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夜を焚べる  作者: 小狐紺
5/9

毒の祝賀会と従属の印



 「乾杯!」

 ──歓声が響いた。

 金属同士が触れ合う澄んだ音。満ち足りた空気。

  

(物心ついてからずっと夢見ていた……やっとこの瞬間が来た)

 

 そう思いながら、俺は盃を傾けた。

 

 喉を刺す。酒の強さではない。

 反射的にごぼりとむせ、灼熱が喉を滑り落ちた。


 身体を横から押された……違う。

 俺が倒れたのだ。けれど、その瞬間をまるで覚えていない。

 

 俺は、この日のために戦ってきた。

 見たかった光景は目に焼きつけた。

 

 次は肉に辿り着くはずだった。

 ビステッカとワイン、蒸留酒は思い出を熾す為の薪。

 わざわざ主賓の特権で今夜の一品に、と指定したのに届かなかった。

 ……ビステッカ。まだそこにあるのか?

 鉄板の熱で肉汁が弾ける音が遠のいていく。

 

 手で床を掻くが届くわけもない。

 くそ……もう動けない。

 朝から粗末なパンも食ってなかったんだ。

 

 ――――――愛しのビステッカ。

 俺は、おまえを食うために生き延びたかった……。



 さっきまで、部屋の一角では篝海の恵みをふんだんに使った料理が立食式で振る舞われていた。


 腹が減った。

 心底うらやましかった。

 ……でも、この光景が、たまらなく愛おしかった。

  

 塊肉のビステッカ。

 招待客のひとりが美しい所作で正確に肉を切り分けていた。

 

「頭りょ……ええと、団長!この肉、食ったか?信じられねぇほど柔らかい!」

 

 満月湾の魚介スープ。

 ドゥールが目を見張りながら、スープを慎重に啜る動作は妙に警戒心に満ちていた。

「ああ……こっちの魚介スープも……すごいぞ。口の中で溶ける」

 

 他にも十数種の料理が並ぶが、どれも虜になるほどの傑作ばかり。

 まるで生きているかのようにフォークと皿を操るふたりに、一部の客は目が釘付けになっていたのも見ていて和んだ。

「……揚芋から草のいい匂いがする……」

「この葉っぱ、街で食ったのより旨いのはなんでだ?」


 音楽隊が軽快な旋律を奏でていたのは、城内で最も豪奢な大広間。

 

 煌びやかな窓辺からは、満月湾が一望できた。

 今日も海は澄んだ碧をたたえ、まるで祝福するかのように穏やかに波を揺らしている。

 

 クヴェレが和やかに中央バルコニーに一行を呼んだ。

「おい、お前ら。料理持ってこっち来い。眺めが最高だぞ」

「……うす」

 お前ら……浮いてるもんな。

 上顧客の場を崩さないように、苦慮する金庫番の本音が見える気がする。

  

 

 今宵は西の戦線の勝利の祝宴。

 招待客たちは思い思いに盃を傾け、歓談の輪を広げている。

 無邪気に笑いさざめくバルコニーを、軍人貴族の一派が彼らを眺めていた。


「第二王子の配下は……賑やかだな。

 まるで戦場が城に紛れ込んだようだ」

「東の砂海で鍛えられたとか。

 あの戦線は終わったが、まだまだ火種は尽きないようだ。

 道理で、スープ一杯で戦えるわけだ」

「だが、戦の功績とナイフ捌きは見事なものだ。

 王子殿下に敬意を——いや、料理長に感謝を捧げねばな」


 微笑む貴族たちの視線が、冷えたワインのように突き刺さる。


「カティサーラ妃よ、苦労をかけたな」

「王よ、もういいのです。幼かったオーバーノートが頑張ってくれましたから。……さあ、今宵を祝いましょう」


 父は労わるように俺を見た。

 母は儚げに微笑み、盃を満たす。

 

 指が盃の縁で、一瞬だけ止まる。

 それは、指先を慎重に整える仕草にも見えた。

 しかし、その指がやけに白く見えた。

 ——あれは、なんだ?

 いや、そんなはずはない。

 俺は……今夜を、信じる。

  

 長い間、求めてきた光景だった。

 俺がどんな手を使ってでも、誰に何をしてでも、欲しかったもの。

 これで、父と母は家族に戻る。


「うむ、今夜の功労者だ。第二王子よ、我が杯をお前に授けよう」

「はっ」

 盃を受けた。

 

 母が微笑む。不思議なほど指先が白い。

 俺は、それを確かめる前に酒をあおった。

 

 喉が焼けた。違和感が、遅れて刺さった。 

 こんなはずじゃなかった。


 愛しのビステッカは幻だった。

 あるいは焼け跡の灰だった。

 

 

 

  

 目が覚めた瞬間、内臓を全部吐き出したくなるほどの痛みだった。

 鈍い光が差し込む天蓋。見知らぬ天井。

 ……見慣れたテントでも安宿でもない。

 無駄に豪華で瀟洒なここは……?

 

 息をするたび、喉が焼けるように痛む。

 補助してもらい、水を含んでゆっくり染み渡らせる。

 

 ……ああ、そうだ。

 

 岸壁城。篝海の王城。

 内海と外海を隔てそびえる城塞、その、充てがわれた居室。

 

 そうして何度か目を覚ましては、悶絶して眠るを繰り返すうち、やっとまともに起きれるようになった。

 



【篝海王国監査院 王城内事態総括報告書(要約版)】

提出先:国王陛下、枢密院

提出者:監査院上級補佐官 ラニウス・トリーロン


1.発生原因

第二王妃カティーサーラ・ノーラ・サーラーンによる国王杯への麻痺毒混入、および第二王子オーバーノート・ヴァナスリアの急性中毒発症。

直後、砂海帝国暗殺部隊が祝勝宴を襲撃するも、近衛騎士・城騎士・傭兵団『渡り狼』(第二王子指揮下)の対応により撃退。


2.処理事項

・第二王妃を現行犯逮捕、北の塔・碇の間へ留置。

・王命により、処刑処分を決定。

・王城内警備体制の抜本的見直し。

・避難誘導路の閉鎖、祝勝宴時の避難設計基準の厳格化。

・暗殺未遂及び反撃記録の保存、機密文書庫への格納。


3.王命追加命令

・第二王子指揮下で敵軍拠点へ即時侵攻、壊滅。

・周辺戦線の制圧完了。


4.留意事項

・本件に関する情報漏洩の厳禁。

・王族内部不和の秘匿。

・詳細は別紙に記載。


以上。

 

  

 幾度目かの起き抜けに、メイから事件報告書を突きつけられた。

 読んで、俺は頭を抱えた。


「また砂海帝国かよ……。しかも、なんでこうなるんだよ」


 篝海王国の国境は、火種と小競り合いの吹き溜まりだ。

 東には砂海帝国、西には深森皇国。

 ふたつの巨人に挟まれたこの国は、まるで剣の刃を裸足で渡るようなもの。


 そして俺たち六花地方は――燃え尽きる火薬庫だった。


 王族教育?

 そんな暇、どこにある。


 教本を読むより早く、剣を振った。

 礼節を学ぶより早く、怨嗟にまみれた。


 体裁も面子も、腹の足しにはならない。


 けれど、いま本当に痛むのは……胃だった。


「……ビステッカ、食えると思ってたのにな……」


 最悪だ。

 戦場よりも、食事のせいで胃が壊れるらしい。


 回復したら、分厚い肉を、腹が裂けるほど食ってやる。

 ああ、絶対に、食ってやる。


 戦争よりも、飢えよりも、今だけは――

 俺はビステッカに、命を賭けていた。

 

 

 

 毒を盛ったのは、俺の母——第二王妃カティーサーラ。

 その混乱の最中、母の祖国・砂海帝国の暗殺部隊が突如武装して乱入してきた。

 

 侵入経路は大広間に設けられていた避難通路。

 もともとは数年前、津波を想定して緊急受入の為に作られたものだったが、それを今回敵に利用された。

 それでも襲撃は失敗に終わった。

 

 近衛騎士と城騎士、そして功労者として招待されていた傭兵団が、侵入者を全滅させたからだ。


 ……ちょっとまて。

 近衛騎士と城騎士は任務中だったとわかる。

 

 だが『渡り狼』は外部関係者だ。

 王城に入る際、武器を預け、丸腰での出席だった。

 なのに、どうしてあいつらが活躍してるんだ?

 

 ……分かってるよ、ナイフもフォークもお前らにかかれば立派な凶器。

 スープの温度差で気絶させたとか、肉の脂で滑らせたとか、どうせそんなオチだろ?

 ……いや、魚の骨を武器にする連中だ。スープ皿が死因になっても驚かない。

 ナプキンの折り方一つで相手を窒息させるし、デザート皿の破片で急所を突く。

 あいつらにとって食卓は武器庫だ。

 

 否定しても、無駄だ。そういう現場を何度も見てきたからな。

 

 目をつぶり、ひとつ深呼吸する。

 

 覚悟をきめて、報告書別紙の敵兵の死因を確認する。

 

 『「フォークが突き立ったまま絶命」「ナプキンで息を詰まらせ、爪が剥がれるほどもがいた跡」「肉の脂に足を取られ、頭を打ち砕かれた」「デザート皿による致命傷を確認。被害甚大」』

 

 やっぱりか。

 

 これで会場の損害がもうすこし少なければ、よくやったと言えたんだが。

 伝説級の装飾品まで粉々になった記述に、また俺の胃が軋んだ。

 スープでどうやったら粉々になるんだ?

 なんで吹き抜けの天井画に損害が出てるんだ?

 ……一帯を酸化させたか?金属でも気化させたか?

 

 補償額の試算を想像しただけで、視界が暗くなる。

 いや、もう考えるのはやめよう。

 

 俺の胃がなくなる。

 頼むからせめて、治せる程度にしてくれ。

 

 

「申し訳ありません。……俺も一緒になって暴れてしまいました」

 メイが殊勝な様子で読み終えた報告書を差し出す。

 その手元に、わずかに力が入っている。

 

「猫かぶるなよ。怖いから」

「いえ、ここは王城です。……ちゃんとしときましょう」

 

 メイは軽く肩をすくめたが、目は笑っていなかった。

「誰もいねぇよ。殿下呼び、サボれ」

「……さて、どうでしょうね」

 それきり互いに笑ったりはしなかったが、妙な安堵だけが残った。


 ちらりとメイの軍服を見やる。

 近衛騎士の通常装束、肩の辺りが微妙に乱れている。

 また女に間違えられたのか。

 

「まあいい……。どうせ帝国の奴らにも女だと思われたんだろ?

 さっき……廊下が随分と賑やかだったな。

 今度は何に間違えられた?侍女か……調理場の娘?」


 メイは無言で自分の前髪をかき上げた。軽くため息をつく。

 見慣れた俺にも色っぽくみえるが、本人は無意識だろう。


「まさか、娼婦扱い……。軍服が男装だと?」

「……俺の威厳その辺に落ちてませんかね?」

「ないものは拾えねえな」

「……殴るぞ」

 即答すると、メイが目を細めたが、気にせず続ける。

 

「軍服で性別を間違える?バカじゃねえのか」

「同じこと言ってやりましたよ。すぐ血の気が引いてましたね」

 

 一瞬考え、指を鳴らした。

「……ああ!またあの中立派某伯爵家の三男坊あたりか?」

 

「ご慧眼。ええ、殿下の入城にゴネた愚かものです。

 俺も十数年ぶりの登城ですからね。

 知らない奴が結構増えました」

 メイは皮肉げに笑う。その奥には微かに疲れが滲んでいた。

 

「さっきは古馴染みが回収したので、廊下を破壊しないですみました。次会ったら、積極的に挨拶しようかと」

 拳を軽く握る仕草を見せる。

 冗談めかしているが、こいつやる気だ。

 

「殿下もどうです?傭兵式で教育を」

「やめてくれ、金がいくらあっても足りない」

 頭と胃に手をやる。本当にあちこち痛い。

 

「……それよりあいつら、なんで手を出した?

 いつもなら、外部の事情には絶対首を突っ込まないだろ」

 

「そりゃ、あいつらが跳弾(ちょう)よと発破(はな)よと育てた殿下を襲撃したからでしょう?

 仲間を殺されかけたんですからね。

 目の前で起きたことに、あの人たちが我慢できると思います?」

 

「……今の俺は傭兵団の依頼者で、外部の人間だぞ?」

「損得抜きで十年も団に貢献して、寝食を共にしてたんですよ?

 頭ではわかっていたって、心はそうすぐにはいきませんよ。

 それに……殿下、正直王族より傭兵のほうが向いてるでしょ」

 

 メイの声は穏やかだったが、揺るぎがなかった。

 

 メイはスッと目を細めた。

 なまじ顔がいいから目つきが鋭くなると、視線が痛い。

 

「……もっとも、殿下が本格的に王族業に転職するなら、それも過去形になるかもしれませんけどね」

 そうかもしれない。

 

 王族として生きるより、傭兵団の一員として戦場や草原を駆けていた方が、ずっと居心地は良かった。

 だが――それでも、俺は王族をやめることはできない。


 こんな結末だと知っていても、俺は盃を受け取ったと思う。

 それほどまでに、家族という夢は俺を餓えさせた。 

 

「ああ。……でもだからこそ、何故母上があのようなことをされたのか分からない」

「殿下、生後半年で放り出されたんですよ?

 あの方の考えなんて予測できるわけないじゃないですか」

 

 俺と一緒に放り出されたメイの言葉が正しいのは、頭では理解している。

 

 だが。

 まだ、脳裏をよぎる。

 

 砂海風の薄い紗のテントで甘い甘い菓子を食べさせてくれた儚いお姫様。 

 たった一度の面会。

 たった一輪の花。

 たった一つのその言葉。

 それだけで、俺は母の期待を背負っていると思っていた。


 俺は捨てられたのか?

 いや、それは違う。……違うはずだ。

 あの日、母上は確かに俺に花をくれた。期待してくれていたはずだ。

 それとも、ただの気まぐれだったのか?

 ……もしそうなら、俺は何のために戦ってきた? 


 駄目で元々、と第二王妃への面会の嘆願を王に出した。

 すると、王は俺を見下ろし、少し考えた後、にべもなく頷いた。


 

 

 母は現行犯としてその場で王に処分を言い渡され、今は刑を待つ身だ。


 最後の時を過ごすのは、内海側の北にそびえる古塔。

 その屋上にある貴賓室は、時と碇の魔術によって守られている。

 そこは、逃げることも死ぬことも許されぬ牢獄だった。

 罪人にとって、これ以上ないほど安全だ。


 魔術の境目となる扉は特別製で、深海のように静かで冷たく部屋の内外を仕切る。

 その隔たりは遠く、中を伺うことはできない。

 

 音の魔術で声だけをやりとりする。

 

 扉越しに、俺は言葉を投げた。

「なぜ、あんなことをなさったのですか」

 心のどこかで、誰かの計略に引っかかっただけなのだと思いたかったのかもしれない。

 

「それはもちろん、貴方に王位を渡す為ですよ」

 母はあくまでたおやかに穏やかな返答を返す。

 

「……私がそれを望みましたか?」

「望まない?では、死を望むのですか?」


 歌うような調子で彼女は言葉を繰る。

「それなら、そこらの刃物でも使えばいいでしょう。

 ですが、砂海の血を引く以上、王位を目指さなければ、死よりも悍ましいことになりますよ」

 

「……私にはわかりません」

 望みと死はまったく別物だろう。

 

「それはまだ貴方が幼いからです、オーバーノート」

 母は微笑むように言った。

 どこか哀れむような声音だった。

 

「大人になればそれしか生きる道はないのだと分かるはずです」

「……はあ」

 ため息が出た。成人の俺より、分別がないのはどちらだ。

 

「そんなことよりも、また戦線で見事な功績を上げてくださいな。

 かわいいノート、母の冤罪を証明してちょうだい」


 じゃらり、と碇の軋む音がした。

  

「冤罪……ですか?」

「そう冤罪です。どうせ、あのお高くとまった第一王子の仕業でしょう?」


 母は、あくまで穏やかに、声に微笑みすら浮かべて言った。

「それを証明してくれれば、母が貴方を王にして差し上げますわ」

 

「何を仰るんですか。

 あの宴は、第二王子である私と軍関係者だけのものでした。

 彼には招待状すら出していません」

 

「そんなもの、子飼いを使えば幾らでもどうにでもなるものでしょう?」

「……それこそ濡れ衣では」

「母の言葉が信じられないのかしら?」

 

 幼子をあやすような声色に、更に気持ちが萎んだ。

 彼女にとって、俺の疑問など、戯言に過ぎないのか。

 

「話を変えましょう……あの避難路の鍵はどうしたのですか?

 誰からもらいましたか?」

「鍵?ああ、あれですか。もちろん、私に貢がれたものでしてよ。誰からかはもう、忘れてしまいましたけど」

 

「……俺は貴方が注いだ杯で、倒れたのですよ」

「まぁ」

「そのまま侵入者に殺されていてもおかしくなかった」

 

「まあ、かわいそうに。……でも、ねえ、誰が悪いのかしら?」

 まるで仔猫をあやすような声だった。


「どうして毒の耐性をつけなかったのですか?」 

「……え?」

 一瞬頭が理解を拒絶する。

 

「耐毒の訓練は初歩の初歩でしょう。

 そんなに難しい毒ではなかったわ」

 静かな声で、彼女は言い切った。

 

 耐性もないのに、毒を飲む方が悪い?

 これまで数えるほどしかなかった接触で、耐毒の訓練の話は一切なかった。

 ……というか、それはもう罪の告白ではないか。

 

「貴方が母を乞うてくだされば、私は貴方を導いて差し上げましょう」

 踊るような声と言葉越しに、とろりとした魔術を感じる。


「お望みなら、毒だって、暗殺術だって——」

 ぞっとするほど甘やかな声。

 耳に触れるだけで染み込んできそうな感覚に、鳥肌がたった。


「なんでも、母が教えてあげますわ」

 妙に艶めいた声に、俺は少し悲しくなった。


 ――似たような流れは、砂海の戦場で経験済みだった。

 色仕掛けにはうんざりだ。

 ……母は、何を期待しているのか?

 

 ああ、その先は――。

 

「……そのかわり砂海への土産となれ、とおっしゃるのですね」

 途端に王妃は無言になった。

 否定はしないらしい。

 

 王族から末端に至るまで、すべからく砂海帝国にいちばん成果を献上するものが正しく強い。

 すべての砂海の民にそういう価値観が刷り込まれているのは、かの国とのいざこざの中で散々見てきた。

 あちらではごく常識的な考え方だ。

 

 つまるところ、彼女は根っからの砂海の民だったのか。

 

 王命とはいえ、静養先で生まれて間もない俺を、護衛ひとりで内戦地へ差し向けた。

 あの頃のまま、彼女は何も変わっていなかった。

 ……いっそ変わってなくてよかった。

 期待することすら、もう疲れた。

 

「鍵を渡した相手を明かす気はないのですね」

 扉の向こうは静かだ。

 ならば、もう何も言うことはない。


「御手を煩わせる必要はないでしょう。

 ご機嫌よう、カティサーラ様。

 お目にかかれて幸いでした」

 

 もう二度と会うことはない。

 精一杯の言葉を手向け、その場を去った。



 

 塔を出ると、凍った海風の刃が頬を撫でる。

 彫像たちの沈黙は、行く手を閉ざすようだった。

 

 がらんとした回廊に、父の声が響いた。

 

 『片はついたか』

 

 関心の欠片もない声音。

 その響きは、俺は王族ではないのだと語るようだ。

 

 彼には溺愛する第一王子がいる。

 ルバート第一王子。

 亡き正妃の忘れ形見の彼が次の王だ。

 

「はい」

「戻してやったばかりで、毒とはな」

 

「……彼女のしでかしに寛大な処置をいただき、

 感謝しております」

 

 王は少し目を細めた。

 

「何も知らずに毒を飲んだのだったな?

 関係があれば除外は難しいが、

 無知な被害者を罪に問うのは難しい」

 

 本来、反逆罪に問われれば、直系は連座処刑の対象。

 今回は王の代わりに倒れたこともあり、除外されていた。

 

 王の瞳が温度なく笑う。

 本当に案じているのか。

 それとも役立つ間は生かしておく、という判断の結果なのか。


 おそらく、俺を見ているようで、実際には違う。

 彼が捉えているのは、傭兵団——これから使えそうな駒たちだ。

 そう考えると、すべてが妙に辻褄が合う。

 

 あの女の沙汰に不服はない。

 だが、本当に彼女ひとりでやったのだろうか?


 俺の中で、ひとつの違和感が膨れ上がる。

 敵が入り込んだのは、外海の津波避難路。

 そこを使えた者が、どれだけいた?

 

 第二王妃は十年以上登城を禁じられていた。

 なのに、どうして数年前に設けられた避難路を知り、その鍵を持っていた?

 

 報告書は、その謎に一切触れていなかった。

 

 ——このままでは、俺は殺される。

 おそらく。それも、遠くない未来で。


 俺だけならいい。

 だが……メイやドゥール達『渡り狼』がいる。

 彼らに影響が及ぶ、それだけは何があっても避けたい。


 ……大層な名を捨て、すべての権利を放棄して、城付きの衛兵にでもなれば、落ち着くだろうか。

 そうなればこの身を縛るは——決してほどけない鎖。

 こんな方法しか思いつかない自分が、ひどく嫌だ。

  

 息が詰まる。

 青く遠い草原の風が、堪らなく恋しい。

 あの風はもう、俺の手の届かない場所にある。


「しかし母の罪深さに、息子の私がなんの処罰も受けないというのは、身贔屓に見えるのでは」

 

 だから王族を捨て――と続けるはずだった。

 

「ふむ……ならば、いい案がある」

 

 王の言葉が落ちる。

 静かすぎる。

 

 ぞわりと背筋が凍った。

 

「……いい案、ですか」

 

「つけてみるか。それなら余計な心配をする必要もない」

 

 王は俺の言葉を無視して、無遠慮にこちらを眺める。

 

「……つけてみる、とは?」 

 腐った足場を踏み抜いたようだ。

 余計なことを言ってしまった。

 

「従属の印。

 通常であれば人外につけるものだが、人への転用が可能になった。

 もちろん、お前たちのような優秀な者に、無駄な負担をかけるつもりはないが」

 

 思わず息を止めた。

 

 従属の印――人ならぬものたちを使役する為の縛り。

 

 逆らう意志を抱くだけで魂を炎の鎖で締めあげる、意志を鎖で絞め殺す魔術。

 対象は人が制御出来る程度の、使い勝手のいい人ならぬものたち。

 

「……あれは、人ならぬものを使役するための呪い。

 魂を削られ、消滅寸前ですら命令に抗えないと聞いています。

 およそ、人が耐えられるものではなかったはずでは?」

 

「縛りは多少緩くなるが、実験は終わっている。

 人間にも使える。

 傭兵どもが裏切らないよう支給する予定であったが——」


 王は言葉を区切り、俺を見た。

 目が、俺を試すように細められる。

 

 ——血の気が引いた。

 だが、それを悟られないように、奥歯を噛みしめる。

 

 絶対に駄目だ。

 自由を愛するあいつらに、縄をつけることだけは、断じて許せるものではない。

 

「……ひとつで、足ります」

 かすれる声を押しつぶし、言葉を絞り出した。

 

 王は静かに頷く。

 それは、初めから決まっていたことを確認するような、迷いのない頷きだった。

 

 俺は王に従い、身体を前に出した。

 ただの駒に成り下がる為に。

 

 

 連れてこられたのは、もうひとつの城の端。

 外海の風が吹き抜ける孤立した尖塔の一室。

 

 他所より魔術濃度が高い。

 嘆きと苦しみ、そしてそれを鎮める供物の香り。

 ここは、牙を抜いた獣を飼い慣らす檻か。

 

 そこには拘束の陣と、誓約のための一式がのった机があるだけだった。

 

 扉をくぐる—— 


 ……? 

 ……いつの間に、座った……?


 記憶が、ない。

 目の前で起きたことが、頭に入っても、すぐどこかへ、ごくりと飲まれてしまう。

 

(——誰かの声?)

 

 あっ、思考が焼――

 

 ――痛――、――つい、苦――。


 ……

 

(……何か、忘れた?)

 

 思い出せない。

 思い出そうとすると、何かが牙を剥く。

 

 何かが、『噛みちぎられる』ような感覚がする。

 

 頭の奥で、消失する。


  

「もういいだろう」

「――っ……?」 

 意識が戻ったのか。

 

 気づけば、左手首に刻まれた黒い模様を押さえていた。

 絶叫でもしていたのか、咽喉がからからだ。

 

「さて、優秀なお前をずっと城に留めておく訳にはいかなくてな」

「はい……」

 頭の中に薄い膜がかかったように、すべてが遠い。

 喉が焼けつくように痛むのに、声だけは搾り出せた。

 

「深森側の海が煩わしい。様子を見てきてくれないか」

「……先日の毒の一件で砂海との停戦条約が無効になりましたが?」

「ああ、あちらは別のものが対処している」

 

 ただ、決定事項を伝えられているだけ。

 考える力も、疑う気力もない。

 俺は、頷く以外できなかった。

「謹んで拝命いたします」

 

 王は静かに言った。

 

「励めよ。せっかく手間をかけたのだからな」


「ありがとう、ございます……?」 

 何かが引っかかった。

 

 ——ありがとう? 

 喉の奥が焼けるほど乾いているのに、口から出たのは礼だった。


(……今、考えたか?)


 違和感が、じわじわと皮膚の下を這う。  

 

(俺が、そう言おうと決めたか?) 

 

 ——いや、違う。

 これは、違和感ではなく。

 

 ……何を、された?

 

 拘束具が外れた左手に力を込める。指がわずかに震える。

 力は……入る。動く。

 ——だが、俺のものか?

 

 指先に、他人の命が流れているような——。

 その鼓動は、俺のものではない。

 

 考えた瞬間、脳が焼ける。

 

 奥から何かが這い出し、爪を立てるように。

 ——考えるなと、命じられたかのように。


 

「それから、ルバートに気をつけろ」

「……何ですか?」

「気取られるな。あの子は、私にも計り知れないところがある」

 

 『私にも』

 

 まるで、自分が王であることすら、彼の前では意味をなさないかのような——?

 

「では、頼んだぞ」

「は」

 最敬礼して立ち去る王を見送る。

 

 ルバート王子。俺の兄。

 王が俺に会わせることを絶対に許可しない、ただひとりの兄。

 それでいて、今の警告。

 

 王が、恐れる。

 王ですら、遠ざける。

 それは、力か。知恵か。

 

 ……あるいは、王ですら知らない『何か』があるのか。 

 考えようとするが、頭の奥が霞んでいる。

 

 痛みはない。

 だが、意識の奥に靄がかかっているような感覚が続いていた。

 

 ……駄目だ。

 少しは晴れてきた気がするが、まだぼうっとしている。 


 手元に時計はないが、陽はさっきと、ほとんど動いていない。

 数刻しか経っていない……はずだ。

 

 なのに、俺は何日も夢の中を彷徨っていた気がする。

 

 手に痺れのようなものを感じる。

 今のところそれ以外の違和感はない。

 

『ありがとう、ございます……?』

 あの時の言葉が、どうしても頭から離れない。

 今も、皮膚の奥で何かが疼いている。

 

 左手首の印。——これが、礼を言わせたのか? 


 この岸壁城のあちこちで見かける、使役されている人外が持つものとよく似ている。

 やはり、これが従属の印か。

 

 (――?)

 疑念が浮かぶ前に、思考が霧散した。

 

 とりあえず、目立たないように手袋をしよう。


 

 

 与えられた部屋に戻ると、メイが待機していた。

「殿下、次の遠征地が決まったと伺い、ました、が……」

「ああ深森だ……ん?」

 

 メイの視線が、俺の袖に吸い寄せられる。

 手首の模様。

 無言のまま、メイの眉がわずかに寄った。

 

(気づくな)

 

 メイは俺が見てきた誰よりも強い。

 

 戦場では、四方を囲まれても、敵の群れごと地面に叩き伏せる。

 一度、竜馬ごと兵を投げ飛ばしていたのを見た。

 

 美女顔と筋肉の質がいいせいで嫋やかにみえるだけで、馬鹿力で短気で男らしい。

 

 こいつにあの経緯を知られれば、王城の門をぶち破って、王の首を締め上げるだろう。

 

 

 だが、こんな国でも、今はまだ潰れては困る。

 今はまだ潰すわけにはいかない。俺が王族を捨てるまで。

 

 それまで、傭兵団が『馬追う氏族』になる道も、そこに俺も合流する道も、閉ざされる。


 必死に手袋を探す。

 だが、短い。全部短い。

 どれを試しても、手首の印が露出する。

(まずい、まずい)

 

 メイの視線が鋭く俺の手元を捕らえた。

 無意識に手を引っ込め、手袋を落としてしまった。

 それをうっかり左手でひろい、印が露わになる。

 

 途端に空気が凍りついた。

 魔術圧が戦場より、ずっと鋭く重い。

 心臓を掴まれたように、息が詰まる。

 

「――なんだ、それは」


 ……もう、いいか。

 手近にあった白手袋を引っ張り出し、乱暴に手を突っ込む。

 余計に目立つが、印は隠れる。

 

 

「これか。従属の印だ」

「……殿下、何を考えておられるのですか」

「王の安心を買った。安いもんだろ」

 

「ふざけんな。冗談はその悪役ヅラだけにしやがれ。

 こっちはたまったもんじゃねぇんだよ。

 ドゥールに、どう説明しろってんだ?」

 

「顔は生まれつきだ。悪いな、諦めろ」

 

 このやりとりができるなら、まだ大丈夫だと思えた。

 あの時の会話の流れでは、躱しようがなかった。

 もし同じ状況になったらやはり同様の選択をするだろう。

 それを望んだわけではなかったとしても。

 だから、怒ってくれるのはうれしいが、そうしてはいけないと言われても困ってしまうしかなかった。

 それにメイも気づいたのだろう。

 

「まったく……計画にないことをやってくれる。

 ……こっちはこっちでやらせてもらいますよ。

 当分は団長にも言いません。自分で報告してください」


 メイの声音はいつも通り抑制が効いていた。

 だが、背筋に流れる剣のような律が、怒りとも呆れともつかぬ感情を滲ませる。

 こういうときの彼は口数を減らす。

 乱れず、けれど許さず。

 近衛としての矜持が、彼の怒りの表現だった。 

 

「助かる」

「それで、深森の前に掃除するのは煙鋼でいいですか?」

「煉峰も掃除が必要だな。どうせ、また虫みたいに湧いてるだろう……面倒くさい」

 

 白手袋を嵌めた手を見下ろし、指をひとつ鳴らす。

「いっそ六花がひとつになってくれりゃ、俺の仕事も減るんだけどな」


 冗談のように言ったが、そこに滲んだ諦念は冗談だけでは済まない色を帯びていた。

 あまりにも現実的で、あまりにも叶いそうにない。 

 

「……ここは王城です」

「おっと悪い。……メイ、お前はどうする?せっかく王都に戻れたんだ。このままここで勤務しても――」

 

「馬鹿言わないでください。戦場で殿下のおしめを替えたのは誰だと思っているんです?」


 口ぶりはあくまで軽いが、そこには“当然だ”という決意が滲んでいる。

 不器用な男の忠義は、恩や情では測れない。

  

「刃を交えているお前の背中の泣き声と悪臭に耐えられなかった敵だな。あとドゥール」

「俺が殺さずにやらせてやったんだから、俺の功績ですよ」

 いつものやりとりして、ため息を吐く。

 

「ドゥール達来てくれるだろうか……」

「さあね。殿下が直接訊いてみればいいんじゃないですか」

「客棟へ行ってくる。

 お前の交渉力に期待してる。

 あいつらが満足する額を確保してくれよ」

「承知しました。

 外部雇用の予算、概算で上積みしておきますので。

 ……フラれないように、せいぜい気をつけてください」

「そんな恐ろしいことを言うなよ!」


 


 中庭横の渡り廊下に、陽光を背にした琥珀のような少年がいた。

  

 金蜜色の髪が陽光をまとい、揺れる。

 透明な水色の目が、じっとこちらを見つめていた。

 

 異母兄、ルバート王子だ。

 

 俺の目の前にいるのは、十代に見えるが、四十を越えた少年。

 だが、俺たちを分けるのは年齢ではない。魔術膜だ。

 

 魔術膜。成長も老いも決める、人の時間を握る臓器——俺と兄を決定的に分けたもの。


 

 あの日、望まぬ魔術の奔流に呑まれた。

 許容量を超えた魔術が、俺の時間を無理やり蹴飛ばしていった。

 

 ——体格は俺の方が年上に見える。

 だが兄の肌は、時の流れを知らない。

 

 髪の艶も瞳の澄んだ色も、幼い姿も、長い歳月を生きたものには見えない。

 魔術膜の状態が違うのだ。

 

 それは、誰にも脅かされずに生きてきた証。

 

 きっと数年後の成人の儀で、その成長した良質な魔術膜を稼働させ、二、三百年先まで生きるのだろう。


 俺とは違い、護られたまま。


 

「やあ。君が、僕の弟?」


「……オーバーノートと申します、第一王子殿下」


 この偶然を王に知られたら、従属の印の縛りが増えるに違いない。

 だが、この状況で返答しないのも不自然だ。


「そんなにかしこまらなくていいよ」

「……?」

「僕たちは兄弟だろう?

 ……もちろん、君が困らない範囲でだけどね」

 

 胸の奥がわずかに軋む。

 こんなもの、知らない。知らなくても生きてこられた。

 なのに、今になって、何かがこじ開けられるように息苦しい。

 

「……ルバート兄上、ですか?」

 

「君がそう呼んでくれるなら、それが嬉しいよ」

 

 穏やかで優しい声でそう言った兄は、ほんの少しだけ、どこか遠いものを見るように瞬きをした。

 その横顔には、理由のわからない寂しさが、影のように宿っていた。 

 

 戸惑いながら、俺はほんのわずかに視線を上げた。

 どうしたらいいかわからない。

 

「……身に余ることです」


「君は家族だ。ここに住むんだろう?

 これから顔を合わせることも増えるだろうし、よろしく頼むよ」

 

「ありがとうございます。ただ、すでに遠征指示が出ていますので……」

 

「そうか……じゃあ、これを持っていくといい」

 ルバート王子は、少し寂しげに眉を下げると、上着の左袖から飾りボタンを引き千切り、俺に差し出した。

 

 呪い避けの魔術道具——しかも随分と希少なものだ。


「それは……王子の御身を守るものでは?」

「うん。でも、君にも必要だろう?

 ……僕が君に、何かを残したかったんだ」


 無邪気な笑顔とともに、俺の掌に押しつけられそうになる。

 ——駄目だ。こんなものを受け取れば、あとで王に何を言われるかわからない。

 

 俺は、慌てて手を引いた。

 

「それは殿下を守る為の魔術道具です。

 受け取る訳にはいきません」

 

「うん。僕が身につけている全ては、僕を守ろうとしてくれる誰かの心でできている。

 とてもありがたいことだ。

 だからこそ、僕も同じように、僕の『弟』を守りたいんだ」


 その言葉に、胸の奥がわずかに軋んだ。

 兄弟とは、そういうものなのだろうか。

 

 だが、同時に思う。

 こんな年上の弟がいるか。

 

「……ありがたく思います。ただ、ひとつ想像してください。

 もし偶然殿下の身に小さな不運が起きたとしたら。

 ——殿下の周りの方々は、俺をどう見るでしょうか」


 兄は少し目を伏せ、ゆっくりと頷いた。

 静かな声には、わずかに寂しさが滲んでいた。

 

「……君を疑うだろうね」

 

 何かを考えた後、ふっと笑みを浮かべる。

「そうか、じゃあ、これはどうだろう?

 これくらいなら父上も目をつぶるだろう」

 

 彼は袖口のボタンをしまい、代わりに何かを取り出して、俺の掌にそっと握らせた。

 

「ミ?」

 

 ——手の中から、小さな声がした。

 

 え?と思う間もなく、黒い宝石のような瞳が、こちらを不安げに見返していた。

 

「………………これは?」 

 小さな耳。長い尻尾。小さな羽根。

 触り心地の良い黒く丸い身体は、ほんのりとあたたかい。

 小さな手に齧りかけの結晶。

 

 触れると、ちょんとした温もりが指に伝わった。

 だが——おかしい。

 こんなにも魔術の濃いものが、城の中に潜んでいたか?


「……あそこを見てみて。噴水の水滴が光るだろう?」

「……?」

 

 首を傾げた俺に兄が指さしたのは、噴水の飛沫が舞う場所。

 陽光を受けた水滴が、一瞬きらめく。

 

「さっきまで、あれ精霊だったんだよ。

 でも、陽が傾くと消えてしまった。

 その彼らの結晶を、この子が齧っていたんだ」


「……こいつ、生きてる……?

 なんで、こんな?……不思議な魔術……」


「ううん、多分『風向き』の一種だと思う。

 運ぶものによって種類が違うんだよね?

 昨日図鑑で見たんだ。それによく似てる」


 風向きは、俺の手の中で小さく身じろぎした。

 そして、そのまま無防備に丸まり、眠り込んでしまう。


「小さくて、あたたかいですね」

 

「風向きは珍しいんだ。

 人が気づかないとすぐ消えちゃうから、なかなか目に入らないんだよ。

 でも、僕の周りはすでにいっぱいでね。

 この子を連れて帰ったら、きっと怒られちゃう。

 

 だから、君が大事に育ててくれる?」


「しかし……」

 

 小さな命を託すということが、どれほどの責任を伴うか。

 自分の状況を考える。

 

 風向きに何かあったら、取り返しのつかないことになる。

 荒事の最中に体調が悪くなっても、俺はこの小さな命を守れない。

 

 それを悔やむ間もなく、ふと、傭兵団に渡せばどうにかなるかもしれないと思った。

 

 おそらく、兄上の側では誰にも託せないということなのだろう。

 俺が誰かに渡す間くらいならなんとかなるだろう。

 

 傭兵団には馬医のエキュスがいる。

 あいつならなんとかしてくれるはずだ。

 

「ここで目を離したら消えてしまうだろうし……。

 この子は目立たない。

 だから、君が持っていても、きっと問題にはならないよ」

 

「……分かりました。受け取ります」

 

 自分の心の中で決意が固まる。

 俺に、その資格はない。

 だけど、誰かに運ぶまで、ならどうにかなるだろう。

 

「帰ってきたら、また会おう。

 今度は君たちに合いそうな情報とお守りを探しておくよ。

 安全な範囲で、だけどね」


 その声は温かかったが、どこか、もう手の届かない場所にいる者のようだった。

 

 だから、兄の顔を見て、とっさに口から出てしまった。

「……では、交換しましょう」

「え?」


 どうしてこんな言葉を言ったのか、自分でもわからない。

 だが、悪い気分ではない。

 

「貴方の弟からも、守りたい気持ちを贈ることをお許し頂けますか」

 兄上の瞳が、ゆっくりと揺れた。

 俺の言葉に、波紋が広がるみたいに。

 その次の瞬間、兄は破顔した。

 俺は何かを言いかけて——やめた。

 

「……もちろんだ!約束だよ」

 

  

 いつもなら冷静でいられる自分が、何も考えずに言葉を発した。

 兄上が微笑む。

 まるで心に静かな火が灯るようだ。

 

 ――かわいい。

 そう思いかけて、ノートは舌を噛んだ。


 そんなはずがない。

 こんな感情、知るものか。

 兄など、遠い光だ。手に入らぬものだ。

 なのにどうして、こんなにも温かい。


 心臓が痛い。

 逃げたくなる。

 けれど、それでも――


「……家族だからか」


 言葉にして、ようやく、重しを据える。

 ぐらつく心を、形ばかりの理屈で縛りつけた。



 

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