記憶を喰う者たち 1
漆黒の闇の中を、俺とアリセ、そしてリズはひたすら走り続けた。ハウザーの狂気じみた炎の残滓が、まだ背中にこびりついているような感覚がする。あの男の末路を目の当たりにし、魔法の危険性を改めて突きつけられた。だが、それ以上に、他者記憶喰らいにより、ハウザーの記憶の奥底に見た、娘への悲痛な愛が、俺の胸に重くのしかかっていた。
「はぁ……はぁ……もう、大丈夫……?」
リズが息を切らしながら俺の服の裾を引いた。顔を上げると、夜空には無数の星が瞬いている。だが、その光は、俺の心の中の虚ろさを埋めてはくれなかった。
「ああ、もう大丈夫だ。さすがに、ここまで来れば追ってこないだろ」
俺はわざと明るい声を出したが、視線は隣を歩くアリセの横顔に吸い寄せられた。彼女はいつも通り無表情だが、その瞳の奥には、ハウザーの記憶を受け取ったことによる、微かな感情の揺らぎが見て取れた。
「……アリセ」
俺が呼びかけると、彼女はゆっくりと俺を見た。
「ハウザーの記憶……あの、娘さんの……」
俺が言葉を選ぶように言うと、アリセは小さく頷いた。
「あの男の『信仰』の根源……。全ては、失われた『愛の記憶』から生まれていた。その重さ……私には、まだ理解できない」
彼女の声は静かだが、どこか深い思索を帯びていた。今まで感情の機微を見せることのなかったアリセが、具体的な感情について言及している。ハウザーの悲劇的な記憶が、彼女の空白に、新たな痕跡を刻み始めたのかもしれない。
「でも、お前、あの時、悲しそうだったぞ。ハウザーが、あんな風になってるの見て」
俺が尋ねると、アリセはわずかに首を傾げた。
「そう……見えた? 私には、それが何なのか……まだ、分からない。ただ、彼の記憶の残滓に触れて、胸の奥が締め付けられるような、奇妙な感覚があっただけ」
リズが興味深そうにアリセを見上げる。
夜が明け、俺たちは森の中の細い道を歩き始めた。記憶市へ向かうためだ。情報屋から聞いた場所は、ここからまだ数日かかるらしい。
歩きながら、俺はふと、右腕に奇妙な感覚を覚えた。ハウザーの炎を吸い込んだ時のような熱は消えたが、代わりに他人の感情が、じんわりと心に染み込んでくるような、拭いきれない残滓が残っている。それは、ハウザーの悲しみ、怒り、そして、娘への絶望……。
その時、脳裏に、全く知らないはずの景色がフラッシュバックした。どこかの街の路地裏、見知らぬ男たちの笑い声、そして、手に持った覚えのない古びたコイン。それは一瞬のことで、すぐに消えた。
これは……他人の記憶?
俺は思わず立ち止まった。
ハウザーの記憶を吸い込んだだけのはずなのに、俺の意識の中に、見知らぬ断片が混ざり込んでいる。まるで、他人の波に自分の心が掻き乱されているかのようだ。 自分が自分ではない感覚。 このまま使い続ければ、俺は俺じゃなくなるのか? ハウザーのように、狂気に飲まれてしまうのか?
俺は、無意識のうちに右腕を強く握りしめた。この力は、あまりにも危険すぎる。
「トオル? どうしたの?」
リズが心配そうに俺の顔を覗き込む。アリセも、無言で俺の右腕を見つめていた。
「いや……なんでもない。ちょっと、疲れただけだ」
俺は努めて平静を装ったが、内面の動揺は隠しきれなかった。
「なあ、記憶市ってのは、どんな場所なんだ? 本当に、記憶を売ってるのか?」
無理に思考を切り替えるように、俺はアリセに尋ねた。妹の名前すら朧げになった今、記憶の売買という概念は、ひどく現実味を帯びて感じられた。
「ええ。この世界では、記憶は魔力の媒体であると同時に、生きるために、魔法使いへ大切な記憶を売る者もいる。それは、この世界の『現実』よ」
アリセは淡々と答える。リズが俯いた。彼女もまた、記憶を売った過去を持つ。
「私、自分がどんな記憶を売ったのかもわからないの…………」
リズが絞り出すように言う。その声は、消え入りそうに小さかった。
「……リズ」
俺は彼女の肩に手を置いた。記憶を失う痛みは、俺が誰よりもよく分かっている。
アリセは、そんなリズを見て、微かに眉をひそめた。それは、感情が動いている証拠のように見えた。
「記憶市に行けば、何か手がかりがあるかもしれない」
アリセが静かに言った。その言葉には、これまでにはなかった、何かを「探している」ような響きがあった。俺は彼女の横顔をじっと見つめた。まさか、アリセも失われた自分の記憶を探しているのか? いや、彼女は「記憶の空白」だと言っていた。だとしたら、一体何を?
「手がかりって?」
俺が聞くと、アリセは少し間を置いて答えた。
「私自身の……始まり。教会が私を銀ノ核と呼ぶ理由。そして、この世界の『記憶』の真実」
彼女の言葉は、まるで霧のように曖昧だった。だが、その瞳には、今までになかった、深い探究心が宿っているように見えた。
昼食は、森で採れた木の実と、昨夜リズがこっそり持っていた少しばかりのパンを分け合った。質素な食事だったが、三人で囲む時間は、不思議と温かかった。
「トオルはさ、元の世界に帰りたい?」
リズが突然、尋ねてきた。
俺は少し考えて、空を見上げた。
「……まだ、分からない。帰りたい気持ちもあるけど……。でも、今は、目の前のことで精一杯だ」
そして、アリセを見た。
「それに、お前を一人にはしておけない」
俺の言葉に、アリセは目を丸くした。わずかな驚きと、それから、何かを受け入れるような、奇妙な表情。
「……そう。私も、あなたには感謝しているわ。あなたといると……奇妙な感覚があるから」
「奇妙な感覚?」
「ええ。まるで、私の空白に、あなたの『記憶の痕跡』が刻まれていくような……そんな、体験をしたことがない感覚よ」
アリセの言葉に、俺はドキリとした。彼女の言葉は、俺の理解を超えていたが、俺たちの間に、何か特別な繋がりが生まれつつあることを感じさせた。
リズがそんな俺たちを交互に見て、くすりと笑った。
「なんだか、二人って似てるね。大事なこと、あんまり話さないところとか」
「似てるか?」
俺が苦笑すると、アリセは静かにリズを見つめた。
「そう……見える?」
アリセの言葉は短いが、その声には、以前よりも柔らかな響きがあった。
記憶市への道は長く、危険も伴うだろう。だが、この奇妙な三人旅は、ただ逃げるだけではない、何か新しい「物語」の始まりを予感させていた。