海の奏者と風向きのレント
あの日拾った生き物は、鼠に似ていた。
けれど、尻尾はふさふさと太く、小さな羽までついていた。
黒い毛並みは驚くほどなめらかで、触れるたびに魔術が細かく跳ねる。
……見たことがない。とても希少な『人ならぬもの』。
「ミ……!」
「水なら、さっき飲んだろ? ……懐に戻ってろ」
「ミッ」
「餌は後だ」
「ミヂィ……!!」
胸元に潜り込んだ小動物を、馬医は覗き込んで、苦笑した。
「変わった風向きだな。……黒い毛並みってのは、縁起がいいって言われてるが」
そう言って、馬医エキュスは肩をすくめた。
「それよりさ。お前、気づいてるか?」
彼は低く、真顔で言った。
「そいつ──お前にしか懐いてない。
こいつの魔術の流れ、もう完全にお前と繋がってる。
一心同体だ」
「懐く……でも、俺には王命で軍属になる」
「知ってる。だから言ってんだ。
そいつをお前から引き離せば、すぐに風の魔術に還る」
俺は、息をのんだ。
「……だが、俺にこいつを守る余裕なんて──」
「ないだろうな。でも、そいつらはそういう時に来るんだ。
『ちゃんと整ってから』なんて奴はめったにいない。
間に合わせのまま始めて、そんで、ちゃんと絆になる。
……みんな絆になるよう、努力してんのさ」
エキュスは笑った。軽く、だけど芯のある声で。
「どうせなら、できるとこまでやってみろ。
……失敗したら、その時に謝れ。
――そういうもんだろ?」
胸が、すこしだけ熱くなった。
「……わかった」
つまり──俺が育てるってことだ。
この小さな命を。俺の傍で、俺と繋がっている、風の証を。
幸い、食糧には困らなかった。
水と、持ち主の感情――それが魔術の動力源だというのだから、手間も金もいらない。
だが油断すると、ふっと消えてしまいそうだった。
気楽に構えていたのに――ナッツを鼻先で押し返し、生きた花びらにしか目を向けない。
「……贅沢にもほどがあるぞ」
「ミ?」
俺の魔術の匂いを吸って育つ変わり種。
懐は嫌いで、胸ポケットがお気に入り。
不要な養分は魔術に変換し、背中の小さな翼から風として排出するらしい。
小指の爪ほどの、そのふわふわの羽根から。
ちら、とポケットを覗く。異常なし。
むしろ、生地が少し綺麗になった気がする。
……何度も確認していたら、黒い瞳にじっと睨まれた。
……不機嫌らしい。
「……お前、妙に表情豊かだな」
普段は胸ポケットの中から顔だけ出して、無言で周囲を観察している。
その姿が妙に似合っていた。
兄上に再会したとき、経緯をすべて話した。
本来なら、こいつの主は兄上だったはずだ。
だが、兄上は微笑みながら言った。
「たまに触れられればいいよ。
……君の懐のほうが、あったかそうだ」
そして、静かに名をつけた。
「このレントは、僕が君に渡した最初のお守り、ってことだね」
「ミッ!」
「……幸運をもたらしてくれる……んですかね」
「ミッ?!」
俺が冷めた調子で言うと、レントがびくりと震えた。
兄上は楽しげにくすくすと笑った。
「ほら、レントが傷ついちゃった。
……こうして再会できたのも、彼女の幸運のおかげかもしれないよ?」
「ミィ、ミッ!」
「はいはい、わかった。……眠いなら、ポケットに戻っておけ」
名を呼ばれたレントは、くるくると回ってからポケットに潜り込み、丸くなった。
まるで、俺の鼓動の近くにいるのが当たり前のように。
俺は軍属になり、渡り狼と正式な傭兵契約を交わした。
クヴェレとはここで一旦お別れだ。本隊に戻る彼を見送り、王城から深森方面へ向かう。
馬を並べて進むのは、メイとドゥール。
いつもの任務と同じ。……だけど、どこか違っていた。
メイは近衛騎士の略式装束。俺も上等な服を着ていた。
急激に成長した体に合わせて仕立てられた『王族』用のそれは、ただの着替えじゃない。
――『傭兵』だった日々との、静かな決別の印だった。
その差に、胸がきゅっと締めつけられる。
「……正式契約か。ついこないだまで、あんなに小さかったのにな」
ドゥールが不意に呟いた。
メイも、ふと思い出したように言う。
「そういえば昔、物資庫に迷い込んで、一晩居なくなってましたな」
「やめろ、メイ。いま言うな!」
俺は慌てて抗議する。
「しかも見つかった時、干し肉で顔を隠して逃げたんだろ?」
ドゥールが肩を揺らす。
「そ、そんなわけないだろ!」
「証人のメイがいるぞ」
「……懐かしいな――」
近衛騎士の外面をかぶったまま、メイはほんの少しだけ笑った。
それから――
ふっと目線を外し、ほんの一瞬、懐かしむような顔をした。
「――あの時も、必死そうで。
迷子になって、泣く代わりに、干し肉をかじってた」
「幼かったんだから仕方ないだろ!!」
俺は真っ赤になって叫ぶ。
ドゥールは腹を抱えて笑っていた。
「……はは……王子様との直接契約、か」
ドゥールが、ふっと肩をすくめた。
「ずいぶん綺麗な話になっちまったもんだ……」
軍から詳細はポーラの港町と言われ、そちらに向かう。
寂れた港街には海からの襲撃被害が報告され、集められていた。
王命を受けた俺たちは、港の管理所に向かう最中、呼び止められた。
「……あんたらが、王城の使いかい」
「ええ、使いっ走りですけどね」
メイが涼しい顔で応じた。
「……みんな、怯えてる。
毎日魚とって、荷物運んで、みんなで一日の疲れを癒す。
そんな毎日を送ってたんだ。
なあ、あいつら……いい奴らばかりなんだ。
安心させてやってくれよ」
「……必ず」
報告書の一部を読み、被害者の話を聞く。
夜。航行中の船が焼かれ、乗組員は行方不明。
だが、奇妙なことに――誰も敵の姿を『見ていなかった』。
「夜目が利く連中、かね……?」
「人ならぬものにしては、荒らし方に無駄が多い、な」
ドゥールが報告書を捲りながら呟く。
メイも覗き込んで眉をひそめた。
「ああ……焼き払って、証拠を消しているな」
俺は顔をしかめる。
「ただの海賊じゃない?」
「さあな。ただ、やり口を見せたくない連中なんだろう。
だが……そこに糸口があるかもしれないな」
ドゥールが立ち上がる。
「行こうぜ。ここじゃこれ以上、わかりゃしねぇ」
港町を離れ、近くの漁村を目指す。
乾いた街道を三頭の馬が駆けた。
広がる麦畑、揺れる初夏の風。
途中に旅人の為の休憩場所を見つける。
綺麗な水場と善意のベンチ。
宿場町以外にも、国の随所に設けられた休憩場所は、前の王様の旅好きの賜物らしい。
俺は馬の首筋を撫でながら、胸ポケットをそっと覗き込んだ。
そこには黒い毛並みを持つ、小さな獣――風向きのレントが丸まっている。
「ミィ?」
ふにゃりと舐められ、思わず笑みが漏れる。
鞍の横に結んだ旅行かばんから布包みを取り出す。
中には、保存のきく殻付きナッツがごろごろと入っていた。
「少しは食え。魔術には、なるんだから」
ひとつ摘まんで鼻先に差し出す。
だがレントは、すん、とひと嗅ぎして、ぷいっと顔を背けた。
「……またかよ。好き嫌いすんなって」
ぐい、と差し出せば、小さな後ろ足で俺の手をぴしりと蹴る。
「ミッ!」
「いって……!」
懐柔なんて夢のまた夢。
だが、ここで引き下がれるか。
今度は殻を剥いて渡す。
だが、レントはぺっと鼻先で弾き飛ばした。
「ミヂィッ!」
小さな体が全身を毳立たせて怒りを主張した。
まるで『その手間を、なぜ最初から花びらに使わないのか』とでも言いたげだった。
そのときだった。
レントがふいに視線を逸らした。
その先には、風に舞う一枚の花びら。
「……まさか、あれか?」
俺が尋ねるより早く、
レントは胸ポケットから身を乗り出し、ひらりと花びらを口に含んだ。
「ミ……」
うっとりとした顔。
ナッツを蹴り飛ばした小動物とは思えないほど恍惚としている。
「……贅沢すぎるだろ、お前」
「ミ?」
どうやら、『花びら』が好物らしい。
後ろから刺さる生暖かい視線。
ちらりと振り返れば、メイが笑いを堪えていた。
さらにドゥールの声が追い打ちをかける。
「食費削減だ。無理やり食わせとけ」
「……言われなくても努力してる!」
転がったナッツを拾いながら、俺は小さくため息をついた。
……今回は、俺の完敗だ。
だが、絶対にいつか──ナッツを食わせてやる。
俺の勝利を信じて、空を仰いだ。
休憩を終え、近くの漁村へ向かう。
道沿いには麦畑が広がり、ちらほらと人影も見える。
この辺境にも、確かに生活は息づいていた。
「よそ者かい?」
畑から出てきた初老の男が、鍬を担ぎ上げて声をかける。
俺が口を開きかけた瞬間――
「調査です」
隣でメイが、涼しい声で答えた。
「王命で、海の様子を見に来ました」
男は目を細め、俺たちを順に眺めた。
腰の剣、馬、見慣れぬ顔。
すぐに納得したらしい。
「……そりゃ、ご苦労なこったな」
苦笑し、鍬を握り直す。
どこか、触れたくないものを避けるような動作だった。
「最近、海は荒れ気味でな。
深森近くのセイレーンどもが、求婚の季節に入ったらしい」
「セイレーン……?」
俺は思わず聞き返す。
男は鍬の先で海を指した。
「男と見りゃ、すぐに歌いよる。
うっかり聞いたら最後、船も身体も引きずられんぞ。
……夜になると、海鳴りも変わった。
まるで、誰かが呼んでるみたいにな」
俺の背筋を、うっすら冷たいものが撫でた。
(冗談にしちゃ、誰も笑ってねぇ……)
「……海の歌姫の発情期か」
ドゥールがぼそりと呟く。
「厄介だな」
メイは軽く頷き、男に礼を言った。
「助言、感謝する。
――ところで、ここら辺にはよく海賊が出る、とか?」
男は首を振り、吐き捨てる。
「海賊……? セイレーンしかきかんなぁ。
……何はともあれ、死なれちゃたまらん。気をつけな」
そう言って、鍬を担ぎ直し、早足で畑へ戻っていった。
振り返った背中には、どこか――『見なかったことにする』色が滲んでいた。
俺たちは再び馬を進めた。
すれ違う村人たちは、ちらりとこちらを見たが、特に怪しむ様子もない。
子どもたちは無邪気に遊び、大人たちは黙々と洗濯物を干していた。
だが、その布は――どれも鮮やかすぎた。
白、藍、赤、青、黄。
整列しすぎた色合いは、まるで舞台衣装のようで。
ぼろ布は一枚もない。使い古した痕跡もない。
――普通の村だ。
不自然なほどに。
(……何か、違う)
胸の奥にざらつきが広がる。
異物が、視界のどこかに混じっている気がした。
海からの風が、わざとらしいほど生の塩の匂いを運んでくる。
更に村の奥へと馬を進める。
そこにあったのは、ぼろぼろの網と、乾いて歪んだ小舟。
そして、道端で『止まっている』老人たち――。
誰も喋らず、動かず、ただ膝を抱いて座っていた。
俺は馬から飛び降り、村の中心に向かって歩いた。
ドゥールとメイも、自然と左右に広がって警戒する。
「……おい。誰か、話せるやついねえか」
ドゥールが声を上げたが、応える者はいない。
怯えた目を向けたまま、村人たちはすぐ俯く。
重い沈黙が、村を包んでいた。
鳥の鳴き声さえ聞こえない。
風が草を撫でる音だけが、異様に大きく響いた。
その沈黙を割ったのは、メイだった。
「……違和感の正体が、ようやく腑に落ちた」
彼はゆっくりと息を吐き、低く呟いた。
「――あいつ、最初から俺を“男”として扱ってやがった」
その声には、驚きでも怒りでもなく、
ただ不器用な男の、本能に近い納得が滲んでいた。
メイが、傭兵時代の低い声で言った。
「あいつ?」
「セイレーンの話をした農夫だよ。
お前たちに向けてると思ってたが……違うな」
美女顔の声に、ほんのわずか哀愁が滲んだ。
「――思い出した。あいつ、昔前線で刃を交えた奴だ。
なら、ここは『場違い』だ。
つまり――これは海じゃない。
――隠してるな、陸地で、なにかを」
「周辺を調査しよう。ここじゃダメだ」
「だな。手漕ぎの一艘くらいどうにか調達せにゃならんだろ」
ドゥールがうなずく。メイは無言で踵を返した。
俺たちは馬にまたがり、港町まで戻る。
太陽はまだ高いはずなのに、空気はどこか薄暗い。
(あの村……何かを、隠してる)
見てるくせに、見ないふりをしてる。
この『静けさ』は、嘘だ。
隣の隣の村で借りた、帆付きの小舟。
風よけにもならない小さな帆、欠けた銛、傾いたオール。
舟にあるのは、係留ロープと水桶だけ。穴が空いてないのが奇跡だった。
……これで潜入かよ。
内心でそう毒づきながら、俺たちは舟を海へ出した。
潮の流れは穏やかだ。
だが、海の魔術の匂いが強い。
舌にまとわりつくほど、濃い。
「隠すなら、この辺り、か……?
――当たりだな」
メイが短く告げた。
指差す先、いびつな岩礁群の奥に――大きな岩山。
その根元に、穴が開いている。
「……鍾乳洞か」
冷気が漂ってくる。潮の匂いに混ざって、鉄のような匂いもした。
中はすぐに折れ曲がっていて、奥は見えない。
「これは……広そうだな」
周囲には、無残な残骸が転がっていた。
山と積まれた帆船。
焦げ跡、へし折れた舵、ひしゃげた銛――ただの難破じゃない。
隠れるように停泊する、黒塗りの小型船。
静かすぎる。動きがなさすぎる。
「……海賊、にしては、手際が良すぎる」
ドゥールが低く唸った。
風向きを撫でながら、俺は周囲を見渡す。
そのとき、木片の裏に刻印を見つけた。
軍の印。深森のものだ。
しかも一つや二つじゃない。
(深森……軍か)
背筋が、ひやりと冷えた。
(これ……ただの潜伏じゃない。
ここで、奴ら何かを『準備してる』)
唇が自然に、きつく結ばれる。
報告しなきゃ。今すぐ――
――と、そのときだった。
海面が、ざわりと揺れた。
水が、呻いたような音を立てた。
風が、反対に流れた。
舟を岩に寄せた瞬間、世界が変わった。
岩の隙間から、何かが染み出していた。
風向きが、懐の中でかすかに震える。
たおやかな歌声――
絹のようで、芯に甘く、どこか毒を含んだ音だった。
岩壁に絡みつくように反響し、洞窟全体がその旋律に揺れている。
誘われるような心を、強く頭を振って振り払う。
俺たちは、洞窟の奥へと進んだ。
湿り気を孕んだ空気が、甘く鼻を掠める。
まるで誰かの吐息を吸わされているようだった。
光の届かぬはずの暗がりには、不自然な月明かりが差し込んでいた。
その中で、村人たちが無言で働いている。
誰に命じられるでもなく。
まるで歯車のように、同じ動きで。
木を運び、鉄を打ち、帆を張り、軍用船を築いていた。
人間だけではない。
牙を抜かれた獣、翼を傷めた妖精たち。
皆、顔を伏せ、震えながらも、歌に合わせるように動いていた。
首から下げた同じメダル。
焦げた金属に、歪んだ歌詞のような紋様が刻まれている。
抵抗の痕跡はない。どころか、誇らしげですらあった。
……言葉が、出ない。
俺はふらりと立ち止まり、壁に手をついた。
その瞬間、胸の奥で音が鳴った。
鼓膜じゃない。身の中で共鳴している――
『呼ばれた』ような感覚。
次の瞬間、壁が『沈んだ』。
足元から、地面が消える。
「痛っ!」
体が宙を滑り、落ちた。
「……誰か、いるの?」
声が響いた。
辺りに張り巡らされた金属パイプが、その声を何度も反響させる。
その中から、少年が現れた。
俺の成人化前の姿――十二、三歳くらいに見える。
しかし、その目は、時間を積み重ねすぎた光を湛えていた。
くすんだ灰髪に、古びた教会の音楽隊の制服。
そして、背後に座す巨大なパイプオルガン。
「君――……音に触れて……来てしまったのか」
少年はそう言った。
どこか安心したように、どこか諦めたように。
「ここは?」
「洞窟の隠しだよ。
オルガンが許した、生まれたばかりのものしか入れない」
「へえ……ここには、何があるんだ?」
「――終わりがあるよ。
君の、僕の、そしてあのオルガンの」
意味が分からない。
「それは……どういう意味で?」
「鳴らしたら最後、水底の主が来る」
「……今も鳴っているよな?」
「本当の音はこれより美しいよ。
でも、それを鳴らせば、海の底から、あの『歌姫』に見つかってしまう。
そうしたら、彼女はこのオルガンの『心臓』を取り戻しに来る。
そして津波が起きて、洞窟は、沈む」
「なのに、なぜここにいるんだ?」
沈むという割に、待ち焦がれた表情だったから、つい尋ねた。
「ここが、僕の全部だからさ。
祖父が遺したもの。
僕を『選んだ』、僕が『選んだ』音。
いつか海底に失われるなら、せめてそれまで、共にいたいんだ」
言葉にならなかった。
浮かんだのは、誰の笑顔だったか。
ドゥールかもしれない。クヴェレかもしれない。
あるいは、今も待っているメイの、まっすぐな眼差し。
「でも、ここを足場にしている軍がいる。
君の沈黙のせいで、オルガンが悪用されてる。
この海が深森に狙われている」
「わかってる。
……でも、あの音を響かせれば、人ならぬものが押し寄せる。
それは彼女であり、そして海からの『侵攻』だ。
僕は、この子の音が持つ力を知ってる。
魅了も、破壊も、美も、全てが詰まっている」
少年の手が、鍵盤に触れる。
音色に更なる色が重なって、聴いたことがないのに、心が締め付けられるような懐かしさに襲われた。
不意に気づく。
彼はそれをずっと待ち焦がれているんだ。
だから、咄嗟に言葉を投げた。
「なら――届けよう、音を。
終わりじゃなく、始まりに」
奏者の手が止まる。
「……君は、それができると思う?」
強くうなずいた。
「試してみないと、わからない。
だけど、君がそんな風に悲しんでるのを、ただ見てるのは嫌だ」
少年は、初めて、かすかに笑った。
「じゃあ、お願いしようか。
洞窟の底に、この子の『喉栓』があるんだ。
それを抜けば、オルガンは『本当の声』を響かせられる。
でも、それを鳴らせば――海の底で待ってる彼女が、来るよ」
「彼女……」
「うん。もう、この子の匂いを嗅ぎつけてる。外にいる。
奏でたら最後、時間との勝負。
……だから、君はすぐに逃げなきゃ」
洞窟の奥、冷たい海水の匂いが立ち込める。
裂け目から潮がじわじわと吸い込まれていた。
元の場所へ戻ると、ふたりに話をした。
信じきってはくれなかったが、俺の必死さに折れて、協力してくれた。
メイがロープを結びながら言った。
「海の中は三分が限度だ。
あの裂け目の流れなら、戻り道が消えるかもしれない。
……それでも行くか?」
「行く」
怖い。でも、あの目を見捨てるほうが、もっと怖い。
海に沈むことより、後悔に沈むことのほうが、ずっと嫌だ。
「……俺の命――剣を、お前に預ける。
そのかわり、そいつは俺が預かる。
いいか、ノート。貸したんじゃない。交換したんじゃない。
預けたんだ。
ちゃんと返せ。帰ってこい」
メイは手綱を握り、預けられた風向きを宥め、視線を落とす。
ドゥールは、岩壁の高台――陸に開いた別の洞窟の口を睨んでいた。
「こっちは下の奴らを誘導してから、外で鳥か魚かわからん奴と遊んでくる。間に合えば合流、無理なら――生きて帰れ」
身体にロープを結び、ふたたび洞窟の亀裂に身を滑り込ませた。
振り返れば、少年がこちらを見ていた。
目は、深く、波のように静かだった。
「行ってくるよ」
「……うん。ありがとう」
――身体を滑り込ませた瞬間、
海が、牙を剥いた。
冷たい。
心臓がぎゅっと縮むような温度だ。
呼吸はすぐに詰まる。
ひと掻きごとに、世界が静かになっていく。
でも――聞こえる。
水底のどこかで、まだ羽化しそうな旋律が、
眠りの中で、もがいている。
それを、響き渡らせてやらなきゃならない。
海藻の影。
まるで意志を持つように絡みつく触手。
岩に潜むタコが、吸盤で腕を絡めてくる。
(邪魔だ)
振りほどき、蹴りを入れる。
吐き出した気泡が、泡のカーテンになって視界を遮る。
けれど――
遠くに見えた。
そこだけ、やけに澄んだ場所。
銀色の光が、じわりと揺らめく。
(あれが……『喉栓』)
呼吸は限界だった。
肺が、ナイフで裂かれたように痛い。
心臓が、凍てつく手で握られているようだ。
(……もう少しだけ)
銛を構え、栓に突き立てる。
硬い。
だが、動いた。
ぐ、ぐ、と音もなく、
世界の底が、少しずつ――開いていく。
引き抜いた瞬間、
海が、震えた。
洞窟全体が、まるで大きな楽器のように唸り――
そして、それは響いた。
──音が、生まれた。
パイプオルガンの『歌』が、世界に解き放たれた。
鼓膜ではない。
皮膚でも、骨でもない。
魂で、命で、聴く震えだった。
それは悲しみであり、愛であり、
喪われた何かへの祈りだった。
あらゆるものの根にある、名もない願いが――
ようやく見つけた、自分の名を、音にした。
海が、それに応えた。
潮が逆巻き、泡が舞い、
その音に呼ばれるように、水が『祝福』を始めた。
ぐん、と身体が持ち上がる。
泡とともに、海面へと弾き飛ばされた。
視界が弾けたとき、
メイの手が、俺の襟首を掴んでいた。
「撤退するぞ」
顔に海水を浴びながら、かろうじて息を吐く。
「……音、響いた?」
「ああ、天井が崩れはじめた。……急げ」
そのときだった。
海水が、風に舞った。
雫がしぶきになり、しぶきが羽になり、
羽が、風の魔術に溶けて、空へ還っていく。
それは、まるで命の産声だった。
『音』が呼んだ命が、空へ、どこまでも羽ばたいていった。
海が歌っている。
潮騒が響き返している。
俺たちは――命の歌を背に受けながら、
先に全てを済ませて待機していたドゥールの操る小舟に乗り込み、洞窟を離れた。
やがて、海の彼方から――
返歌のように、声と潮騒が洞窟を満たした。
ほどなくして、洞窟は音とともに沈んでいった。
けれど、それは終わりではなかった。
崩れた岩の奥から、潮騒の精霊が現れた。
その腕には、少年が静かに抱かれていた。
奏者は、やわらかく笑っていた。
「……届いたよ。ありがとう」
その背に、透き通る鰭が揺れていた。
少年の瞳はもう、地上を映していなかった。
深海の光を湛えた、遠く遠く、底のない蒼。
洞窟の底で、オルガンはまだ歌っていた。
誰も触れていないのに。
音だけが、響いていた。
壁も空も、すべてが共鳴していた。
声にならない問いを、視線で投げかける。
少年は、かすかに首を振った。
「――僕は、もう帰れない。
でも、それでいいんだ」
足元に、潮の揺り籠がそっと広がる。
水底の歌姫が、新しい奏者を迎えに来たのだ。
「このオルガンは、ずっとひとりだった。
だから、僕がそばにいる。
最後の鍵盤の音が消える、そのときまで」
まるで誰かに、昔から約束していたような口調だった。
もう、それは『犠牲』ではなかった。
『選んだ音』だった。
少年の身体は、音とともに海に溶けていく。
人でも、魚でもない――
旋律そのものとして、深く、静かに、沈んでいく。
最後の一音が、空気を震わせた。
そして――静寂が、世界を包んだ。
気づけば、遠巻きに三隻の帆船が立ちはだかっていた。
(……詰んだか)
メイとドゥールが即座に動く。
剣の柄、短銃、視線。
空気が張り詰め、海の底から重圧が這い上がってくる。
こちらは釣り用の小舟。
向こうは軍船仕立ての三艘。
逃げ道など、最初からなかった。
懐で、レントが蠢いた。
――風向き。
俺の頭へ駆け上がったその毛玉が、空へ顔を向ける。
「ミッ!!」
甲高い一声とともに、空気が震えた。
ざざん――と、海面が逆巻く。
風が、変わる。
突風が帆を裂き、潮が逆流し、空がうねった。
「ミッ!!」
二声目が重なる。
風が唸る。海鳥が逃げ惑う。
潮騒が斜めに裂け、敵船の進路が崩れた。
ドゥールが吠える。
「今だ、抜けるぞ!」
メイが舵を切る。
ドゥールが帆を開く。
風を喰い、海を滑る。
船と船の狭間。
砲の死角。
潮が凪ぐ、一瞬の狭間。
海が割れた。
風が吠えた。
道が、空白になった。
そこを、通った。
それは――
あの少年と、あのオルガンが
俺たちにくれた、別れの助走だった。
旋律は終わらない。
風の底で、海の空で。
またいつか、どこかで。
「……っはあ……!」
ずぶ濡れの髪をかき上げ、荒れた海を睨んだ。
肩に落ちてきた小さな獣が、「ミ……」と弱く鳴く。
その毛並みも水に濡れ、震えていた。
そっと背を撫でる。
「……よく、頑張ったな」
吹き荒れていた風が、いまは嘘のように静かだ。
波間に浮かぶ小舟を操り、俺たちはゆっくりと港町へ引き返していった。
胸の奥が、じんわりと熱い。
恐怖じゃない。
高揚でもない。
――ちゃんと、『やれた』。
あの海に、あの音に、あの選択に。
俺が飛び込んだから、今ここにいる。
俺の判断で、風が吹いた。
俺の足で、道を作った。
……ああ、たぶん――
(俺、ちゃんと前に進めてる)
港に着いた頃には、もう陽が傾きかけていた。
ドゥールが、疲れ切った顔で馬を引く。
メイは何も言わず、前を歩いている。
振り向きもしない。
けれど、その肩がほんのわずかだけ、俺の方を向いていた。
軍の詰所。
無言のまま中へ入る。
ドゥールと顔馴染みらしい所長は、彼を見るなりすぐに動いた。
「あんたが動いたってことは、相当ヤバいってことだな」
それだけで、話は通じたらしい。
翌朝には、軍が海域を包囲。
洞窟に潜んでいた深森軍は殲滅された。
だが、それはもう、俺の話ではない。
終わったのは、軍の仕事。
ここからは、王子の俺の話。
風向きが肩で小さく鳴いた。
音の消えた海に背を向けて――俺たちは帰路についた。
王城に戻り、メイと共に王へ報告した。
次なる任務は、信赦との国境域――。
中庭には、兄上がいた。
「おかえり、ノート。君の話を、聞かせてくれる?」
その声は、春の光のように柔らかかった。
まるで今日が、何事もなかった平和な朝の続きであるかのように。
俺は、言葉を選びながら語った。
あの海のこと、あの少年のこと。
海底に眠った旋律と、風が生んだ逃走劇を。
兄上は、最後まで黙って聞いてくれた。
相槌は少なく、けれど一言一言が、ちゃんと届いていた。
すべてを話し終えた時、胸の奥で何かが詰まる。
「兄上……」
名前を呼んだ瞬間、兄上は静かに手を上げて制した。
「うん、大丈夫。わかってるよ。大変だったんだよね?」
そして、優しく、言った。
「やっぱり、その子がいてよかったね」
一瞬、意味がつかめなかった。
(……その子?)
視線を落とす。
肩の上、小さな獣が、胸を張っていた。
「ミッ」と、小さく、誇らしげに鳴く。
その瞬間、ようやく胸に落ちた。
風向き――
俺が連れて行くと選んだ、小さな相棒。
俺の決断。俺の最初の『風』。
兄上は、すべてを知っていた。
黙っていたけれど、見てくれていた。
「風向きさん。君が選んだ相棒――間違いじゃなかったね」
胸の奥に、じん、と熱が広がった。
冷たい海に落としてきた不安が、ひとつ、静かに溶けていく。
俺は、深く一礼する。
言葉にはできなかった。
でも、この一礼に、すべてを込めた。
――ありがとう。俺は、俺でよかった。
兄上は、ただ一度、やわらかく頷いた。
風が吹いた。
それだけで、十分だった。
──そう思っていた、そのとき。
「仲良しになったみたいで、よかった」
と、兄上がぽんと何かを手渡してきた。
「はい、『篝火の結晶』。
洗濯してた侍女が教えてくれたんだ。
帰還のお守りだって」
「……兄上、それ、恋のおまじないじゃ?」
「え?だって『無事に帰ってきてね』って言ってたよ?」
「その前に、『出先で浮気しないで』が付いてたと思いますが」
「……そんなに浮気しそうな顔してるかな、僕?」
「ええと…………まあ……どうでしょうね。
ともかく、ありがとうございます。
持っていきますから、涙目はやめてください」
「君、兄貴分がやたら多いよね?」
「保護者枠です。兄上は、ひとりだけですよ」
兄上は、照れたように笑った。
けれど、それは春風のように、やわらかくて、嬉しそうな笑みだった。
風が、もう一度吹いた。
その背に乗って、小さな旅がまた始まる。