さようなら
その日はいつもより雨がきつかった。
しかし、いつも通りの雨だと思っていた。
もう少しで収穫される野菜達がビニールハウスや土の中で、雨の下…それぞれ待って居る。
主に育てているのは源蔵だ。
だが、その農地の隅で妻の敏江が植えている大根も、もうすぐ収穫される。
実はそちらの方が楽しみだった。
自分の好物である大根。
春に撒き、見るからに白く艶ッとしていそうな…美味そうな大根。
手伝いの合間に敏江が育てた大根。
それが、今日、脅かされている。
窓を打ち付ける風と雨に、不安が募る。
何処かの地域で、川が氾濫し町が沈んだのをテレビで見た後だから尚の事、ここも他人事ではない。
結婚して都会に行った娘から、さっきから電話が来る。
いつもは無関心で冷たいと思っていた息子からも、電話が来た。
台風でもないのに、大嵐の夜。
ガタガタと風が窓を鳴らす。
「大丈夫。お父さんも大丈夫よ」
電話に出た敏江が、不安そうな声で子供に答えるのが聞こえて来た。
電話を置いた後、間髪入れずにまた鳴る。
「はい。もしもし」
敏江が出て何か話している。
外の様子が分からない事が…気が気ではなかった。
農地は?野菜達は?大根は?
源蔵は見に行きたい気持ちに駆られる。
自分の目で、無事なのを確かめたい。
流れない様に、対策をしておくべきだった。
この後…嵐が去り、土地は大丈夫か。
水はどこまで流れたか…。
頭の中を最悪が流れる。
今の歳を考えると、あの土地に何かあれば…終わりだった。
「お父さん…」
受話器を差し出す敏江の顔に、より一層不安が募る。
震える手で受話器を受け取り、耳元へやった。
「あぁ。源蔵さん。今ね奥さんにも言ったんだけども。避難を呼びかけとんのよ」
聞き覚えのある声。町内会の会長だ。
「でね。丘の上の…公民館、公民館に行ってはもらえんかね」
会長の後ろからも、騒がしい音が聞こえた。
住民に職員たちが電話を掛けているのだろう。
「分かった」
急いである程度の物を持ち、家を出る。
そこは、真っ暗な怪物が唸りながら立ちはだかる様な夜だった。
暗闇の中、公民館を目指し歩く。
雨具は剥がされ飛んで行った。
前を敏江に歩かせながら、後ろの農地をチラチラと気にしてしまう。
黒い水が農地とビニールハウスを飲み込んでいった。
「お父さんっ!!!」
敏江の声が後ろに聞こえた。
「お前は公民館に!」
そう叫んだと思う。
自分の愚かしい考えは、己の足に、手に伝わり。
源蔵は流され始めた土の中に向かって走る。
目の前で全てが、流れていく。
ビニールも車も、家も…大根も。




