二人の足跡
「俺の初恋は…亜紀姉だった」
源蔵は何気なしに話し出す。
「小さい頃に近所に住んでいた…年上のお姉さんだ」
一口、出汁を飲む。
源蔵は懐かしそうに、想いを馳せ始める。
カロンは2人の会話を、台の上で肘を付きながら眺め、聞いていた。
「そうですか」
敏江は出汁の中でゆで卵を割る。黄身が汁に少し溶け広がった。
「その次は…みっちゃんだ」
「そうですね」
「その次は佳代ちゃんで…その次はエリさん…」
「真里さんも知っていますよ」
「…全部、言ったか…?」
「ええ、酔っぱらうとおっしゃります」
「そうか」
「今はお酒を召し上がってませんのに…どうされました?」
つるんとした玉子が、鍋の中で浮いたり沈んだりを繰り返し、ゆらゆらと出汁を泳ぐ。
源蔵の器の中には大根が取られ、敏江の器には玉子が、それぞれ入っている。
大根の葉が出汁を滴らせながら、源蔵の器から口に入る。
「美味いな…と思ってな」
「そうですか…」
ゆっくりと、2人の間で時が流れる様だった。
「私の初恋は、近所の真一というお兄さんでした」
唐突な彼女の言葉に、源蔵が咽た。
「次は正樹さんです」
「そ…そうなのか」
「それぐらいで貴方に会いました。5歳上の貴方は初めての顔合わせで、しかめっ面をしていて…」
「怖かったか…」
「ええ。でもそれからもう何年でしょうか」
「50…55年か。俺も老けた」
「長い間でした」
敏江が箸を置いた。
「子供も2人とも結婚したしな」
「そうですね。来年、裕子に子が生まれますよ」
源蔵は自身に孫が出来る事を初めて知ったようだった。
箸を握りしめ、悔しそうな顔をする。
「そうか…孫か…」
「そうです…孫ですよ。可愛いでしょうね」
「あぁ…そうだな」
「お父さん…英明と裕子。そして孫たちを、よろしくお願いします」
敏江は立ち上がり、深々とお辞儀する。
いつの間にか、川には船が着いていた。
黒い布を纏い、フードを頭に被った顔の見えない船頭が乗る船。
「お…おい。どこに行く」
船にゆっくりと乗る敏江を、源蔵が立ち上がり追いかけようとするが、腕すらも掴めず伸ばした手は宙を掻いた。
敏江は振り返り、源蔵に向かってお辞儀をしたまま、船頭の揺らす船と流れていく。
船体の後ろにはキラキラと金色に輝く波紋が広がり、いつの間にか戻っていた露店主達が敏江に手を振った。
「どこへ…どこへ行く敏江…敏江!」
船が見えなくなり、露天商の並ぶ街に活気が戻った頃。
そこには鍋も、箸も無く。
源蔵の姿も消えていた。




