
ふわりとした、水の浮力とは違う種類の浮遊感に体が包まれているのに気が付いた。
「このまま…眠りに…」
眠りを知らないはずのカロンが、思い描いていた眠り。
まさに夢心地の中。
全ての辛さや不安、一欠けらの悲しみさえも無い。
ゆったりとした空間に包まれ、心地よさしか感じない。
自分の「子供の頃」など知る由もないカロンだが、そんな時期が在ったとすればこんな居心地だったのだろうと思えた。
薄目を開けると周りには誰一人いなかった。
客人達も、直も。
ただ、宵闇と夜が自分を優しく包んでいた。
目を瞑り、いつもそうする様に景色を見ようとした。
色々な人たちの、人生。
自分が預かりモノをし、渡してきた人たちの。
しかし、目の前に景色は浮かび上がらなかった。
ただ力が抜け、浮遊感に身を委ねている。
安らぎ。
ひと時の。
ほんの一夜の…。
緩やかな時間が過ぎ、カロンは船上で目を覚ました。
街に居たはずが、流れて外に出ている。
亡者が点した篝火の光が、カロンの顔を照らした。
ゆっくりと街へ戻ると、カロンの姿を見つけた直が駆け寄って来た。
「あんた、どこに消えたかと…」
月が街を覆った後、直が目を開けると誰もが消えていたと言う。
カロンと船はおろか、自分以外の客人も全て。
「めっちゃ怖かったわ…」
へにょっとした顔で、息を切らしながらカロンの前に立った。
少し涙の跡が目じりに確認できた。
「俺も分からん。…初めてなんだ…月夜に招かれたのは…」
「初めて?」
「あぁ。俺はいつも独り残されていた」
月夜は癒しだった。
神々の恩恵とも。
月夜に招かれた店主は本来、白銀の戦車に乗った女神へ、ガラス管の代価を捧げ代わりに慈悲を授かる。
その間、街に居る客人達は現世の夢を見る。
元の世界の続き、親や恋人…友人の世界「自身の死後の世界」を。
店に縛られたカロンにはそれが無かった。
「だから…ヘカテ―が来て今度こそ消滅すると…」
自身を含め街全ての終り。
そう一瞬思った。「なのに…」とカロンは自分の枯れた手足を見た。
「まだ、消えていない」
微かに震える手を街の明かりが照らす。
そして、川の先に在る物に気が付いた。
「あぁ。俺もびっくりした。他の人らもびっくりして集まってる」
客人達の集まる中、その中心に何事も無かった様に堂々とそれは立って居た。
キラキラと輝く色とりどりの宝石達と、黄金に輝く…アーチ。
「あの…お方と奥様が…来られたのだ…」
満月の光の中、輝く女性とその傍らに居た…彼の方。
「…誰?」
キョトンとした顔で直がカロンを見た。
「…この冥界の王、ハデス様と…女王ペルセポネ様だ」
そう言ったカロンは、感激で身を震わせた。




