記憶なき異邦人 1
深夜の坂道。
バイト帰り、コンビニ袋を片手に、俺はいつもどおりの帰り道を歩いていた。
「……あっつ。缶コーヒー買うんじゃなかったな……」
ふと顔を上げたとき、異変に気づいた。
──月が、ふたつ浮かんでいた。
ひとつは三日月、もうひとつは赤く滲んだ満月。
空は見慣れたはずの紺色なのに、その風景だけが違っていた。
「え?」
思わず立ち止まった瞬間、視界が白く染まった。
突風のような光が全身を飲み込み、足元が崩れる。
……次に目を覚ましたとき、俺は土の上に倒れていた。
* * *
「……いってぇ……」
背中に広がるのは、湿った土の感触。
鼻に抜けるのは、木々の匂いと草の青臭さ。
「森……?」
さっきまでのアスファルトはどこにもない。
代わりに、見上げた空には──あのふたつの月が、相変わらず浮かんでいた。
完全に、非現実だった。
──ガサッ。
音に反応して立ち上がると、目の前に誰かが立っていた。
銀髪の少女。
長いマントを羽織り、細身の体を風に揺らしている。
顔立ちは綺麗だった。でもそれ以上に、印象に残ったのは──その目だった。
虚ろ、というわけじゃない。ただ、どこか空っぽな印象。
光を集めるのに、それを映さない鏡みたいな瞳。
「……目が覚めたのね」
彼女はそう言って、俺に近づいてきた。
足音はほとんどしない。まるで地面と一体になってるみたいだった。
「誰……?」
「通りすがりの、魔法使いよ」
「……魔法使い?」
口に出してから、自分でも間抜けだと思った。
けど、それを疑うだけの余裕もなかった。
「信じるかどうかは、あなた次第。」
「ここって異世界、みたいな……?」
俺がそう言うと、彼女は少し目を細めた。
「あなた、外から来たのね」
「……気がついたら、さっきの坂道じゃなくて、ここに倒れてて……。
あの空見た瞬間、これが夢じゃないって理解した。俺の世界には、月はひとつしかなかった」
「なら、はっきり言っておくわ」
彼女は森の奥を見ながら、静かに言った。
「ここは〈ミレディア〉。記憶が、魔法の代償になる世界よ」
「記憶……?」
「魔法を使えば、そのぶん忘れていくの。自分のことも、他人のことも。
名前も、思い出も。気づいたら、自分が誰だったかさえ思い出せなくなる」
少女の口調は淡々としていた。でも、その静けさが逆に重たかった。
「……そんな世界、なのか……」
「名前、覚えてる?」
「え? あ、ああ。遠坂トオル。忘れるどころか、今までで一番はっきりしてるかも」
「それなら、まだ大丈夫」
彼女は一歩下がり、手を差し出した。
「ここは危険が多いの。森の獣も、人の目も。とりあえず、安全な場所まで案内する」
「……ありがとう」
差し出された手は、冷たくも温かくもない。不思議な感触だった。
俺はその手を取って、ゆっくり立ち上がる。
「なあ、君は……名前、教えてくれないか?」
しばらく沈黙のあと、彼女はぽつりと答えた。
「アリセ。……そう呼ばれていた記憶だけが、残ってる」
「誰に?」
「忘れたわ」
その言葉が、この世界のすべてを物語っているように思えた。
だから俺は、自然に言葉が出てきた。
「じゃあ、俺が覚えてるよ。アリセって名前。君のこと、ちゃんと」
アリセは小さく目を見開いて、ほんの少しだけ微笑んだ。
夜の森に、風がひとつ吹いた。
初投稿をしているので、慣れていないことばかりですが頑張ります