夢の継ぎ目と約束の中庭
豪華な扉の隙間から、ノートがそっと顔を出す。
右、左、そして上。
窓の反射と死角を確かめる視線は、まるで訓練された斥候のようだった。
「……よし、行ける」
ノートの小さな体がするりと滑り込む。動きに無駄がない。
この軽さ――この感覚は、ノートにはひどく懐かしいものだった。
成人化の前、少年だった頃の身体。
それは、祝福による副作用でもあり、代償でもあった。
オーロル山脈の大結晶の祝福は、本来ありがたいものだ。
だが迷家に取り込まれて弱った身には、それすら毒だった。
魔術暴走を防ぐため、ノートの身体は一時的に子どもの姿に戻された。
強力な魔術抑制装置が装着され、医師の許可が出るまでは外すこともできない
だが、そうであるなら――
せめてこの姿のあいだくらい、思いきり楽しんでやる。
ノートはそんな決意を胸に、未知の空間を踏みしめた。
中は静かだった。
白と金に彩られた空間に、遠くの海風がそっと囁く。
机とソファが整然と沈黙し、片隅にはひとつ、場違いなワードローブがひっそりと佇んでいる。
その扉は、ルバートが開けたものだった。
『内緒だよ?』と、年齢不相応にいたずらっぽい笑みを浮かべて。
今日は祭りで、大人たちは不在。
王も公爵も城の外。探検にはうってつけの一日だった。
「……ノート。ここは父上さえ入れないからね?」
後ろから、ルバートの声がした。
珍しく焦りの混じった声色だった。
「だから、そろそろ――」
彼が言いかけた瞬間、気づいた。ノートが隣にいない。
ワードローブのすぐ横に、もうひとつ扉があった。
ノートは好奇心に導かれるように、そっと手を伸ばす。
そして、開けた。
中には重厚な布地が溢れていた。
金糸の刺繍が施されたマント、豪奢なドレスの裾、赤や黒の上着――
天井から垂れ下がるそれらが、まるで布の森のように空間を満たしていた。
だが、よく見れば天井と足元にはうっすらと光が差し込んでいる。
そして、突然――『かちゃり』と小さな音が響いた。
ノートが視線を上げると、布の隙間から誰かと目が合った。
光の具合で金にも見える、明るい海のような眼差し。
大人の目だ。見知らぬ軍人の目。
ノートは、その視線に何かを読み取られたような気がした。
一瞬の逡巡の後、彼は傭兵団で身につけたやり方を選んだ。
迷ったときは、撤退より前進。
ノートはルバートの腕を掴み、そのまま布の海を駆け抜けて――
「ちょっ……――待って、これはまず――」
ふたりの姿は、風に舞う布の向こうへと消えた。
辿り着いたのは、見知らぬ廊下だった。
見上げた天井は高く、壁には金と銀の縁取り。
足元の青と白と灰の石は、冷たく光を返していた。
空気が、鼓膜を裏側から押してくるような静けさだった。
王城では嗅いだことのない匂いが、ふたりの鼻を刺す。
自分の心臓の音だけが、世界のすべてになった。
ルバートが息を呑んだ――その刹那。
「おいこら、待て……!」
背後から響く軍靴の音。
ふたりは反射的に駆け出した。
角を曲がり、扉が目に飛び込んだ。
ノートが手をかけ、力任せに引き開ける。
ふたりが飛び込んだその瞬間――
軍靴の音が、すぐ背後を駆け抜けていった。
――間一髪だった。
壁に背を預けながら、ノートがぽつりと呟く。
「兄上、王城にはこんな場所があるんですね」
ルバートは首を傾げ、ノートの装着した抑制装置に目をやった。
「ここは王城じゃない。たぶん、混線した。
……いや、魔術抑制装置のせいかも」
「これですか?」
「うん。あのワードローブ、本来なら開かないはずだった。
でも今の君は、魔術の気配が……まるで空っぽだ。
だから、つくりつけた制御が効かなかったんだ。
まるで存在を感知できなかったみたいに」
その時。
「……ここか!」
怒鳴り声と共に、別の扉が爆ぜるように開いた。
「やば、逃げよう!」
ふたりは再び廊下に飛び出した。
ノートが先を走り、ルバートの手を引いたまま、次の扉を押し開ける。
ぷしゅうっ、と蒸気が頬をなで、白い霧が視界を覆った。
「っ……なんだ?ここ」
「洗濯室……かな、多分」
空気は蒸し暑く、床は濡れていた。
人影はない。だが、何かが『働いて』いる気配だけがある。
……誰もいないはずなのに、水の音だけが規則正しく続いていた。
天井近くまで張り巡らされた糸の網に、服がぶら下がっていた。
水に沈み、擦られ、浮かび、捻じられ、振られ――まるで呼吸しているかのように。
「これ……干されてるんじゃなくて、踊ってない……?」
ノートの言葉と同時に、白いシャツの袖がふいに揺れた。
まるで誰かが手を振ったように。
そして、それに応じるように、他の服たちもざわ……と波打った。
「わっ!」
ノートが声を上げると、ルバートが口を塞ぎ、ふたりを影へと引き込んだ。
その直後、大きな泡音が立ち、背後の扉ががくんと揺れた。
追っ手はすぐそこにいる。今度こそ捕まるかもしれない。
ノートが周囲を見渡す。
ルバートと視線を交わし、無言で問いかける。
(兄上、あそこまで行きましょう)
(突っ切ろうか……よし、慎重に、静かに)
ルバートが向こうを指した。
部屋の奥には、もうひとつ扉がある。
だがそこへ至るには、シャツやローブが揺れる霧のような空間を突っ切らなければならない。
(濡れて大丈夫なやつだと思います?)
(どうだろう?……多分、洗濯糊か、仕上げの魔術だと思うけど)
(え)
(大丈夫、後で剥せるように保護するよ。君の分もね)
そのやりとりの直後、ふたりは一斉に走り出した。
誰もいないはずの空間で、服と姿なき何かが忙しなく動く中――白霧を裂いて、ふたりの影が駆け抜けた。
ノートがうっかり服にぶつかり、服が上に浮き上がる。
その服は他の糸にぶつかり、その引いていたタオルケットがばさり、と落ちる。
間。
服と糸がしん、として、ノートの方を向く。
浮き上がった服が手を組んで、震えていた。
霧だけがしゅう。と音をたててこちらの様子を伺っている。
「……まずい」
「行こう――!」
二人はさらに速度をあげて閉じ込められる前に、逃げ出すように扉から飛び出した。
洗濯室を抜けた先、ふたりの鼻先をくすぐったのは、まったく異なる匂いだった。
ひんやりとした通路の先に、木の扉がほんの少しだけ開いている。
ノートが覗き込む。
甘く香ばしい匂い。
思わず鼻を鳴らした。
逃走中というのに、目がきらりと輝いた。
砂糖、バター、ほんのわずかな焦げの香り――そこは、広大な調理場だった。
大人たちが不在の祭りの日。
だがその場所は、静かに息をしていた。
パン生地はこねられ、スープは鍋の中で火を受け、
キッシュは切り分けられ、トングが小さく整列させていく。
戸棚の上には焼き立てのビスケット、机の端には試作品のパイ。
ノートの目がぎらりと光る。
獲物を狙う肉食獣のよう。
「兄上……これ、食べてもいいやつ、ですかね?」
「……たぶん、僕らのために作られたものじゃない。
だからこそ、軽々しく手を出しちゃいけないよ」
ルバートが呆れたように笑う。
ルバートは空中に視線を向けると、首をすっと傾け、指先を胸元に添える。
かつて誰かの前で無数に繰り返した、古い礼儀の型。
「お仕事中に申し訳ありません。
あなたがたの素晴らしい仕事に、弟が我慢出来なくなってしまいました。
ひとつだけ、頂けないでしょうか」
奥で何かが弾け、棚ががたんと揺れる。
鍋の横でふっと、誰かの微笑が漏れた。
おたまが鍋のふちをこん、と叩いた。
ルバートが笑って頷く。
ノートは指先であたたかいパイをつまんだ。
あたたかく、ほろほろと崩れるように甘くて――
ひとくちで、顔がほころんだ。
その顔に、ルバートも小さく笑った。
まるでこの一瞬だけ、世界が深呼吸したかのようだった。
鍋の蓋がふるりと揺れ、オーブンの奥で何かが膨らむ音がした。
ぱちん。
奥で、弾けるような音。
続けざまに、棚が傾いて倒れ、床を掃除していたホウキが跳ね上がった。
「……今の、賛辞への返礼かもね」
ルバートが小さく笑い、空気がふっと震える。
ぱん――鋭く空気を裂く音が鳴り響いた。
「ここかっ!」
咄嗟にふたりは再び駆け出す。
鍋が転がり、跳ねたホウキがすべり込む。
追っ手の足元を、狙いすましたように、見事かすめた。
「ありがとう!」
ルバートが振り返って、宙に向かって礼を言う。
ノートもつられて手を振った。
追う者、追われる者――どちらも床の油に足を取られ、足音がもつれ合う。
その混沌を、厨房はどこか愉快そうに見送っていた。
配膳台の陰――狭くて急な階段が、まるで隠された抜け道のように、ぽっかりと口を開けていた。
「よし、あっちだ! まだ逃げられる!」
駆け出す背に、空の鍋がぽん、と軽く跳ねて当たった。
まるで「行け」と背を押すように。
ふたりは調理場を抜けた。
誰かに見送られているような気配と共に――階段を駆け上がる。
駆け上がった先に広がっていたのは、しんと静まり返った薄暗い廊下だった。
さっきまでの騒がしさが嘘のように遠のいて、ふたりの靴音だけがひそやかに響く。
けれど、どこか楽しげだった。
息を弾ませ、笑いを押し殺しながら、ふたりは歩き続けた。
廊下はひんやりとしていて、さっきまでの熱気が嘘のようだった。
細く暗い廊下は永遠に続いているようにも見えた。
ふたりの靴音さえ、ここでは冒険の鼓動のように響いていた。
廊下の奥――淡い光が差していた。
光に引き寄せられるように、ふたりは歩いた。
その先に、ステンドグラスの扉があった。
ノートが扉に手を添えた瞬間、冷たい光が掌をすり抜けた。
音もなく、だが世界の膜が綻びるように、扉がゆっくりと口を開いた。
広がったのは、星の軌道をなぞる針金細工の天体模型。
風に揺れる彩色された試験布、数式と魔術紋が交差する羊皮紙。
硝子瓶に沈んだ光の粒が、ノートの瞳を追って揺れた。
星図、竜巻を収めた試験管――そのすべてが、かつて誰かが"未来"を夢見た証だった。
触れたら壊れてしまいそうで、ノートは手を止めた。
そこには、確かに『過去』の匂いがした。
魔術と理の外がもつれたこの部屋は、工房というより、
世界の継ぎ目に、ひそやかに取り残された夢の殻だった。
柔らかな午後の光が、天窓から机の上にひと筋、淡い真珠色の影落とす。
火が消えたあとのような、静かな匂いが残っていた。
乾いていて、鋭く、鼻腔の奥にかすかな痛みを残す。
「……ん?
おやおや、お客様とは珍しい。
やあ、ようこそ。
迷い込んでくれて、嬉しいよ」
白髪を束ね、青い瞳に過去と未来を滲ませた青年は、黒衣の下で宮廷式の礼をとる。
微笑みは親しげだったが、その奥に、どこか"別の時間"を見ている気配があった。
ノートは半歩前に出て、ルバートをかばう。
ルバートは目を細め、青年の指先の揺れひとつすら取り逃さぬように追っていた。
その視線はまるで、見えない言葉を読み解こうとする学者のようだった。
だが、敵意も力の気配もない。
ただ懐かしい空気だけがあった。
「一杯いかが、かな?」
青年の言葉とともに、宙からテーブルと椅子が舞い降りる。
椅子がひとつ、ノートの真上に落ちるが、受け止めて、青年に放る。
「――あれ?ごめん、ちょっと手元が狂ったみたい。
怪我はなかった?」
白いクロスが広がり、ティーポットがふたつ音もなく現れる。
珈琲、紅茶、チョコレート、プリン、クランベリー――
それが当たり前であるかのように、用意されたもてなし。
ノートは疑うように眉をひそめ、ルバートは無言で全体を観察していた。
彼は沈黙のまま、ティーポットの傾き、カップの温度、香りの流れさえも測るように目を動かす。
それは会話よりも深い何かを読み取ろうとする者の目だった。
「……ここは、どこだ?」
ノートは視線を巡らせ、咄嗟に使えそうなものの位置を記憶した。
椅子に座らず、テーブル越しに相手を睨むようにして立ち尽くしたまま。
部屋の主は、ティーポットの取っ手に手を添えたまま一瞬固まる。
その動作ひとつにも、妙な緊張があった。まるで、言葉の重さを天秤にかけているような間。
「……通りすがりの、小さな工房さ。
世界のどこにも、どの時にも属さない場所。
風に巻き上げられた夢の欠片、みたいなものでね」
とぼけるような口調。けれどその目は笑っていなかった。
「そちらは?」
ルバートが静かに訊く。
声は低く、冷ややかに観察する者のものだった。
「なぜ、ぼくらを知ってるのかな?」
ふたたび彼の手が止まる。
ティーポットを傾けかけたまま、指先が震えるほど細かく静止した。
「さてね?
――思い出したければ、あったことにすればいいさ。
夢だと思いたければ、そうすればいい」
あくまで柔らかく。だがそれは否定ではなかった。
「なら、これは何だ?」
ノートがチョコレートを示す。
笑った。
その目元に、ほんの欠片だけ、祈りのような光があった。
「君たちが好きだった気がして。……夢の中でね」
それは壊れそうな言葉だった。嘘のようで、本当のようで。
「もしかして……好みじゃなかった?」
青年は、困ったように笑った。
グラスの縁に赤い実が当たる音が、彼の手つきでわずかに変わった。
その微細な変化に、ノートは気づかない。
隣でルバートはひとつの答えを探すようにスプーンを傾け、わずかに眉を寄せた。
しばし黙考ののち、スプーンの動きを止めた。
まるで、問いそのものが意味を失ったかのように。
「……いただきます」
ルバートは紅茶のカップを持ち上げ、ひと口含んだ。
好みにあったのか、目が細められる。
男が安堵したように、少しだけ微笑んだ。
その表情にほんの一瞬、淡い哀しみがよぎったように思えた。
ノートは未だに背筋は張ったまま、瞳だけがさまよっていた。
宙から落ちてきたティーセット、見たことのない材の家具、どこか懐かしい香りの混ざった空気――
スプーンをいじり、カップを持ち上げる兄の横顔を見て、弟も目の前の珈琲のカップに手を伸ばした。
ひとくち呑むと、目を閉じて味わい、眉間に皺を寄せた。
甘さが必要だとでも言うように、静かに、白い粒の瓶に手を伸ばす。
「あんた……なんて呼べばいい?」
青年は少しだけ目を伏せ、首を横に振った。
「……呼ぶこと自体があまりよくないかな。
君とは――まだ、会っていないことになってるからね」
男は代わりに微笑んだ。
「……僕のいた国ではね、雨が降っても、人々は傘を差して、静かに歩き続けるんだ」
ノートは眉をひそめた。
「雨が降ったら、こっちじゃ市場が騒ぎ出す。
果物は隠されて、商人は大声で客を呼ぶよ」
「陽があるからさ」
白髪の青年は、ぽつりと返した。
「鐘が鳴って、木々が実をつけ、人が笑う。
――君たちの国には、陽の匂いがする。
いいね。羨ましいよ。
僕の国には、それがなかった。
……霧が深くて、空が低くて。
灯りは足元を照らすもの。
目を合わせる時は、帽子の影から覗き込むように話すんだ」
「笑わないのか」
ノートの問いに、青年は首を横に振った。
「笑うよ。紅茶を飲みながら、そっとね。
……そう。持ち手を『つまむように』持って、
音を立てないように、すごく丁寧に」
ノートはぽかんとし、ルバートは静かに視線を逸らす。
そして、どちらも何も答えなかった。
「……なんで、そんな話を今するんだ?」
気を取り直して、ノートは問い返した。
「さて?
何も気にせず、たわいない話で笑っていられるのは、いまだけだから、かな?」
青年はカップを見つめ、ぽつりとこぼした。
「……百年動いた古時計が、ある日ぴたりと止まったんだ。
その時、……誰かの時間も、止まったのかもしれない」
ルバートは、眉をひそめる。
唐突なその言葉の裏に、彼の思考がどこかへ飛んでいったことを、ただ見て取る。
「でも……残された人は、その『止まった時』を――きっと、羨んだんだろうね」
ふ、と工房主は微笑んだ。
「そんな歌があるんだ。
『おじいさんの古時計』
……君たちは、知らないだろうけど」
ふたりは、やはり黙っていた。
けれど、その目には、僅かに揺れるものがある。
「その人の心が止まった時、一緒に止まった。
……時間って、そうやって、誰かに寄り添うものなんだ。
でも、僕のは……ね。
ちょっと変わってるから、ここじゃ使えないんだ」
青年の声はやわらかく、カップに注がれる紅茶と珈琲の音にまぎれて、ふわりと溶けていく。
「進んだつもりの足が、いつも昨日に着地してる。
霧の中では、未来と過去がすれ違うだけなんだ。
でも――それでも、ちゃんと『今』を贈りたいんだ。
……君たちの、その時間に」
ノートは、ふと、胸に手を当てた。
鼓動が一拍だけ遅れて聞こえる。
それが、贈られた『今』の証のようで。
だから、と青年は懐から小さな包みを二つ取り出す。
「……君たちに、ちょっとしたお守りを」
中に入っていたのは、飴玉。透き通る赤と、琥珀色。
包み紙は透けていて、中の飴玉の色がそのまま見えた。
けれど、留めに使われた封蝋のような赤い小さなシールには、ノートには読めない記号が記されていた。
「これは魔術じゃない。
……時の願いを、硬い砂糖で包んだだけ」
包みをさわると、飴玉が小さく鳴る。
「共鳴してる間だけ、君たちは『気づかれない』」
カラン――暑い日の氷の音のように。
「目にも、術にも、音にも――届かない場所に落ちる。
……ほんの、ひと舐めの結界さ」
急に工房主の青目が鋭くふたりを射抜いた。
「――事故だったんだろ?
あのワードローブ、使ったんだよね。
あれは『あの人』だけの秘密の避難路だ。
本来、君たちはそこに触れるべきじゃなかった」
ノートの眉が跳ねる。
「だから、これは代償。事故の記憶は落として帰って。
このお守りは溶けて、なくなるまでの間だけ使える。
……それだけの手品だよ。
食べなくても溶けるから、ただ持っていればいい」
青年の指先が、結界の境目を示すと――ノートの耳が、ふっと世界から切り離された。
光と音が、濡れた絹のように遠ざかる。
目を閉じる直前――彼は、耳の奥に声を感じた。確かにあった、けれど、言葉にならなかった。
言葉にならない沈黙のまま、青年は微笑んでいた。
『また』を願えば、きっともう会えなくなる。
だから、彼は黙っていた。
目を閉じても消えない、白さがあった。
咄嗟にまぶたを開けたノートは、いつもの中庭の木漏れ日と紫陽花の間に、兄の思案する鋭い目を見つけた。
夢と現の境界で、ふたりの時間が静かに始まろうとしていた。
まるで、記憶の底から呼び戻された場所のように。
同じ飴玉の包み紙が、ふたりの手にあった。
くしゃりとした包み紙に、あのおかしな茶会の気配がまだ残っていた。
ノートは、小さく息をついた。
今日、言おうと決めていた。
「……使いを送っていただいたと、ききました」
「うん。君には、あの山脈と因縁があったから」
「……はい。兄上がいてくれたおかげで、魔術暴走せずに済みました」
「そう。君の力になれたのなら、良かったよ」
「これ……受け取っていただけますか」
ノートはそう言いながら、懐から小さな結晶を取り出した。
蜜色の結晶に、銀のフォークが突き刺さったまま、ゆっくりと沈んでいた。
命が一滴ずつ溶けて、静かなまま凝固したようだった。
誰かの記憶の底に沈んだ、最期のきらめきみたいに。
「ビステッカの夢の名残だけど……悪くないだろ。
俺が持つより、兄上の懐のほうが似合いそうで」
ルバートは目を丸くし、それからふっと笑った。
「なにそれ。お守り?
……まったく、兄をなんだと思ってるのかな?」
けれど、その手は確かにそれを受け取った。
指先で光を転がしながら、ほんの少し微笑む。
「……じゃあ、有り難く『お守り』としてもらっておくよ。
世界でいちばん冗談みたいな、でも――世界でいちばん、嬉しい贈り物だ」
その言葉の奥に、確かな熱があった。
静かで、深い火――信頼の火が、彼の胸に灯っていた。
ノートはひとつ頷き、震える声で言葉を紡いだ。
「……兄上と一緒に未来を歩いていきたいんです」
一拍、風が止まった。
「王城が、ずっと怖かったんです。
父上の影が背中に張りついてる気がして」
ノートは手袋を見た。手首の下に、あの従属の印。
「俺は……道具でしかなくて」
そして、小さく笑った。
まるで、それが誰か他人の手のように見えたかのように。
「そのままじゃ、『俺』がどんどん薄れていく気がして。
でも……兄上の声を聞いていると、父上の影が少しだけ消える気がするんです。
どれだけ前線に立っても、王城が……『居場所』に変わる気がして」
顔を上げたその瞳に、揺るぎのない意志があった。
「どうか……俺がこの王城に帰る意味になってくれませんか。
血の匂いじゃなくて、あなたの声が待ってる未来を――
戦う理由じゃない、『帰る場所』として……兄上と作りたいんです」
沈黙の中で、ルバートはそっと目を伏せた。
長い睫毛がわずかに揺れ、感情の深さを物語っていた。
胸の奥で何かを整えるように、呼吸をひとつ挟む。
「意味なんて、誰かの記憶のなかにしかないと思ってた。
……でも、君は違うんだな」
言葉は静かだったが、確かに『未来』を動かしていた。
「正直……怖いんだ。
誰かに期待されることも、それに応えることも。
でも、こんなふうに手を差し出されて――
……兄として、応えないわけにはいかないだろう?
約束しよう。君の帰る場所であり続けるって」
皮肉も仮面も脱ぎ捨てた、ひとりの兄の顔だった。
そして、目元が少しだけ笑った。
「君はすぐに戦地へ行ってしまうけど……
置いていかれる側の気持ちも、忘れずにいてくれると嬉しいな。
君が帰ってきたとき、ちゃんと『ただの兄』として迎えられるようにしておくから」
軽やかな口調のまま、芯まで響く声だった。
それは――約束の声だった。
そしてふたりは、陽の差す中庭に、ただ立っていた。
はじめて会った時と同じように。
――飴玉の包み紙が、陽の中でまた揺れた。
それは、兄弟が隠し持った『まだ言葉にならない約束』。
父王の影を越えて、ふたりの記憶にだけ灯る、目印だった。