篝海の傭兵王子と冷たい岸壁城
船は内湾を滑る。
波一つ立たぬ水面の先、森の奥から突き上がるように、白亜の城壁が燃えるように立つ。
水も、風も、世界も、すべてが――静かだった。
なのに、俺の心だけが、嵐だった。
音もなく暴れるそれが、自分の内側を壊しそうで、怖かった。
あれが――王城――俺の知る世界の果てだった。
甲板に立ち、風に煽られる礼装の襟を無意識に押さえた。
布地が肌にまとわりつく。
自分の皮膚じゃないものが、皮膚のふりをしている。
動きづらい。息が浅い。
……皮膚の下に、誰かが入り込んで、俺を演じている。
心に浮かんだその言葉は、吐き出すそばから冷えて落ちた。
「……落ち着きませんか。
けれど王子とは、燃え尽きる前に使い尽くされるもの。
外殻まで責を負う立場です」
背後で風が揺れた。だが、音はしなかった。
男はまるで『記憶』のように、何の違和感もなくそこにいた。
振り返った記憶すらない。
ただ、最初からそこにいたようだった。
ラニウス。公爵家の使者。
「……御身は、もはや傭兵ではございません」
それだけ言って、彼は完璧な所作で俺の襟を整えた。
感情の影ひとつない動作だった。
笑みはない。余白もない。
その言葉は柔らかく、それゆえに鋭かった。
俺は何も返さなかった。
ただ礼装の重みが、皮膚の下にまで沈み込んで、血流が滞ってゆく。
その音は自分という器が、どこかで軋んでひび割れる音にも似ていた。
船がゆっくりと着岸する。
港の片隅、灰色の影のように、数名の城兵が整列していた。
その姿には言葉はなく、だが――確かに、王命の風が届いていた。
……ただし、届いていたのは「それだけ」だ。
出迎えの名はなく、旗もなく、式もない。
儀礼としては最低限。
命令だから動くだけ。
俺たちはその案内に従い、王城へと向かう。
途中、誰にも呼び止められることはなかった。
だがそれは、見落とされたからではない。
兵たちの視線は確かに通路の奥からこちらを捉えていた。
扉や回廊の影、窓越しの高み。
無言で、だが確実に。
この城では、無関心こそが忠誠だった。
静けさが続く。
だが、門前を越えて中庭へ差し掛かったあたり――
「止まれ」
静寂を裂く声に案内の兵は、びくっとして反射的に足を止めた。
ぴたりと――まるで、首筋に刃をあてられたかのように。
通路を塞ぐように、城騎士の鎧が一人、陽を弾いて立っていた。
「通行証を示せ。……そこの一団だ」
ぞんざいな目つきでこちらを見渡し、不躾に命じる。
案内の兵が進み出ようとしたが、その腕を若い騎士が制した。
年若いながら、その態度には妙な自信がにじんでいた。
「王命により入城の途上だ。通達が届いているはずだ」
ラニウスが前に出る。
「ふーん?……本日はそのような来客の報は届いていないが。
……貴殿、パンディオン家の使いか?」
騎士の目が細くなる。
「一介の公爵家臣が、王城に不審な一団を引き入れるとは。
身の程を知るがいい」
声が跳ねた瞬間、メイが一歩前に出た。無言で。
騎士服の裾が翻り、風に舞う刃のように光った。
「通行の責は、私が負おう。門の権限に属せぬなら――」
「女が口を挟むな」
鋭く遮られる。
「女の騎士ね……」
その言葉の最後の音だけが、やけに長く響いた。
空気が、破れる音を立てた。
メイが、静かに歩を進めた。
「その剣、持ち上がるのか?
それとも、飾り台にでも据えるか。
飾って悦に入るのは結構だが、王城の門は舞踏会じゃないぞ。
近衛騎士に女はいない。
そんな見え透いた虚言に、誰が引っかかるか」
鼻で笑う騎士を他所に、空気が凍りついた。
メイの肩が、刃のように静かに揺れ、愚かな騎士を見下ろした。
怒りも、屈辱も、飲み下し、低く問う。
「お前……所属は?」
「不審者に答える義務はない」
「……そうか――」
回廊の影に、誰かが立っていた。
直前、一瞬だけ、風の流れが変わる。
逆光の中、金蜜色の髪が揺れていた。
それはこの王国でいと貴きものの色。
「やめよ」
背筋が、無意識に凍りついた。
玻璃を震わせるような声が、上方から落ちた。
その声だけが時を支配していた。
その少年の影は、午後の光よりも、わずかに長かった。
だがその声音は、歳月よりも深い影を抱いていた。
「近衛くん。君の背には、何がある?」
その声音には、責める色はない。
ただ、静かに問いかけるような、遠い優しさがあった。
その声に、場の空気が一変する。
城騎士ははっとして、すぐに背筋を正した。
「城騎士くん。彼を百年前から知っている。
……君じゃ、敵わない。
それに王命の書を携える者は、王の客だ。
もてなすのは、君の務めだろう?」
(百年?……ありえない、そんなはずがない。
けれど、あの声には――嘘の影すらない)
しかし、兵も城騎士もメイもそれを否定せず、ただ傾聴して従う姿勢を示していた。
名も肩書も語らずに、支配の気配だけがそこにある。
否応なく、誰の血を継いでいるかが、全身から滲んでいた。
少年はふと視線を落とし、ややあって言い足す。
「忠義が目隠しになるなら――それはもう、ただの足枷だよ」
それだけ言って、少年は踵を返す。
名乗らず、誇示もせず。
ただ、風だけが残り香のように揺れた。
少年が去ると、風が冷たくなった。
城騎士は一つ、息を飲み、無言のまま頭を垂れたまま。
案内の兵が再び動き出す。
この城は――ああいう声で、動くらしい。
支配ではあったが、どこかで、守ろうとする手つきでもあった。
冷えた手のひらが、傷を庇うように伸びる。
そんな、寡黙な守りだった。
先ほどまでの無愛想が嘘のように、城騎士は恭しく頭を垂れた。
一行は複数の案内役によって仕分けられ、音さえ締め出されたかのような控えの間へと導かれた。
「……なんだよこれ、俺たちだけ、隔離かよ」
「ここから先は、王命だけが通行証となる場所です。
家格も勲功も意味を持ちません。
王が通せと言えば通れる、それだけの場所ですので」
振り返ると、メイは足を止めたまま、微動だにせず立っていた。
その立ち姿は、線のこちら側に自らを置くようで。
まるで『王子の道』に、自ら線を引いたようだった。
「王城に戻る、とは……そういうことです。
御身は、『王子』として、王の前に立つ」
「メイ、お前も一緒に、だろ?」
「いいえ、先程案内役が言っておりました。
ここで待機となります」
「なんでだ」
「……王命です。それ以上の理由は俺――私の口にはありません」
急に目の前の関係が、音もなくずれていくのを感じた。
戦友として共に在った時間が、立場という名の線で切り分けられていく。
「王命で動く私。契約で動くドゥール。
……そして、殿下は、そのどちらにも属さない。
殿下に求められるのは、自らの意志で、立つこと。
王以外に殿下は靡いてはいけません」
俺は言葉を失った。
「……なあ、俺は、お前たちと共に戦ってきた。
対等に、命を預け合ってきたはずだ」
「それは戦場での話です。死にかけの時は皆同じ。
ですが生き残った者には肩書きが付きまといます」
メイの声は静かで、冷たかった。
「殿下が何を選び、何に殉じるか。
それは御身にしか決められません。
王子である限り、制度上命令と契約に縛られます。
しかし実際には、殿下の行動に鎖はありません。
命令も契約も、最終的には他人の言葉。
――お前が自分の言葉で立たなきゃ、その場しのぎの命令だ」
声が喉の奥で凍った。
問いが、心に突き刺さる。
『王子として』『傭兵として』――
どちらもただの衣だとしたら?
脱ぎ捨てた後に残る『俺』はいるのか?
……それとも――空っぽ?
「言い方を変えましょうか。
――『王子』である前に、お前は『誰』だ?」
いつも戦場で失敗を諭される時の声色だった。
「……っ」
「立っているのか? 自分の意思で、ここに」
「――立っている。俺は、自分でここに帰ると決めたんだ」
「それは、王子のお前か、傭兵のお前か、どちらとしてだ」
「両方……王子も、傭兵も、どちらも俺だ。
片方だけじゃ、立っていられない。
だから、両方で立つ。
……分かってる。どちらかが倒れるときが来る。
どちらかの手を、切り捨てなきゃならないときが来る。
それでも俺は――引き裂かれてでも、両方で立つ。
……立ち尽くして、踏み潰されても、俺は選び続けるんだ」
声に、うっすらと熱が滲んだ。
そこに凍るような言葉がつのる。
「両方を立たせる?両方を支えきれる手は、世に存在しない。
――なら、問うまでもない。
その『両方』のうち、先に倒れるのはどちらだ?
都合のいい『共存』は、戦場では命取りだ。
武器を抜く手が迷えば、守れるものも守れなくなるぞ」
メイは一歩、近づいた。
その眼差しは、かつて剣を交えたどの瞬間よりも鋭かった。
「お前の帆は、王の風だけで動くのか?
それとも……お前自身が風になるのか?」
答えられなかった。
命令に従うのは楽だ。風に流されるのも、抗えない時もある。
だが、自分が風になる――それは、孤独と隣り合う決断だ。
唇が、少し乾いた。
足が、わずかに震えた。
「命令に従うのか。風に流されるのか。
それとも――お前が、吹かせるのか」
静かに、けれど確かに、告げられる。
どれかを、選ばなきゃ、いけないのか……?
「俺たちは、生き延びるために戦ってきた。
……だが今、お前が問われてるのは、生き様じゃない。
死ぬ時、何を遺すか。その一点だ」
誰のために。何のために。
何を残して――俺は、この道を進むのか。
答えが出ないまま、ただ心が軋み続ける。
そのとき、メイが――まっすぐに突き刺した。
知らない、近衛騎士の声で。
「王子。
あなたは『死に場所』を――どこに定めていますか。
誰のために?何を残して?」
その言葉に、胸が灼かれた。
(……もし、ここが、『死ぬ』場所だとしたら……?)
口をひらきかける。
だが、声も答えも出ない。
ただ、問いだけが、骨の奥で燃え続けていた。
だからもう一度口を結んで問いを見つめた。
風の中に、自分の足音が響く気がした――まだ頼りなくても、歩く覚悟は残っていた。
扉の向こうから、影のように男が滲み出た。
緋の礼装に、曇り硝子越しの日差しのような、冷ややかな微笑。
「ようこそ。
オーバーノート・ヴァナスリア第二王子殿下。
王の御前に、喧騒は不要だ」
男の双眸が俺を射抜いた。
頭の先から足元まで、品定めするように、ゆっくりと――嗤うでもなく、期待するでもなく。
「『王子としては』及第点といったところか。
……民としてなら、不合格だがね」
彼は意味深げに微笑を浮かべた。
しかし、俺はその視線の奥の冷たさに背筋が凍った。
「私はロドレイ・パンディオン。公爵として監査院を預かる、この城の僕。
そして……君の父の弟だ。だから君もまた、この城にとって――『内側』の存在、ということになる。
血統の重さとは、『逃げられぬ宿命』。覚えておくといい」
その声は穏やかだった。
だが、その奥には、氷より深い静謐があった。
「では、参ろうか、殿下。兄上……君の父上がお待ちかねだ」
メイには『ここで待て』と指示されただけだった。
ここから先はひとり。後ろに続く音はない。
公爵と共に、装飾過剰な執務室の扉を開けた。
緞帳のような沈黙が、隙間なく張りつめている。
椅子に腰かけた『父王』は、あまりに静かで。
まるで、『王』という役職が、人間の姿で座っているようだった。
以前メイに仕込まれた従順の体勢で頭を垂れる。
(……まだ、燃えてる。俺の中の焚き火は、消えてない。)
「……来たか、オーバーノート。用件は承知している。
──功があったと聞いた」
それきりだった。
称賛も、疑念も、皮肉すら浮かばない。
言葉は『報告』でしかなく、声は『音』でしかなかった。
「褒賞は出す。
後でお前の側近へ届けさせよう」
淡々とした言葉が、乾いた書類の音のように届く。
「──ああ、そうだ。母を王城に呼びたいのだったか。
取り計らっておいた」
息を呑むより先に、父王はただ手を振る。
「公爵は残れ」
それで終わった。
父としての言葉も、王としての態度も、そこにはなかった。
あるのは──誰にも向けられぬ『仕掛け』のような意思決定。
なんでだよ。母はあなたが娶った妃じゃないか。
なにも掴めぬまま一礼し、
空虚な殻のように、執務室を後にした。
重く閉ざされた扉が背後で音を立てる。
ふらつきそうになる足を、力づくで前に出した。
控えの間には、先程同様メイがいた。
背筋を正し、壁際に控えていた近衛騎士。
いつもと変わらない顔だ。けれど、その青い目だけが、何かを計るように揺れている。
「先程は出過ぎた真似を致しました。申し訳ありません。
……顔色が優れませんね」
「そう見えるか」
「ええ。……まだ『希望』が、顔に残っています」
メイの言葉はいつだって容赦がない。だが、今のそれはどこか柔らかく――いや、違う。
わざとちらつかせた棘に気づかないふりをした。
「部屋へご案内します。王子殿下にあてがわれた居室です」
「……父は、母を『褒賞』として手配した。
俺が今も望んでいるとは思っていないようだった」
メイは何かを測るように、静かに横目で俺を見た。
「あの方には『政治的手札』以上の意味はないでしょう」
「……そんなことは分かってる」
肩口の軍衣を軽くつかむ。
「……知ってる。でも、それと納得するのは違うんだ」
メイはふっと笑った。
苦い薬の味がするような、哀しみを滲ませた笑みだった。
「王族稼業、いよいよですね」
「……あんた、護衛のくせに妙に暖かいな」
「そういう役目ですので。感情で守れたら楽なんですが」
「ああ、でも……ありがとう。ついてきてくれて、助かった」
一拍、間が空いた。
メイの瞳がわずかに丸くなる。
すぐに目を細めて、口の端を吊り上げた。
「……思春期か」
実質俺を育てた男の変化を目端で捉えると、もう無理だった。
恥ずかしすぎて顔をそちらに向けられない。
「……うるせえ」
「言葉遣い。王城ですので気をつけましょう」
軽口の余韻が、廊下の静寂に溶けていく。
無言のまま、二人は並んで歩き出した。
「なあ、メイ」
沈黙を割くように、ぽつりと声を落とす。
「側近って……どういう人を選べばいいと思う?」
メイは歩を止めなかった。
ただ、わずかに呼吸の調子を変えた。
「『立っている背中』を選ぶことです。
貴方自身、まだ立ち上がっていない」
「……だったら、お前がなってくれよ」
そう言った俺に、メイはあっさり首を振った。
「先程近衛として、王命を受けました。
第二王子オーバーノート殿下の護衛を正式に拝命しております」
事務的な口調だった。
ほんの少しだけ、俺たちの間に『区切り』が落とされた気がした。
「近衛は命を守る者です。考えを導く者ではない」
「なるほど。お前は冷たいな」
「育児と政治は違います。
……いえ、失礼。口が滑りました」
その『滑り』は、あまりに自然で、あまりに意図的だった。
俺は呆けたようにメイを見た。
笑うでも詫びるでもなく、彼はただ前を見ていた。
その背中に何かを言おうとして、言葉が出なくて、やめた。
「……それでも、それを選んだのは、お前だろう」
「近衛ですから。それだけのことです」
その背中は、まるで『道を掃くように』半歩、前に進んでいた。
俺はその歩き方を見つめる。
王子が歩くべき道を静かに清め続けているようだった。
「こちらが、殿下のお部屋です」
扉を開けたその先には、書類の山と未開封の文書が溢れていた。
「……な、にこれ」
思わず声が漏れる。
目の前の光景に圧倒されて、思考が一瞬止まった。
「『王子』に返り咲いた者に相応の歓迎かと。
中身は必要申請書類、承認待ちの書類、嘆願書、『抜けた派閥』からの応援辺りでしょう。――表記上は」
メイが淡々と答える。
俺は黙って部屋に足を踏み入れる。
そのまま立ち尽くしていると、メイの声が追い討ちをかける。
「今日は、お一人でどうぞ。
側近を雇われるまでは、そのような日々が続きます」
扉を閉めようとしたメイの手が、ふと止まった。
「……書類に魔術的封印がある場合、
開封時に反応があることがあります。
……ま、殿下なら大丈夫でしょうけど」
その声には、ほんのわずか――かすかな心配が滲んでいた。
だけどそれは丁度、一枚の手紙を開いた瞬間だった。
途端、黒い霧が蛇のように這い出す。
次の瞬間、メイの剣が空を切り裂いた。
封印された呪詛は一閃に断たれ、残滓すら残らず消える。
その手際は、昨日までの傭兵の兄貴分を思わせるものだった。
「おい!」
俺は思わず声を上げる。
メイは淡く肩をすくめ、涼しい声で返した。
「今日は代理です。
……早めに『正式な側近』をお探しください」
それだけ言うと、踵を返す。
突き放すような態度だった。
俺は、呪詛で焦げた手紙をそっと拾った。
「……お祝い、じゃなかったのか。……馬鹿だな……」
ここまでずっと気を張りつめていたからだろうか。
つい気持ちがこぼれた。
破れ、焦げ、字も読めないほどになったそれは、それでも最初に俺が目にした祝いの言葉だった。
メイの肩がわずかに揺れた。
背を向けたまま、低く聞き取れるかどうかの声で言い捨てた。
「……生き延びる気があるなら、少しは疑うことを覚えてください、殿下」
静かに扉が閉まった。
夜。
メイは事務局に報告書を提出していた。
内容は簡潔だった。
『暫定側近配置:未定』
本来なら、それだけでいいはずだった。
けれど。
思わず眉間に皺がよる。
脳裏に、昼間の光景が焼き付いていた。
焦げた手紙を、あんなにも拙く、
それでも必死に胸に抱き寄せる、あの男の姿。
ただの任務対象なら、ただの王子なら。
見逃していた。
だが、違った。
あれは、もう『子ども』ではない。
もう大人の肉体を持ち、立場も責任も引き受けるべき存在だ。
それでも、心はまだ、無防備に晒されたままだった。
小さかったあの指が、初めてメイの指を掴んだ感触は、忘れられない。
目も見えぬ赤子が、ぎゅっと、必死に掴んできた。
頼るしかない幼子が、命のすべてで、自分に縋った。
(――忘れるものか)
誰が命じたかなんてことは、どうでもよかった。
あれから、剣を教えた。
言葉を、礼儀作法も最低限、教えた。
魔術膜の扱い方を叩き込んだ。
そして――
自分の手を離れても、もう倒れないように、と。
だが。
現実は、違った。
あんなもの受け取るな。
自分を傷つけるものに心を裂くな。
それがどれほど危ういことか、教えてきたはずだ。
体感してきたはずだ。
(……育児失敗だな)
自嘲するように、薄く笑った。
そんな自分を、誰より許せなかった。
静かに、きつく握ったペンを走らせる。
暫定側近配置――
横線で未定を消し、
その下に、自らの名前を書く。
ジェーン・メイ
言い訳は頭の中で組み上げた。
『王命違反を避けるため』
『次の側近が決まるまでの臨時措置』
『単なる業務遂行だ』
それでも、名前だけは、妙に丁寧な字で書かれていた。
陽射しが、眩しい。
パレードだからって朝から風呂につけられ、ぎらぎらの服に装飾過多の長ったらしい外套を着させられて、うんざりだ。
もう、これ以上は、肉のことでも考えてなきゃ、やってられない。
メイが並んで歩きながら、小さく言った。
「殿下、万一のときは俺が隣にいます。心配は無用です」
「……誰かに見られてるぞ、そんなこと言ったら」
「気づかれませんよ。笑って、手を振ってください」
メイは口の端だけで笑った。訓練された、無言の信頼の笑みだった。
凱旋パレードとやらは、牛歩だった。
渡り狼も雇われ傭兵も、一糸乱れず、列を成している。
馬の歩みは遅い。規律正しく、華やかで、威厳すらあった。
――他人事のように、そう思った。
馬上で、俺は微睡んでいた。
朝食に齧った粗いパンの味は、もうどこにもない。
ただ、祝賀会で待つビステッカだけが、
脳裏の奥で、肉汁を滴らせている。
……いい匂いだ。
炭火で焼ける肉。脂が跳ねる音。
齧りつけば、熱い肉汁が、口の中で弾けて――
「……殿下、顔が死んでおります」
意識の表層を、冷えたメイの声が突き破った。
体だけが反射で動き、ぎこちなく笑顔を作る。
目は死んで、口元だけがひきつった。
「次、子どもに手を振りましょう」
言われるまま、どこかに向かって手を振った。
何を振ったのかも、もう分からない。
空を舞う花びら。
遠くでうねる歓声。
まるで誰かの断末魔みたいに聞こえた。
鎧が朝陽を撥ね返して、目に刺さる。
なのに俺には、それが全部――
焼ける肉の幻に見えた。
街の喧騒すら、炭火の爆ぜる音に聞こえた。
……ここは、戦場だったか。
それとも、あの焚き火の前だったか。
目の奥が熱い。
それでも俺は、ただ、揺れる馬の背で――
焼け焦げた夜に噛みつき、
よく噛んで、飲み込んで、
それでも、舌に何も残らないことに、気づいていた。
それでも――
食らいつくしかないと、知っていた。
メイが、笑っていた。
だがその笑みは、氷よりも冷たかった。
『現実を見ろ』と、声もなく、俺を打った。
厳しい顔つきで人ごみをさばくメイを見ながら、俺は思った。
(……こいつならまた戦場に行っても、きっと背中を預けられる)
そんなことを考える自分に、少しだけ驚いた。
馬の鐙が冷たく脚を締め付けた。
(……まずいな。ビステッカすら、もう味がしねぇ)
乾いた笑みを隠しながら、俺は馬を降りた。
それでも歩かなきゃ、夜に食い殺される。