浄化の街
カロンは船体の横で揺れる川の水面と、カップの中の珈琲を眺める。
どちらも暗闇を吸い込んだ様な色をしていた。
『アイツラガ、ワタシヲ、ステタ…』
『ワタシヲ、クルシメタ、ヤツラヲ、ユルサナイ』
『オナジメニ、アワセタイ』
水面がポコポコと恨みの声を吐く。
『イタイ…ツライ…』
『ヤメテ…コワイ…』
『ハナシテ…サミシイ…』
悲しみの声も浮かび上がってくる。
『ヒドイ…』
『ヤリカエシタイ』
『ユルセナイ』
バシャッ
船頭が櫂で水面を叩いた。
その振動で、浮かび上がっていた悲しみも恨みの声もかき消されていく。
「あまり深淵を見るな」
船頭の声に、珈琲を飲みながらカロンは目を反らした。
反らした先にある、アーチの下に何かが蹲っていた。
人の形をしている様な…していない様な。
「…お前の客ではないだろう」
船頭もそれに気が付いたらしく、2人はそちらを注意深く見ていた。
アーチの下から出たそれは、四つん這いになり、川を覗き込んだ。
川には青と紫の空が映し出され、露天商のランプや蝋燭で照らされている。
「また…水かさが…増えるな」
船頭が櫂を握り、船上で立ち上がった。
カロンも立ち上がり成り行きを見る。
周りの露天商の店主も客人も、何事も無い様にいつも通りやり取りをしている。
その横で、川を覗き込んだそれはぐにゃぐにゃと伸縮し始めた。
もはや人の形など無いそれは、黒く淀んだ物体でしかなかった。
「憎い…憎い」
それが呟く。
「嫌い…大嫌い…」
泣いている様にも見えた。
「全部…無くなれ…」
それが声を絞り出したが最後、川から漆黒の水が波立った。
代価を使い果たした客人が、川に取り込まれるあの時同様、それの周りを水が包む。
しかし、客人の時とは違い、全てを引きずり込みはしなかった。
水が引くとただの黒い影が、少しだけ残っていた。
ちりんっ
鈴がなった。
見ると少し離れた所の露天商の店主が、ガラス管を抱えタイルの道に立って居た。
ガラス管には一杯の代価が詰まっている。
「珈琲…ありがとな」
カップをカロンに渡し、船頭はゆっくりと水面をすべる様に移動して行く。
船頭を呼んだ、店主の元へ。
店主が船に近付き、船頭にガラス管ごと代価を渡した。
どれが誰の代価か分からない、ガラス管一杯の他人の代価。
自分の代価を持たない店主達が、川を渡るには…ガラス管一本分の代価が必要なのだ。
そして、川を渡った先で、代価を持たぬまま裁きを受ける。
この店主は償いが終わり、溜めた代価を使う事も出来たのに、川を渡る選択をした。
『満足した』のだろうかと、カロンは元店主を眺める。
他人の代価など、裁きには意味が無い。
それでも、求めては溜めて、溜めては使ってを繰り返す。
亡者達。
最後は手ぶらで…恐れていた審判の前に座するしかない。
元店主が乗り、ゆったりと船が動き出す。
誰も手を振らない。
いつか、自分もいずれは行く事になる先を、露天商の店主達は皆、見ない様に目を反らした。
街はいつもよりも騒めき、敢えての賑わいにカロンは感じる。
そして、カップを二つ持って店に戻る途中でアーチの辺りを見ると、あの黒い影は消えていた。




