記憶を喰う者たち 3
記憶市を奥へ進むにつれ、その混沌は一層深まっていった。錆びた檻の中で取引される記憶の結晶。路地の片隅では、虚ろな目をした人々が、ただぼんやりと空を見つめている。彼らは皆、過去の輝きを失った抜け殻のようだった。そして、街の至る所で、漆黒の甲冑を纏った「忘却の騎士団」の姿が見え隠れしていた。
彼らは「記憶は神聖なものであり、人為的に売買されてはならない!」と叫び、記憶の売買を行う者たちを容赦なく連行していく。その冷徹な執行は、一見「正義」に見えるが、その背後には、決して表には出ない、深い闇が潜んでいるように感じられた。
「彼らの『浄化』が、何を意味するのか……」
アリセが、連行されていく売買人たちを見つめながら呟いた。その言葉の裏に、底知れない不気味さを感じた。
俺たちは人目を避けながら、さらに記憶市の奥深くへと進む。その最中、俺たちの目の前を、怯えきった様子の男が転がるように走ってきた。その男の背後からは、忘却の騎士団の追っ手が迫っている。
「助けて……頼む!」
男は、助けを求めるように俺たちに手を伸ばした。騎士団の怒号が響く。「捕まえろ! 逃がすな!」
俺は一瞬、迷った。。介入すれば、俺たちも騎士団の標的になる。だが、目の前で助けを求める人間を、見過ごすことなどできなかった。何か失った時の無力感が、再び俺の胸を焼いた。
「リズ、アリセ、隠れてろ!」
俺は男の腕を掴み、近くの廃屋の影へと引き込んだ。騎士団は、目の前で目標を見失い、訝しげに周囲を探している。俺たちは息を潜め、騎士団が通り過ぎるのを待った。
騎士団の足音が遠ざかると、俺はホッと息をついた。助けた男は、安堵からか、その場にへたり込んでいる。
「あんた、大丈夫か?」
俺が声をかけると、男はガタガタと震えながら顔を上げた。その顔には、泥と血がこびりついている。彼の胸元には、いくつもの小さな記憶の結晶が、袋に詰められてぶら下がっていた。
「助けて……助けてくれて、ありがとう……あんたたち、魔法使いか?」
男は俺の右腕を見て、警戒と同時に、どこか期待のような目を向けた。
「俺はトオル。こっちはアリセとリズ。あんたは?」
「俺はザック。街を歩いていたら騎士団に追われたんだ」
ザックはそう言って、胸元の袋を隠すように抱え込んだ。彼の目が、僅かに泳いでいる。
俺はアリセを見た。彼女は無表情なまま、ザックをじっと見つめている。
「騎士団に追われているってことはお前、密売人だろ?」
俺が問うと、ザックは焦ったように首を振った。
「ちっそうだよ。」
ザックはそう言って、周囲を警戒するように目を走らせた。
「だと思ったよ。あの騎士団は、一体何なんだ? なんでこの街にいる?」
俺が聞くと、ザックは恐怖に顔を歪めた。
「奴ら、忘却の騎士団は、最近この記憶市に現れたんだ。聖記会の連中とは違う、もっとやべえ連中だ。記憶の純粋な『守護者』とか名乗ってるが、やってることは滅茶苦茶だ。記憶泥棒を追ってるって言ってるが、俺たちみたいに記憶の売買してる奴らも、問答無用で『浄化』するんだ。奴らは、記憶が少しでも人為的に動くことを許さない。だから、俺たちみたいな売人がいるこの街に来たんだよ!」
ザックの言葉で、忘却の騎士団が記憶市にいる理由が明確になった。彼らは「記憶の守護」のために、この街を浄化しに来たのだ。
「聖記会とは違う組織なのか?」
俺が確認するように言うと、ザックは唾を吐いた。
「ああ、表向きは聖記会が否定してるさ! あんな狂った連中と繋がってるなんて、表向きは言えねえだろうよ! でも、裏じゃ繋がってるに決まってる。でなきゃ、あんな大勢の騎士団が、こんな街をうろつけるわけがねえんだ!」
ザックは、怯えながらも、この街の裏側を知っているようだった。
「あんた、この街のこと、他になんか知ってるのか? 他の魔法使いとか、この街の詳しい情報とか」
俺が尋ねると、ザックは俺の右腕に視線をやった。
「あんた、タダで助けてくれたわけじゃないだろ? 俺は記憶を売るしか能がねえんだが……」
ザックは、俺が何かあるのか見抜いたのか、取引を持ちかけてきた。彼の目は、恐怖とずる賢さが入り混じっていた。
俺は、自分の右腕をじっと見つめた。禁術。ハウザーの記憶を喰らって以降、他人の記憶が脳裏をよぎり、自分が自分ではない感覚が、時折、俺を襲う。この力を使えば、この男から情報を引き出せる。だが、その代償は、彼の「記憶」だ。そして、俺自身の「人格」が、さらに混濁していくリスク。
自分自身の善性が歪んでいく感覚。俺は、自分の中に生まれたこの力と、この世界の倫理に、静かに震えていた。ザックから情報を得るために、俺はこの力を使うのか? その答えは、すぐそこにある記憶市の闇の中にあった。