記憶なき異邦人 10
アリセの瞳の奥で、銀色の光が強く輝いた。その光は、彼女がこれから立ち向かう運命と、そしてまだ知らぬ自身の真実を映し出しているかのようだった。
アリセの魔法が展開され、審問官たちの術式を弾き返す。だが、その時、審問官の一人が不敵に笑った。
「そう簡単に逃がすものか、『銀ノ核』よ。我々は、貴女のために、最高の『信仰』を用意した」
その言葉と同時に、背後から、これまで以上の淀んだ、不気味な魔力が押し寄せてきた。それは、熱波ではなく、底知れない冷たさと、魂を削り取られたような虚無感を伴っていた。
ドォンッ!!
地下室の壁が爆音と共に崩れ落ち、そこから立ち込める煙の中に、見覚えがあるはずなのに、明確な形を持たない影が浮かび上がった。それは、ハウザーだった。だが、彼の全身を覆う鎧は黒く焦げ付き、その隙間から覗く肌は、生命感がなく、まるで石像のように無機質に見えた。仮面の奥の瞳は、以前のような紅い炎ではなく、深い闇をたたえ、焦点が定まっていなかった。 彼はそこに「いる」のに、「存在していない」かのような、不気味な感覚があった。
「ハウザー……ッ!?」
俺は息を呑んだ。前回辛くも振り切ったはずの男が、見る影もなく変貌し、満を持して現れたのだ。彼の全身からは、圧倒的な魔力が奔流となって噴き出している。それは、もはや誰かの記憶が「燃える」音ではなく、「魂が擦り切れていく」ような、悍ましい不響を奏でていた。
「ハウザー……あなたは、そこまで……!」
アリセが珍しく、明確な感情、「悲哀」を浮かべて呟いた。ハウザーの口元が、わずかに歪む。唸り声ともつかない、乾いた息が漏れた。
「……ワタシノ……キオクハ……カミノ……タメニィ……」
彼の声は途切れ途切れで、まるで過去の記憶がバラバラに散らばっているかのようだった。その言葉には、かつての狂信的な熱は失せ、ただひたすらに、虚ろな使命感だけが残っている。 彼は右手を掲げる。その掌から渦巻く炎は、以前よりも黒く、底冷えするような色をしていた。それは、燃え尽きた記憶の残滓から生み出された、異質な魔法だった。
「まさか……自我すらも、燃やし尽くすなんて……!」
アリセが息を呑む。ハウザーの放つ炎は、まるで存在そのものを虚無に還すかのような、不気味な感覚を伴っていた。
もう、逃げられない。
俺は、妹の顔も思い出せない自分が、これ以上、目の前の大切なものを失うのは耐えられなかった。リズの怯えた顔が、脳裏をよぎる。胸の奥に燻る「ユイ」という響きが、俺の内に秘められた力を揺さぶる。
「……ッ、喰らえ!《メモリア・イーター》!」
俺は《メモリア・イーター》の力を宿した右腕をハウザーに向かって突き出す。ハウザーの業火が、凄まじい勢いで俺の腕に吸い込まれていく。同時に、ハウザーの意識の奥底から、燃え尽きかけた記憶の燃えカスが、無理やり引きずり出されてくる感覚があった。それは、抗いがたい衝動だった。まるで、失われた自分の記憶を取り戻そうと、無意識が叫んでいるかのようだった。
その瞬間、俺の脳裏に、断片的な映像がフラッシュバックする。
幼い少女の笑い声。
「パパ、見て!」と、無邪気に手を振る姿。
穏やかな日差しの中で、楽しそうに遊ぶ家族の姿。
次の瞬間、映像は一変する。
絶望的な叫び声。
そして、その中に、全ての記憶を抜き取られ、廃人と化したハウザーの娘らしき少女の姿があった。
──ああ、そうか……ハウザーは、これを見て……!
娘の記憶を全て奪われたハウザーは、自らの魂までも焼き尽くすほどの絶望に飲まれたんだろう。そして、この世界の記憶を管理する聖記会の「正義」に、狂信的なまでに傾倒していったのだ。彼の狂気は、最愛の者の喪失から生まれた、悲劇的な歪みだった。
「ハウザー……お前は……!」
俺は憎しみを込めて叫んだ。この男もまた、この世界の「記憶」に囚われた、哀れな犠牲者だったのか。
「……カミノ……タメニ……」
ハウザーの言葉は、もはや意味を成さず、ただ虚ろに繰り返される。彼の体は限界を超え、皮膚が焼けただれ、肉が焦げ付いていく。まさに、自分自身を燃やし尽くす「狂信者」の成れの果てだった。彼はもはや、ただの不気味な存在と化していた。
その時、俺の右腕から、ハウザーから吸い取った記憶の燃えカスが、光の粒子となって溢れ出した。それは、ハウザーの狂気の根源、彼の失われた娘の「記憶の痕跡」だった。
「アリセ……これ、受け取れ!」
俺は直感的に、その光をアリセへと差し出した。アリセは迷うことなく、その光の粒子を掌に受け止める。
彼女の瞳に、その記憶の断片が映し出される。ハウザーの悲劇的な過去、娘への愛、そして失われた記憶への絶望が、アリセの「空白」の心に、直接流れ込んでいく。
「……これが……ハウザーの……」
アリセの表情に、初めて見るほど複雑な感情が浮かんだ。悲しみ、理解、そして、言葉にできない重み。彼女の無垢な「空白」が、ハウザーの記憶の重みに揺れている。
その隙を突き、審問官たちがアリセを拘束しようと迫ってくる。
「《銀ノ核》! 今こそ、聖記会の元へ!」
「させない!」
アリセが叫ぶ。彼女の瞳の銀色が、かつてないほど強く輝いた。その魔力は、ハウザーから流れ込んだ「記憶の燃えカス」によって、さらに増幅されているかのようだった。
アリセは、自らの意思で、その力を行使した。空間がねじ曲がり、審問官たちの術式が霧散する。ハウザーは、その場に崩れ落ち、ただ不気味な呻き声を上げるばかりだった。
混乱に乗じて、俺はアリセの手を掴む。
「行くぞ、アリセ! ここから逃げ出すんだ!」
俺たちは、ハウザーが炎の残骸と化した地下空間を後にし、闇の中へと駆け出した。背後で、聖記会が「銀ノ核!」と叫ぶ声が聞こえる。
薄暗い路地を走り抜け、星の見えない夜空の下。
「……アリセ、君は一体、何なんだ?」
俺は、隣で走るアリセに問いかけた。
ハウザーの悲劇を知り、俺自身の禁術の片鱗を見せ、そしてアリセの深すぎる謎に触れた今、彼女への問いは、この世界の真実への問いと重なっていた。
アリセは、何も答えなかった。ただ、俺の手を握るその力が、わずかに強くなったような気がした。
『記憶なき異邦人』──完。
ひとまず1章まで
正直どうなんですかねー。
読者いるんですかね?