オーロル山脈の息吹と、ひとりぼっちの祈りたち1
――熱があったのか、目の前がぼんやりしていた。
『その身を対価に、こいつを母の元へ送り届ける、か。
……いいだろう。人よ、山にお還り。
オーロル山脈を司るものとして、その願い、聞き届けてやろう』
こだまする、懐かしい声。
これは、夢か。
深い岩の奥を満たす地下水のように――静かで、どこか懐かしい音だった。
知らない存在でも、不思議と怖くはなかった。
まるで、まだ言葉も知らぬ頃、耳に触れた子守唄のような。
『ふむ……。小さな人間は脆いのだったか……。
俺の祝福がありゃ、なんとかなるだろ。
……ま、腕の二、三本ぐらい欠けても勘弁してくれよ。
俺はそもそも、そういう『もん』だ。
ほら、泣くな。――いい子だ。
……お前に良き風が吹き渡りますように――』
山の風が頬をなでた気がした。
母の腕を伝い、メイの背へとたどり着いたその日から、
俺の世界は、少しずつ音を増やしていった。
紛争地域で渡り狼に出会い、俺の周りは賑やかになった。
もしかするとすべての始まりは、あのときの言祝ぎだったのかもしれない。
夢か現か分からない。
けれど、忘れたはずの言葉が、風の中で脈打っていた。
きっとあれが『最初の祝福』だったんだ。
命じられた任務は、軍の表が動けないいびつな仕事。
なら、隠れ蓑には『傭兵王子』がちょうどいい――そういう扱いだ。
行き先は睡烏国の辺境、山降ろしの村。
この任務の要は、『オーロル山脈の息吹』。
砂漠地帯での戦で砂嵐や幻影を退け、地の利を確保するための守護の要。
通称、大結晶だ。
それが盗まれた。
例の大結晶は村で『守護石』として祀られているらしい。
睡烏国は信赦教主国に連なる信仰の国。
他国の法も、村の信仰も、俺たちには背負えるものじゃない。
だから、軍ではなく、旅人の仮面を被って村に入る。
下手に介入すれば、国際問題にもなりかねない。
俺はメイ、クヴェレと共に徒歩で向かった。
腰には兄上の託した篝火の結晶。
懐には、名ももらった小さな相棒。
山の木々で陽ざしは薄くても、心は温かかった。
崖道を進む靴音が三つ。湿った風が前髪をなぶっていく。
「近衛様、崖っぷちでもやっぱり背筋ピンだな」
クヴェレの言葉に、俺は吹きそうになった。
「クヴェレ……殿下の前にいるという自覚は?」
メイの声は低いが、鋭い。足音すら揃ってくる気がした。
「さあな?小僧が王子になっても、そう急に『改まる』気にはならんよ」
「立場が変われば、接し方も変えるべきです」
「……へぇ、そういう貴方も、随分と他人行儀じゃないか」
クヴェレの目が、軽さの奥で鋭く光る。
俺は空気の変化に立ち止まった。
「おーい。おふたりさん。山道で喧嘩すんなって。
崖、見えてるか?」
クヴェレが肩をすくめる。
「ほら、王子様のお出ましだ」
「殿下」
メイの眉がひくついた。
戸惑いを声に出さぬまま、呼吸だけが微かに乱れた。
「俺たち三人だろ。貴族でも傭兵でも、今は同じ任務中だ。
……メイ、クヴェレは昔からそうだった。
緩めてるんじゃなく、あれで『気遣ってる』」
「心得ております。――ですが、任務中です」
クヴェレが肩をすくめる。
「おう、そろそろその扱いにも慣れてくれよ、近衛殿」
メイはぴくりと目元だけ動かし、わずかに溜息を吐く。
「……礼儀を崩すな。俺の役割が揺れる」
風が吹いた。三人の影が、崖道に重なる。
「……なるほど。お前も苦労してんのか。……まぁ、頑張れよ」
「はいはい、まっすぐ歩け、ふたりとも。崖の方行くなよー」
俺の声は風にまぎれて、道に溶けた。
これくらいの険悪さなら、大丈夫か。
みんな立場の変化に少し時間が必要なだけ、って分かってるから。
山の中腹で、俺たちはひとりの子どもに出会った。
赤い上着はほつれ、手足は土まみれ。
だが、その目だけがやけに澄んでいた。
「おにいちゃんたち、どこいくの?」
屈託のない声に、クヴェレが小さく笑う。
そして懐から、王都土産の飴玉をひと包み取り出した。
「道を教えてくれた礼だよ」
子どもは一瞬、きょとんとした。
けれど次の瞬間、花が咲いたような笑みを浮かべる。
「……でも、もうすぐ来るよ。おかあさんが言ってた」
子どもに導かれ、村へとたどり着いた。
一見すれば、ありふれた山村だった。
畑が広がり、家々の煙突からは炊事の煙がのぼる。
軒先では老人が機を織り、犬を追う子どもたちの声が響いている。
――けれど、どこかが妙だった。
匂いと目に入るものの位置がずれている。
笑い声は聞こえるのに、誰もいない。
陽が差しているのに、まるで陰の中にいるようだった。
季節も、時間も、息づかいまでもが、少しだけ『ずれている』。
俺の背を、風がそっとなでた。
それが『警告』のように感じられて、思わずレントに手をやる。
胸ポケットの中で、レントが小さく身じろいだ。
――大丈夫、まだ、ここにいる。
それだけで、ひとまずは安心できた。
でも、心のどこかでは、もう、悟っていた。
風に揺れる風見鶏とは逆の山上から吹き下ろした風が異変を知らせる。
ここは、ただの村じゃない。
平穏を『演じている』だけの、何かだ。
翌朝、村の空気が異変を告げていた。
ノートの気配が、忽然と消えていた。
クヴェレが目を覚ますと、ふたりの間にいたはずの気配がなかった。
朝靄の残る村の一角。
しっとりと冷えた土を踏みしめながら、静かに呟いた。
「……おかしい。この村にいるはずなんだが」
雇用契約の魔術の糸を手掛かりに、その結び目をたどる。
原始的な探査魔術だが、侮れない。
目眩ましがいくら巧妙でも、契約の糸までは欺けない。
ただ、生の灯が、どこかで微かに瞬いている──その一点だけが確かだった。
他の探査魔術はすべて沈黙していた。
まるで、意図的に封じられているかのように。
「……私の糸も、まだ繋がっています」
メイの声には抑制された苛立ちと冷ややかな疲労が滲んでいた。
陽が傾き、空が焼けてゆく。
脚の痛みよりも先に、胸の奥に鈍く棘が走る。
護衛対象のオーバーノート王子が見つからない――ただそれだけの事実が、メイという名の騎士の理性を静かに腐蝕していく。
村外れの畑の端。
赤錆びた光が、桶の水面でちらついていた。
クヴェレは水を汲み上げた手桶を地面に置き、無言でメイを見た。
「見失って動揺するどころか、妙に静かで不気味なんだが」
探る声ではなかった。副団長としての、かつての調子に近い。
だがメイの返答は、無表情で事務的だった。
「……ご心配には及びません」
「またそれか」
クヴェレが眉をしかめる。
「お前の『心配無用』ほど、信用ならねぇ言葉もねぇよ」
傾いた陽が、水桶に揺れ、メイの横顔を照らした。
そこには罪悪感も焦燥もなかった。ただ、規律の静けさがあった。
クヴェレは手桶を置いた拍子に、ぐっとメイに目を向けた。
「……昨晩、違和感はなかったか?」
クヴェレの声に、わずかに力が入る。
問いにすぐには答えず、メイは水桶の縁に手をかけた。
そのまま、低く答える。
「近衛として、生きていたつもりでした。……けれど、今は──
何を護るためだったのか、それが……抜けてしまっている」
「は?」
不意を突かれたクヴェレの声が乾く。
「殿下を見失うことは、任務の失敗を意味します。
──それ以上の意味を、私は今は持ちません」
空気が、わずかに軋んだ気がした。
「……誰のために剣を握った?」
クヴェレの声には怒気よりも、冷ややかな苛立ちが混ざる。
「その顔で、まだ『近衛』を名乗るか。
誰かのために立つ剣が、自分自身を守れずにどうする」
メイは答えない。水面を見つめる瞳は、無色透明のままだ。
「――すみません」
ただ、それだけを言った。
己を弁護しようとする気配もなかった。
クヴェレはその音だけを受け止め、懐から煙草を乱暴に取り出す。
風が一吹き、草が鳴った。
少女の姿が水場に現れた。
「あ……す、すみません。お水、ちょっと……」
メイは即座に数歩身を引き、頭を下げた。
その動作には、無駄も装飾もなかった。
「どうぞ」
クヴェレは深く息を吐き、眉をひそめて手でよける仕草をする。
「い、いえ……あの、お二人って、旅の方ですよね?
さっきあの人と話してて……」
少女の視線は、メイに吸い寄せられていた。――その整った顔立ちに。
「えっ、まさか、……男……だったんですか……?」
メイは無言で頷く。
少女は真っ赤になって水桶を持ち、逃げるように去っていった。
それは、何度も繰り返された場面だった。
顔で判断され、言葉で誤解され、力で黙らせた。
けれど今回は、怒りも、拒絶も、浮かばなかった。
「違う」と叫ぶ言葉すら、どこかへ行ってしまっていた。
クヴェレは煙草を咥えたまま、ぽつりと漏らす。
「あいつが誰かの盾になれなかったことに、こんなに動揺するとはな。……いや、『自分の無力さ』で折れたのか、あいつが」
メイは何も言わない。何も、反応しない。
ただ、風に揺れる髪を抑えることすらせずに立ち尽くす。
……が、しばらくして、喉の奥で笑うような音をひとつだけ零した。
「……『盾になれない騎士』ってのは、笑えるくらい、みっともないな」
自分に言い聞かせるような、吐き捨てるような声だった。
「女と間違われて怒鳴るより、……こっちの方が、よほど痛い」
そう呟いて、また黙る。
クヴェレは煙草の火を弾きながら苦笑する。
「やれやれ。立場も肩書きも、顔の印象には勝てねえか」
「……関係ありません。任務に、容姿は不要です。
私は近衛騎士です。それ以上でも、それ以下でもない」
「……そうかい」
クヴェレは煙草の火を、ひと息で深く吸い込んだ。
その火が、わずかに赤く脈打った。
──捜索開始から、二日目の夜。
ぬかるんだ土の匂いが、じっと足に絡みつく。
手元のランタンだけが、頼りなげに灯る。
クヴェレの足音は、相変わらず一定だった。
メイはそれに並び、一分の狂いもなく歩調を合わせていた。
ふと、クヴェレが口を開いた。
「……お前、眠ってるか?」
「仮眠はとっています」
「夢は?」
わずかに、メイの肩が動いた。
「……殿下に名を呼ばれた気が、したことがあります。
……夢だったと、分かっていても、肩が動いてしまった」
それ以上の言葉はなかった。
クヴェレも、また黙る。
風が木々を揺らす。星ひとつ、見えない。
「……殿下が私たちを『信じている』と思える限り、私は立ち止まれません」
「……ああ。そうだな」
クヴェレの声に、わずかに温度が戻る。
メイもそれに応じて、ランタンを掲げ直す。
職務だ。そう言い聞かせる。
感情は、必要ない。
……けれど、あの声が本当に呼んでいたのなら。
その足取りは、答えのない夜を切り捨てて、前へ進む。
聞こえなくても、呼ばれなくても、見つけ出すために。
三日間、まともに眠っていない。
目の裏が焼けるように熱く、視界の端に揺れる影がちらつく。
気のせいだと知っている。けれど、打ち消せない。
──違和感は、確かにそこにある。
それでも、足は止められない。
それが、騎士の義務だ。誇りだ。……そのはずだった。
「……まただ。位置が掴めない。
輪郭が、溶けてる。霧の底に沈んだ影みたいだ」
言いながら、自分の声が他人のものみたいだった。
となりのクヴェレが、俺を見る。
慰めでも苛立ちでもない。ただ、観察するような目。
騎士の仮面を貼り直す。
呼吸を整え、視線を合わせる。
だが、その眼差しにはわずかな揺れがあった。──確かに、あった。
「……最初から、おふたりでしたよね?」
村人の問いに、答えられなかった。
頷きたかった。だが喉が詰まった。
唇だけが震えて、言葉の代わりになった。
クヴェレが呟く。問いではなく、確信の形で。
「誰に訊いても、答えは同じだ。……綺麗すぎる。整いすぎてる」
異様なまでに整った日常。
まるで、『自然を模した不自然』が貼りつけられているようだった。
無意識に剣の柄に伸びた手が、小さく震える。
肺に沈めた息が、逃げ場をなくして重くなる。
クヴェレは見逃さない。
いや、見逃さなかった。
「……その剣、飾りだったか? お前らしくねぇ」
「『らしさ』って何だ。
傭兵か?
それとも──近衛騎士か?」
口をついて出た声は、低く、抑えられていた。
自問に近い。
クヴェレが言葉を失う。まるで、その問いが自分にも刺さったかのように。
一拍の沈黙。
「……もし、誰かがこの村の記憶を削ってるとしたら?」
「魔術か」
「異端の信仰が、日常そのものに混じってたらどうする。
『おかしい』と思う機能ごと、壊されてたら?」
その声音には、嫌な『実感』が混じっていた。
予感じゃない。既に、知っている感触。
名も知らぬ地で味わった、『高位の人外の手口』。
四度目の夜が明けた。
村をくまなく探した。
マントの裾は乾いた泥で硬くなり、剥がす暇もない。
だが──ノートの痕跡は、どこにもなかった。
偽装もない。隠蔽もない。ただ、『いない』。
最初から存在しなかったように。
……まるで、『家族』という概念そのものが、夜明けと共に消えたようだった。
気がつけば、水場の縁に並んで座っていた。
立っていたはずなのに、膝が言うことをきかない。
風が冷たい。肌を剥いでゆくような冷たさだった。
「……なあ、メイ。初日、あんたはこう言ったな。
『ノートが先だ。大結晶は後回し』。
でも今、それじゃまずいって分かってるだろ?」
指先に汗が滲む。
鞘が冷たい。……それすら、いまの俺には重たかった。
「ここ数日、ノートを主軸に探しながら、
村の連中に両方とも聴き込んだ。
だがどっちも成果ゼロ。
だから――俺はここからは結晶を主軸に探す。
……ゼロで戻る気はねぇ。
あとで尾を引くのは目に見えてる」
本隊のある方角を見やり、クヴェレが続ける。
「『渡り狼』の看板に、泥は塗れねぇよ」
その言葉に、棘が滲んだ。
「──それで、探すのは『大結晶』かよ」
声が揺れた。自分でも、情けないと思った。
だが、止められなかった。
クヴェレは眉間を揉み、短く吐き出す。
「……ああ。俺だって、ノートが無事か気が気じゃねぇ。
でもな、それでもやらなきゃいけねぇことがある。
……それが、『護る』ってことだろ?」
「なら──」
「だからこそ、今できることをやる。
お前の気持ちは分かるが、空回りしてるぞ」
一拍、鋭くなる。
「護衛対象が消えた。
近衛騎士として、お前の立場が危ういのは分かる。
だが俺には『渡り狼』の看板もある。
雇用主の名誉も、守らなきゃならない」
「……」
「言ってやる。……さっきも、村の南を見落としたろ?
今のお前じゃ、誰も守れねぇ」
言い返せなかった。
正論だ。反論の余地もない。
それなのに──息が詰まる。
理屈の外で、言葉が引っかかる。
……そうだ。クヴェレは正しい。
でも、正しさだけじゃ守れなかったものが、俺にはある。
それでもまだ、あの子の手を握ってやれなかったのか。俺は。
クヴェレが立ち上がり、肩に手を置く。
「──まだ見てない場所がある。村の北西、山に向かう道だ。
変だろ? あそこだけ、やけに『手入れ』されてる。
ノートがいるかは分からねぇ。だが何かが『ある』」
メイは静かに頷く。
「分かってる。……指示は、私から出します」
「へぇ、そりゃ立派だ。……遅ぇよ。
もっと早くそうしてりゃ、俺も楽できたのによ、騎士サマ」
皮肉みたいな声だった。
でも、その奥には、信頼があった。
この男は、俺を見捨てていない。
うなずいた。
背負うものは変わらない。──ただ、手綱を握り直しただけだ。
一歩、また一歩。背にあるのは、ただの鉄ではない。
──命令が、まだ背骨に残ってる。
やがて、山の稜線に、小さな建物が浮かび上がった。
崩れもせず、荒れもせず、ただ、ぽつんと風の中に佇んでいる。
空き家には見えなかった。けれど、人の気配もない。
あまりにも整いすぎていて──不自然なほど、無垢だった。
立ち止まり、息を吸う。
頭の片隅で燻っていた思考が、形を持ちはじめる。
(クヴェレは……もう俺の上司じゃない)
命令されれば体が動く。
『受ける側』の癖が、骨の芯にまで残っていた。
分かっていたはずだったのに。
傭兵団の頃は、それでよかった。
クヴェレの背を追えば、『正しさ』に届いた。
でも、今は違う。
俺は……王命を帯びた剣、でなきゃいけない。
振る舞いも、判断も、自分の鞘に収めねばならない。
変えた『つもり』だった。
けれど変えきれていなかった。
そして──その未熟さをごまかせていたのは、ノートがいたからだ。
あいつは、緩衝材だった。
俺とクヴェレの間で、言葉を整え、空気を和らげてくれた。
今、いない。ようやく気づく。
(……俺は、あいつに『お守り』をさせてた)
そして気づく。
俺は、同じことを──あいつにも求めていた。
俺が『騎士に戻った』ように。
ノートにも、『王子に戻れ』と。
戻ったその瞬間から、俺はノートをただの仲間ではなく──
『国を背負う存在』としてしか見ていなかった。
俺は『王子』に戻れと命じた。……信頼ではなく、職務として。
心のどこかで、そう線を引いていた。
──違った。
……ちくしょう。なんで、気づけなかったんだ。
変えるべきものと、変えなくていいもの。
その選び方を、俺は知らなかった。
『分かっている』つもりだった。
なら、もっと早く止められた。
無理をしていたことくらい、見抜けたはずだ。
風が、足を削っていく。
こんなにも揺れるとは思わなかった。
(……なんで、言ってくれなかったんだよ、あいつ……
……いや、それも甘え、か)
支えひとつで、歩幅が変わるらしい。
そう思った瞬間、無意識に宙を探っていた。
剣ではない。
見えない杭を、手探りで探していた。
手すりのない階段が、山の奥へと続いている。
その先は、霧だった。白く、深く、すべてを呑み込んでいた。
「……ノート」
呼んだ。返事はない。
けれど、『聞かれている』気がした。
メイは一度だけ、村を振り返る。
霞んだ屋根。何も変わっていないようで──
何もかもが、確かに歪んでいた。
(俺が見つける。それが、俺の──)
……違う。『俺の責任』とかじゃない。
ただ、もう一度、あいつに会いたいだけだ。
あと数歩、で──空気が変わった。
足が止まる。無意識に剣の柄へと手が伸びていた。
目には見えない。けれど、皮膚が拒絶を訴える。魔術の密度が、尋常じゃない。
前へ出ようとする。
だが、靴の底ごと斥けられるように、地面が拒んだ。
魂に触れられた。
撫でられ、計られ──値打ちが足りないと、見限られた。
──結界。
ここに、俺は入れない。……俺じゃ、足りない。
メイは一度、息を吐き、踵を引いた。
舌打ちひとつ。冷えた目で高台を見上げる。
「……『今日の撤退は、明日の刺突』。
――教官の口癖だな、懐かしい。
……必ず戻る」
それだけ言うと、振り返りもせずに山を下った。
背に背負うのは、敗北じゃない。冷徹な撤退判断だ。
メイは目を伏せる。わずかに足を動かした。
ぱきり、ぱきり。
その音は、未練を踏み潰すたびの、俺の心音だった。
王城の一角、第一王子ルバートの政務室。
彼は今日も、弟の分まで書類を処理していた。
それが自分の宿命、疑ったことは一度もない。
──少なくとも、今日までは。
それは、名もなき感情の爪だった。
脳の奥を引き裂くように、鋭く、容赦なく。
「……は?」
自分ではない。けれど、『知っている声』が脳内で叫んだ。
頭蓋がきしむ。奥底で、封じたはずの階層が軋む音がする。
封じられた記憶の階段を、靴音もなく、何かが這い上がってくる。
視線が、机上の報告書へと吸い寄せられる。
──『オーロル山脈の息吹』、軍用保管庫より消失。所在不明。
盗難の可能性あり。
言葉にならない衝動が、記憶の底から噴き上がる。
それは自分ではない、『誰か』の記憶だった。
けれど、抗えなかった。名を名乗られた瞬間、自分の骨が震えた。
「……逃げた?」
違う。
あれは『盗まれた』のではない。『自ら去った』のだ。
あれはただの結晶などではない。
『息吹』は、あの山脈そのものの《欠片》。
山は誰も選ばない。
千年越えても、山は山。
誰のものにもならない。なってくれない。
過去も、今も──未来も。
死して土に還った者だけが、かろうじて受け入れられる。
生きて触れれば、拒まれ、あるいは、呑まれる。
「……ありえぬ。それは……」
脳が軋む。理性の悲鳴がこだまする。
もう、いい。分かった。
だけど、止まらない。流れ込んでくる。
古く、けれど自分のものではない記憶。
(……誰の手にも渡らなかった。俺が触れても、動かなかった)
(それが……ノートには、反応した?)
違う。そんなはずは。……でも、誰かが言った。
「あの子、また……」
ノートは、あの子じゃない。
……ノート。──いや。
今度こそ、まだ間に合う。
机を引き寄せ、備忘録をめくる。
掘り出された王家の記録は、取るに足らぬ小事として埋もれていた。
──第二王子、移動中の事故と襲撃。
乳母死亡。精霊の干渉の可能性。
……誰も、取り合わなかった。
その後、妃は近衛騎士ひとりだけをつけて、王子を紛争地帯へ送った。
……もし、あのときの『言祝ぎ』が、まだ残っているのなら。
言葉にならぬ確信が、背骨に鋭く突き刺さる。
「──間に合わなかったら……ノートが、消える……」
血の気が引く。世界が無音になる。
「……だめだ。止まってる場合じゃない」
椅子を蹴る。命令を叩きつけるように旗を立てる。
王都が動き始める。
第一王子の、ただの『わがまま』。
そう記される未来を思い浮かべて、笑いそうになった。……構わない。笑え。嘲れ。
僕は動けない。
父王の目がある。
動けば裂ける国。黙れば壊れる弟。
その狭間で、僕は──祈った。
「……誰か、間に合って」
震える声。それは命令ではなかった。
王子としてではなく、兄として。
ただの願いだった。
世界が応えた。
それは祈りではなく、咆哮だった──命を呼ぶ、滅びの咆哮。
僕がまた、弟を壊すかもしれない。
でも、それでも、お願いだ。
……オーバーノート。
君が消えたら、この世界もろとも、灰にしてやる。
その火を灯すのは、僕の祈りだ。
クヴェレはメイと別れたのち、村をくまなく歩いた。
村外れの石祠の上に、干からびた麦穂が結ばれていた。
羊毛の束はほつれ、誰の手も入っていない。
クヴェレは祠に祈りを落とし、唇をゆがめる。
「……こんな借りもんで、誰を祀れってんだ。
本物も偽物も裸足で逃げ出すだろうさ」
村の広場には、まだ話しをきけてない者が何人もいた。
透明な大結晶の目撃情報を探しながら、言葉を選ぶ。
「『オーロル山脈の息吹』……見た奴、いねぇか。
それから……。
ノート……でかい図体の若い金髪の男を見なかったか?」
山の名を音に出す。
その瞬間、気温が一度下がった気がした。
村が呼吸をやめる――あまりに静かで、鼓動が耳に響いた。
(……口にするだけで、『異端』になる……?)
まるで『見るだけは許すが、知ることは赦さぬ』とでも言われているかのような。
ここは確かに現実の中にある――だが、ここは『こちら側』とは思えなかった。
もうひとつ。
この村にノートという存在が、最初からいなかったかのように扱われている。
問いを重ねるほど、その感覚は深くなった。
誰かが嘘をついている、そんな気配すらない。
それが、かえって気味が悪かった。
すべてが均されている――『記憶』ごと。
この村には声が届かない。
誰も語らず、誰も思い出さない。
……
……そうだ、あのときのメイも、同じだった。
助けを求めていたのに、言葉にならなかった。
村を歩く足は、もうただの儀式だった。
意識は、別の場所に沈んでいく。
昔。
助けてくれって声は、確かに聞こえた。
……けど、俺は手を出さなかった。
群れのはずだった。なのに――
あいつを置いて、進んじまった。
ジェーン・メイ。
角張った動きと、不機嫌な口調しか知らねぇ、
女物の自分の名前が嫌いな誰よりも野郎の近衛騎士。
元・渡り狼。かつての仲間。
俺にとっては、『扱いやすい変わり者』だった。
――そう、思い込んでた。
(あのとき、俺はこう言った)
『命令されなきゃ飯も食わねぇ。
風呂?忘れる。
服は血のにおいで固まってる。
そんな奴が『国の象徴』?
象徴っつーより、凶器だろ』
……笑った俺が、いちばんバカだった。
『命じてくれ。さもなきゃ、俺は……人間でいられない』
あいつが大義名分を失って、震えて漏らした時。
俺は『ネタ』にして笑った。耳が腐ってた。目も、心もな。
あいつは、道から外れるのが怖かったんだ。
近衛騎士として、国に命じられた道から。
それが許せたのは――
王命で護衛対象のノート、ただ一人だった。
今は。
近衛騎士に返り咲いたメイ。
王子に戻ったオーバーノート。
取り残された気がした。
でもそれを、『繋ぎ役』って言葉でごまかした。
違ぇよな。
『しがみついてただけ』だ。
今更だ。手遅れかもしれねぇ。
俺たちは、そうじゃなかったはずだ。
冷えきった間に、もう一度火を灯したいだけなんだ。
――もう聞き逃さねぇ。
もう誰も、取りこぼさねぇ。
(団長、あんたの役回りだ……なのに、この局面で留守番だと?どこまでもタイミングが悪ぃな、クソッタレ)
焦げた風が、目の奥を撫でた。風は、山のほうから。
ぬるい、宴のふりした火だ。
だったら――俺が、火種になってやる。
俺が群れの火を繋ぐ道をつくる。
吹けば燃える、拾えば灯る。
消えかけた仲間には、それだけでいい。
近くの熾火。まずは、メイ。
命令がないと壊れちまう馬鹿騎士に、今度は『傭兵王子の仲間』として命じてやる。
「生きろ」ってな。
遠くの火。次はノートだ。
けど、消えちゃいない。信じてる。
信じるだけじゃ足りないってこと、俺が誰より知ってる。
追いつく。肩を貸す。その背中が崩れた時のために。
最後のひとつ、本隊の焚き火。
どうせ団長は、『内緒な?』とか言って、焚き火囲んで宴やってるんだろ。
たまにはあんたもそうして囲まれとけ。
俺たちは、渡ってきた。
群れで、風の中を、火の中を――
こぼれた奴らを拾っていく。
すくい上げる手になる。
……それが、俺たち『渡り狼』の副団長の仕事だ。
ドゥールが、そうやって教え育てた。
背筋を伸ばす。古傷が軋む。
だが構わねぇ。一歩、踏み出す。
これが――俺たちの在り方だ。
誰もいねぇ獣道を、一人で踏み鳴らす。
それでも――これが、群れの声だ。
背を預けられるような――群れの声。
もう二度と、仲間の悲鳴を踏み潰さない。
火のにおいに向かって、吠えた。
――その声は、風に消え、やがて静けさが満ちた。
村のはずれまで歩く。
わかってる。どうにもならないことくらい。
それでも、立ち止まるよりはましだった。
歩くしか、できなかった。
草むらを抜けた先、小道の入り口に、ぽつんと子どもが立っていた。
赤い服は風に抗うように、ひとすじも揺れなかった。
――あのとき、飴をあげた子だ。
クヴェレは知らず、息を詰めていた。
子どもは、そこにいるのに、まるで『そこ』だけ世界の接着が剥がれていた。
「……迷子か?」
クヴェレの声が、霧に溶けていった。
その視線は、心を裂くための刃だった。
冷たく、音もなく、だが確実に滑り込んでくる。
「迷子じゃないの」
子どもは、首を傾けた。
「あたし、出なきゃいけないの。『あそこ』から」
クヴェレは一歩踏み出す。
足元の霧が、ひたりと冷たさを増した。
子どもは、まぶたを伏せる。
風が、耳の奥を通り抜けた。
まるで、そこに穴が開いているかのようだった。
言葉はなかった。
ただその視線だけが、獣が獲物を選ぶように、クヴェレを見ていた。
「……あの山に住んでいるのか?」
再び問いかける。
クヴェレが再び問いかけた時、
子はゆっくりと顔をあげた。
「……知ってるよ。あの子のこと。」
その言葉に、クヴェレは思わず息を呑んだ。
心臓がほんの少し、音を立てる。
「あの子?」
クヴェレは一歩後ろに下がり、目を細める。
「おじさん……」
子どもが、わずかに顔を傾ける。
「本物と偽物の違い、わかるんだ?」
クヴェレの胸に、ひびが入った。
壊れていないのに、何かが落ちた音がした。
子どもは、ほんの一瞬、目を伏せた後、再びその視線を彼に向けてきた。
「……明日の夜、ここで待ってて」
言葉が残したのは声ではなく、
まるで、未来のどこかで自分が泣く音だった。
暖炉の火がぱち、ぱちと乾いた音を吐く。
そのたび、石壁に揺れる影が細く伸びては引き絞られる。
村の奥家の一室。
煤けた梁の下、羊毛を紡ぐ香りと、霧の湿りが壁に染みついている。
石壁のひんやりとした呼吸が、炉辺の熱に逆らっている。
年老いた村長は肘をついて暖炉を見つめていた。
「……よほどの物好きか、よほどの道知らずか。
この季節に、あの崖を越えて来るとは」
村長の声は、煤に燻された木片のように低く、熱にじむ空気のなかへと沈んだ。
「ええ。道を選ぶことほど、その地の意思を測れる術はありません。
こうした土地では、『足が向かう先』こそが、真に近いと」
老いた男の目が、炉の奥で揺れる炭火と同じ色をしていた。
「……何を求めて来たのだ」
「旅の途上で、少しばかり珍しい話を耳にしましてね。
眠れる太陽の国に、違う守護石を持つ村があると」
そう言いながら、クヴェレは暖炉の揺らめきへ視線を落とす。
村長は無言で火かき棒を手に取り、薪の隙間をつついた。
火花が跳ねて、石床に散った。
「静けさの中に宿る信仰が、いちばん強いと感じるのです。
言葉を呑んだ喉元には、まだ熱が残ってる。真実ってのは、そういうもんでしょう」
クヴェレの声は、薪の燃える音に寄り添うように静かだった。
「人は、何を信じて黙るのか――その沈黙に、知りたいものがある」
村長はしばし黙し、それからぽつりと呟いた。
「……語らぬ者に、真理は託せぬ」
「ええ、そうでしょう。
でも、語れなかった者の沈黙には……守りたかった何かがある。
たとえば、山へ還るはずだった『誰か』の声を。
あるいは、祈りの重さに耐えきれず砕けた、かつての守護者そのものを」
言葉の余韻が炉の熱に溶けていく。
部屋に沈黙が訪れ、薪が弾ける音が一瞬だけ時を裂いた。灰がふわりと舞い、空気の層を一枚ずらす。
「……おぬし、何者だ」
ようやく村長が声を発したとき、クヴェレは微かに首を傾け、火を見つめたまま答えた。
「ただの旅人ですよ。
でも……あなたは、何を守るために、語らずにいた?」
橙の光に照らされて、彼の横顔が浮かび上がる。
「あなたが口を閉ざすのは、信仰が壊れたからではなく、
『壊れていない部分』を護りたいからでしょう」
老いた村長が、目を伏せた。
まるで、その言葉の重さに応えるように。
「……あの子は、我らが目を逸らした祈りの欠片じゃ。
……祈りを捨てたんじゃない。
ただ……何度も裏切られて……わしに許されたのは、黙して座すことだけじゃった」
火かき棒で薪を転がす。
「……じゃが、それでも……あの子が帰ってきた。
わしの中でも、ずっと絶えていなかった祈りを、呼び起こすように」
「ならば、私は耳を傾けましょう」
クヴェレは目を閉じた。
「……私は『語られなかった言葉』を連れ帰るのが仕事でしてね。
――『誰かが口にできなかった信仰』なら、記録する手が、たったひとつでも差し出されるべきでしょう。
……そのために私は、ここに来たのです」
村長はしばし目を伏せ、ぽつりと囁いた。
「……記録する者か……その手は、あの子を救うかの……?」
再び沈黙。だが、それは先ほどのそれとは違っていた。
言葉を飲み込んだあとの、決意の前の静けさ。
村長は目を細め、再び暖炉の火を見つめる。
「……案内はせぬ。ただ、あの子が『誰を見たがっているか』──それは分かる」
クヴェレはゆっくりと目を開ける。
「赤衣の影を見かけたら、言葉より先に、頭を垂れてやってくだされ。
……あの子は、我らが祈りを手放してしまった、あの晩に置き去りにされた存在じゃ。
見棄てられしものが、祈りの先になることもある。
だが……あの子に向けられる祈りがずっと続いてほしいのだ」
村長の言葉を背に、クヴェレは扉を開けた。
外へ出ると、森の匂いが一気に肺に満ちた。
昼を過ぎた陽の光が、木々の影を長く落としている。
静けさの中に、村の息づかいがほのかに感じられた。
一歩、外に出た、その瞬間だった。
「クヴェレ!」
土を蹴る音。
振り返るより先に、メイの姿が飛び込んできた。
彼にしては珍しく、声に焦りが滲んでいる。
肩で息をつきながら、普段の冷静さを欠いた声で告げる。
「篝海の火と、海の紋章——『王家直属の旗印』を掲げた一団が、村に向かってきている」
「……第一王子か」
「恐らく。あの距離からこの速度……転移門を使ったな。
王ですら貴族会議の許可が要る代物だ」
メイが低く続ける。
今度は、いつもの口調だった。
つまり、事態は本物ということだ。
「おそらくルバート王子だろう。……あの御方、やっぱり底が知れない」
クヴェレはすぐに察した。
(ノートの迎えだ。だが、それだけじゃ済まねえ)
視線を遠くへ投げ、口の中で舌打ちする。
(王家直属の近衛騎士と傭兵が揃っていて、当の王子が姿を見せねえ——)
一拍置き、眉間を押さえるように息を吐いた。
(……まだ向こうは気づいちゃいねえ。だが、そう長くはもたねえ)
(来たのは旗印じゃない。
この村の空気ごと、答えを暴きに来た)
鼻の奥で、また違う焦げた匂いを感じた気がして、クヴェレは顔を顰めた。