帰還の決意と渡り狼の焚き火
【篝海王国監査院 事態総括報告書(要約版)】
提出先:国王陛下、枢密院
提出者:監査院上級補佐官 ラニウス・トリーロン
1.発生原因
第二王子の魔術暴走及び、砂海帝国の空爆により国境域に魔術凝固災害が発生。
2.処理事項
・第二王子の回収、常態監視。
・王城警備及び魔術管理体制の強化。
・国境封鎖と監視網拡充。
3.王命追加命令
・第二王子指揮下で敵本部を壊滅、戦線制圧。
・勝利を国民に印象付け、国威発揚を図る。
・大規模凱旋パレードを実施。
・魔術暴走情報は最高機密扱いとする。
4.留意事項
・戦勝で被害印象を払拭。
・第二王子派閥形成を防止。
・国家体面の維持最優先。
・パレード演出を厳重管理。
以上。
目を開けると、石の天井がこちらを見下ろしていた。
冷たい白――生の気配が一つもない。
天幕にしては白すぎる。
ユルトにしては綺麗すぎる。
音がない。
血の匂いもない。
それは、"死"の匂いより、もっと無慈悲だった。
……あれ、死んだ?
なら、ミュルカにもう大丈夫だよ、って言えるな。
いや、彼女はどこにも見えない。
死後って、もう少し賑やかな世界だと思っていた。
――いや、そうじゃないのか。
「……ここは……」
知らない声が喉からでた。
心音がやけに力強い。
身を起こす。
指がごつい。
視界が高い。
脚が、ベッドの端に届く。
これ……本当に、俺の身体か?
握り込む。
動きが鈍い。
誰かの真似をしてるみたいだ。
筋肉のつき方まで、見覚えがない。
……この中に、俺がいるのか?
昨日の自分を水で薄めて、別人の皮をかぶせたみたいだ。
いや、違う。
もう戻れない。
あの日の空も、あの時の『俺』も、二度と。
成人化してしまったから。
ユルトの子ども達。
気を失う直前に見た景色。
……メイ達はどうなったのだろうか。
魔術凝固すると思った。子どもたちと同じように。
魔術暴走でそのまま魔術に成るのだと思っていた。
なんにせよ、生き残るとは思わなかった。
なんで、俺だけ――。
俺じゃなくて、あの子たちの誰かが生きてた方が――って、そんなことを考える資格もないのに。
死ねばよかったなんて、軽々しく言うなって、昔なら殴ってた。
分かってる……魔術膜だ。
生ける人間の魔術器官。
魔術の濃度で大人の身体に造り替える臓器。
そのつくりが皆と違ったから、生き延びた。
いっそ、呪わしいほどに。
誇りじゃない。
ただの偏った機能だ。
人を救うんじゃなく、自分だけを残す器官。
お前は、誰を選んで生かす?
もし、選べるものなら――。
だが現実は……王族だから。
たとえ、俺が捨てられたものに等しくても。
砂海帝国から政略結婚で嫁いだ母。
俺を産んだその脚で、母は王城を去った。
父はそれを裏切りと呼び、俺を戦場へ投げた。
……母は、ただ見ていた。
それが何より、幼い俺の心を殺した。
それ以来、メイと共に俺は忠誠をみせてきた。
傭兵となり、身分ではなく力で制圧してきた。
でも本当は――そう、逃がされたんだと思っていた。
俺はそう信じたかった。
けれど……母は、何も言わないかった。
俺をどこへ送るのか、知っていたはずなのに。
まだ母は王城に戻っていない。
あの人は、今あの別荘で、何を想っているんだろう。
窓の外を見て気づく。
あの門……外側から見たことがある。
そうか、ここは国境域の領主館の一室か。
――なら、きっとまだやらなきゃいけないことがあるはずだ。
そこへ、扉の外から足音が響いた。
ノック音と共にすっと音もなく開いた扉から現れたのは、背筋だけで気を張っているメイ。
眼差しは――どこか痛々しいほど、俺を案じていた。
あんな顔、見たことがない。
まるで俺の死体でも見つけたみたいな目だ。
それを表情には一切出さず、近衛騎士の装束を纏い、肩に王国紋を背負っていた。
「殿下、来客でございます」
――気を張れ。
メイの視線が、無言の刃となって飛ぶ。
俺はわずかに頷き、ぎこちなく立ち上がった。
この身体に、まだ馴染めない。
骨の軋み、肉の抵抗。
それでも、立ち止まる余地など、どこにもなかった。
メイの背を追う。
石壁に囲まれた廊下。
呼吸すら、石に吸い込まれて消えていく。
一歩ごとに、足裏から違和感が突き上げた。
肉体が、俺の命令に僅かに遅れ、別の意志で動くかのようだ。
通されたのは、領主館の応接室。
冷えきった石の箱。
人の気配すら凍りついたまま、ここには何もない。
クヴェレとドゥールが、静かに立っていた。
二人とも、俺を見据え、軽く頭を垂れる。
昔何度かメイに言われた状況か。
こういう時はふたりに挨拶してはいけない。
そして――机の向こう。
銀留具の書類挟みを、吸い込まれるような無音で置く男がいた。
整いすぎた文官装。
撫でつけた灰黒の髪。
表情を持たない面には、完璧な礼儀だけが張りついている。
ラニウスは、一礼の角度まで計算されていた。
ああ――これは、人を『品物』としか見ない目だ。
「お初にお目にかかります、オーバーノート殿下。
パンディオン公爵家筆頭補佐、ラニウス・トリーロンにございます」
無駄のない一礼。
巻紙と、小箱が差し出される。
「第二王子殿下。
監査院および公爵家の指示により、王城への帰還命令が下りました。
また、帰還直後に凱旋パレードを実施いたします」
声は凪いでいる。
しかし、指先ほどの慈悲もない。
俺がどれだけ壊れていようと、どれだけ悔いていようと――
そんなものは、ただの背景にすぎない。
使える駒を使う。
それだけの話だ。
「……帰還命令?」
「ええ。出自については、すでに確認済みでございます。
これを以て、殿下の名誉も、地位も、生活も――何もかも、『かつて通り』に整います」
「――そう、ですか……」
「ああ、もちろん、お身体の変化も『想定内』にございますので。
ご安心を――王宮には『その程度』の適応設備は揃っております」
「……なるほど」
空気が、ひどく薄かった。
『かつて通り』。
その言葉が、胸を深く、鈍く抉る。
王城など知らない。
物心もつかないうちに棄てられた場所だ。
俺は、誰に戻る?
守れなかった傭兵か。
死にきれなかった兵士か。
母に誓いながら、無力だった息子か。
――それとも、父王の望んだ『道具』か。
小箱の中身を、ちらと覗く。
魔術抑制装置。
今、俺の左手に嵌められているものの、その標準版。
静かで、精巧で、絶対に逆らえない重み。
まるで、どこにも逃げ場のない手錠だった。
……つまり、これは拘束じゃないとでも?
俺の力を恐れて、なお、王族の看板を押しつける――
それが、国というやつか。
「成された事を考慮すれば、殿下の今後における選択肢は、あまり多くはございません」
「……」
呼吸すら細くなった。
クヴェレが、一歩だけ前へ出た。
剣を抜く直前のような、絶妙な緊張を孕んで。
低い、静かな声。
「それで、二千か」
――二千。
命を運ぶ代金。
命を縛る契約金。
ラニウスは、わずかに目を細めた。
「不満ですか?」
クヴェレは、肩を軽くすくめて笑った。
その笑いには、背負ってきた全ての道が滲んでいた。
「当たり前だろ。
こいつは国境一帯を魔術で封鎖した英雄様だ。
二千なんかで買い叩けるかよ」
英雄。
その言葉に、胸がひび割れる。
救えなかった命が、今も胸に刺さっているのに。
ドゥールが、静かに寄った。
一歩だけ。
それだけで、俺の世界が少しだけ揺れた。
俺の目を真正面から見た。
問うでもなく、促すでもなく――
ただ、そこに在る覚悟だけを、俺に差し出して。
俺は、一度、目を閉じた。
開いたとき、ドゥールは短く言った。
「……行きたきゃ、止めねえ」
声は、岩を削るほどに低い。
そして、剣帯が、かすかに音を立てた。
「嫌なら、やるぞ」
空気が、細く震えた。
この場ごと――蹴散らす覚悟だった。
ラニウスは、小さなため息を吐き、平然と答えた。
「……国庫には触れられません。公爵家の裁量でございます」
クヴェレの口元が歪んだ。
「じゃあ、公爵家の財布、もう少し緩めてくれよ」
沈黙。
一秒、二秒、三秒――。
石の壁すら、軋むかと思うほどの重い沈黙。
そして、ラニウスは小さく頷いた。
「……良いでしょう。特別手当を支給いたします」
クヴェレが薄く笑う。
「これで、吹き荒れる風が、王城に届く保証ができた」
誰も守ってなどいない。
契約だけが、俺を生かす。
傭兵らしく。
クヴェレは俺をちらりと見た。
「契約は契約だ。
――あんたを、王城までちゃんと送り届ける。
でもな、俺たちは傭兵だ。
金の切れ目が、縁の切れ目だぜ、ノート」
名を呼ばれるたびに、胸が軋む。
でも俺は、頷いた。
生き延びたからには、進まなきゃならない。
どんな姿になったって。
「殿下、今回のことは覚えていらっしゃいますか?」
ふいにラニウスが問うた。
「…………いや」
「そうでございますか。
でしたら、後ほど『報道』をご覧になるとよろしいでしょう。
概ね、事実として記されておりますので。
御身の魔術膜の可動域、及び今回の成人化による魔術濃度の乱高下は、篝海全土に影響を及ぼしかねません。
今はそれで強制的に抑えてはおりますが……。
仮の対処では不十分と、公爵閣下もご懸念でございます」
「……公爵閣下のご意向ですか?」
メイの声が低く問う。
「王命でございます。それ以上でも以下でもございません」
返しは滑らかで、しかし容赦なかった。
ラニウスは一礼し、言葉を残した。
「準備が整い次第、お声がけくださいませ。
公爵閣下の船は、殿下の帰還を『心より』お待ちしておりますので」
その『心』が、どこにあるのかは語らなかった。
ラニウスと渡り狼たちは静かに退室した。
扉が閉まり、静寂が戻る。
メイは長い沈黙のあと、ぽつりと呟いた。
「……無理に帰るな。
帰るなら俺は『あの頃』――『お前を背負う前』の近衛に戻る。
それが俺が選んだ道だからだ。
……その意味を、ちゃんと考えろ」
その横顔は、近衛の仮面を捨てた、ただの『メイ』だった。
――なら、俺は。
最初は母の為だった。
ドゥール達と命をかけて戦場を渡り歩いたのは、母の望みを叶えたかったからだ。
幼い頃、一度だけ、母に会った。
薄紗が揺れていた。砂海風の優しい薄布だった。
白いテントには、金糸の刺繍が浮いていた。
母は俺の手を取り、小さな菓子を割ってくれた。
……とろけるように、甘かった。
そのときの声は、やさしくて、少し寂しそうだった。
『お前はきっと、強くなる』
そう言って、母は小さな花を俺にきつく握らせた。
『これはね、期待という意味があるのよ』
覚えているのは、花の香りと、指のぬくもりだけ。
微笑んだ顔は、なぜか思い出せない。
なぜ、顔を思い出そうとすると、頭が痛むんだろう。
『渡り狼』たちは、もちろん大事だ。
俺が、俺自身があいつらを害するなんて、許せない。
それが一番強かった。
守るべきものを何一つ守れず、俺一人が生き残った。
何も守れずに、生き残った者がやるべきことがあるとすれば――
あの約束だけだ。
『お前はきっと、強くなる』
あのとき、あの声を、信じたから俺は生き延びたんだ。
だったら今度は――
俺が、母を守り返す番だ。
目標は最初から定められていた。
それを『やりたい』と思った。
母を父のもとへ返す。
それが目的だった。
この『帰還』で父に嘆願する。
それを許されるかは分からない。
それでもやらなければ。
「……帰る」
誰に言われたわけでもない。
王子としてでも、傭兵としてでもなく――俺として。
あの声を、あの手を、信じてここまで来た。
だったら今度は、俺が――母の帰る場所を、切り拓く。
母の手を守るために。
あいつらの未来を守るために。
俺は――帰る。
「ノート、起きてるな!開けるぞ!」
館の静寂をぶち破る怒鳴り声。
決意の翌日、扉が、軋んで――爆ぜた。
「扉の扱いに気をつけろ、壊れる!
まったく……少しは静かに……」
クヴェレが肩越しに、呆れた声を漏らしながらついてくる。
戦場の疲れと、戦場を笑い飛ばすような笑み――矛盾したふたつが、ドゥールの顔には同居していた。
「ノート、やらかしたな、お前。
全部、自分で背負い込むなってんだよ……!」
大股で歩み寄ってきて、肩をがしっと掴む。
重たいはずのその手が、今日は妙に軽く感じた。
「……ドゥール、クヴェレ……無事だったんだな」
「あんな屁みたいなもんで死ぬか。
……ちょっとだけ、ぶっ飛んだがな」
「……俺が、ぶっ飛ばしたのか」
「安心しろ。この通り、傷ひとつない。俺の頑丈さを舐めるな!」
ドゥールは笑ってる。
けれどその奥には、あの日と同じ、死の気配がこびりついていた。
どれだけ笑っても、形持つ死だけは、瞳の奥に居座ったままだ。
「無事で何よりだ、王子様。お前まで居なくなってたら、頭領が当分面倒くさいことになってたからな」
「面倒くさい言うな。俺は繊細なんだ」
「お前が繊細なら、扉は羽毛だな。
小僧、いや。――オーバーノート王子、提案だ」
クヴェレの声が、音ではなく圧になって降りた。
静かに。けれど、言葉が胸を撃ち抜くように。
「王城は忙しない。国境は穴だらけ。
お前の不安もまだ続くんだろ?
篝海は兵も回せず、民の安全は傭兵任せ。
……なら、『安定した契約先』としてうちはどうだ?王子様」
「王子……俺?」
「そうだ。王族であるお前が、『ここにいる意味』を問われる前に、答えを出せ。
傭兵団を雇え。
『生かしたい』なら、『使え』。
……もう、死んだやつの名前で夜を越えるな」
『使う』――その一語が、心の奥の『嫌悪』を殴りつけてきた。
過去の自分なら、これを選ぶ誰かを軽蔑していた。
けれど今、手を伸ばしてしまいそうな自分がいる。
怖いのは、その手が震えていないことだった。
自分が一番軽蔑していた選択。
それを今、選びかけている自分が怖い。
「『使う』のが怖かった。
でも、何もしないまま――子どもたちは死んだ。
……俺じゃ、守れない。
壊すだけだ」
「ふむ?」
クヴェレは首を傾げた。
ドゥールはなんてことなさそうに問いを投げた。
「……それで?あれから一月経った。
あの時、一体何があった?
お前のことだ。何もなくて魔術暴走は起こさんだろ」
「あ……」
ドゥールの顔は真剣だが、俺をちゃんと見ていた。
眼差しの奥には熱があった。
だから、話した。全部。
「……そうか。砂海の魔術に、謎の灼光、か。
――ノート、残念だったな。だが、お前は頑張ったよ」
「ドゥール……ごめん、俺……っ!」
「その状況で他に誰もいなかったんだ。よくやった。
だから次はどうしたらいいか、よく考えておけ」
「安心しろ。もうそんなことは起こさせない。
ユルト一張につける大人はふたりになるよう調整済みだ」
「クヴェレ……」
「葬儀もみんなで行った。
……また、火を囲む夜に語ってやるさ。
生き残った俺たちが、あいつらを忘れないためにな。
そして、あいつらに恥じない未来を、生きるために。
――それだけだ」
「っ……すまない、ありがとう……」
頼れる副長クヴェレは眉をあげると折り畳まれた鑑定人専用情報紙を取り出し、淡々と読み上げる。
世界中に拠点を構える『鑑定人の街』アツェンカの情報紙は、渡り狼の『金庫番』クヴェレの愛用品のひとつだ。
「『篝海/砂海国境にて、未曾有の魔術災害発生。
辺境集落、魔術終形による石化現象多数。
原因不明。死者・行方不明あわせて四桁規模。
両国、戒厳令に近い混乱』
……らしい。
アツェンカの情報紙、ここだと篝海版が毎朝更新される。
砂海版とはまた文の触り心地が違うな。
そんな垂涎の目で見るな。……高いんだぞ、これ」
情報紙を読み上げたクヴェレは、ぱたんとそれを閉じて俺を見た。
「……まあ、大騒ぎだ。敵も味方も勝手に固まった。
……助かった。あの時、本陣には空魚雷の襲撃があった。
お前が止めなきゃ、俺たちは全滅してた」
「手柄なんて……」
俺が眉をしかめると、ドゥールがやれやれと首を回した。
「素直に受け取っておけ。
お前の暴走だったから、メイがなんかやったからどうにかなった。
だが、あれが空魚雷だったら、なんか?、なんてやっても意味がなかったんだ」
「……なんか?」
メイを見るが、砦も真っ青な鉄壁の無表情ぶりで語る気がないことを示している。
「世界の表層から一歩降りたとか、なんとか、かんとか……
あ゙ー!魔術はさっぱりだ!詳しくはメイにでも聞け。
でも、お前が俺たちのために動いたってことだけは、わかってる」
クヴェレがふっと肩をすくめる。
「ま、おかげで報酬も台無しだ。
被害区域が国家指定の禁域になって、調査許可も売却も凍結された。
だから今――俺たちはパレード以外の仕事がないわけだ、王子様」
「あ……」
――あの時の風の音が、まだ耳にこびりついている。
砂と漂魔が混ざり合い、熱く脈打つように空気を変えていった。
『お願いだ……!』なんて、どの口が言ったのか。
なにもできないくせに、ただ名前だけを呼んで。
あの子たちの為に、なんて祈りながら、その実自分の心が助かることしか考えていなかったじゃないか。
『ごめんね……』
ミュルカが笑って、砕けた音がして、
その瞬間、俺の中の何かが、深くひび割れた。
それが『成人』なら――
それが『王族』としての証明なら――
そんなものに、意味なんてあるものか。
守れなかった子どもたちの死体の上に立って、
お前は王族ですよ、と宣告された俺に、何をしろって言うんだ。
――もう、嫌うだけじゃ済まないのかもしれない。
「……そんなこと、俺――」
「できるさ。パレードで終わりにすんな。
俺たちを、雇え。ノート」
その言葉は、ドゥールからだった。
「……だって、お前は、俺の部下だ。
血より早く、俺の教え子だ。
今も、ずっとな」
「……ドゥール……」
「俺は、まだお前の保護者だぞ。
覚えておけ」
言葉の響きが、胸にじんと染みた。
いつも冗談めかす彼の言葉が、今は妙にまっすぐ届く。
「……ドゥール……保護者なら、もっと早く殴ってくれよ」
「殴るより先に、支える方が早かった。それだけだ」
ドゥールの言葉が、胸にあたたかく染みる。
――だけど。
王城は、そんな優しさを許す場所なんだろうか。
「……でも、王城を刺激するわけにはいかない。
俺が動けば、もっと監視が強くなる」
そこでメイが口を開いた。静かに、だがしっかりと。
「その線引きはこちらで調整する。
当分は俺が傭兵の籍を残して、必要な支援を続ける。
だが――近づきすぎれば、焚きつけられる。
……今のお前は、『引火物』なんだ。
よくわきまえて動け、ノート」
「メイ……いいのか?」
「籍は一時的なものだ。うっかり忘れてな。
――だが、王城には内密に」
「ああ……分かってる。……俺、決めた」
俺はゆっくりと立ち上がった。
迷いを捨てた眼差しで、大人たちを見渡す。
「あの時、全部断ち切れてしまった。
でも、まだ……残っているものがあるなら。
……俺、繋がる。まだ、諦めたくない。
そのために、何をする必要がある?――教えてくれ」
クヴェレがわずかに目を細め、俺を見つめた。
ドゥールは何も言わず、ただ大きく頷いた。
その空気を――最初に破ったのは、クヴェレだった。
「よしよし、言ったな?じゃあまずは金勘定からいこうか」
「…………待って。なんでそんな圧が高いんだ?!」
「理想的な金ヅルが、肥料まで背負って現れたんだぞ?
こっちとしても、日照りにも風にも負けない、立派な金の樹に育ててやらなきゃな」
「金ヅルじゃなくて、せめて取引相手って言えよ!」
「それを金の若木と呼ぶのさ、王子様。
金を稼ぐにも、使うにも覚悟がいるんだ。
お前の財布が腐る前に、叩き直してやる。
……腐ったら目も当てられないからな。
ありがたく思え」
クヴェレが指を折りながら、淡々と続ける。
「一、金は血の代わりだ。出せば痛い、流しすぎれば死ぬ。惜しめば腐る。
四、欲で選ぶな。……欲に選ばれろ。そっちのほうが、守るものを見失わない。
情を入れたら、守るべきものが吹き飛ぶと思え。
……二と三は、自分で学べ。王子様」
「なんでだよ、気になるだろ?!……って言うか、怖いわ!なにそれ講義?!」
「講義ってのはな、金を払って受けるもんだ。いまのは無料だ。ありがたく思え」
「やっぱ怖っ!!」
思わず後ずさると、ドゥールが大声で笑った。
「クヴェレの金の授業ってのはな、ほぼ育成宣言みたいなもんだぞ?」
「え?」
「……俺が水やってる時点で、察しろ。損する気なんてないよ」
目を丸くすると、クヴェレは小さく鼻を鳴らした。
「……まあな。貴族ってのは大抵『使われる側』に甘んじる。
だけど、お前は『使う側』になれる。
だったら、枯れない金ヅル――もとい、良き支援者に育て上げてみたくなるだろ?」
「……何その、誤魔化す気すらない雑な扱い」
俺の呆れ声にも、クヴェレはただ、肩を竦めただけだった。
「……ドゥール、なんとか言ってやって、保護者なんだろ?!」
「言ったろ?
やらかしたな、って。
だが、それが始まりでもいいんだよ
――それが、やり直しの一手になるならな」
「まさか、またドゥールの悪巧みに巻き込まれるとはな」
「何言ってんだ、クヴェレ。お前、誰より楽しんでる顔してるぞ」
笑い声が、湿った空気を吹き飛ばしていく。
かつての居場所が、もう一度歩き出す足元になった。
先に残っていたのは、ただの代償じゃない。
――それを『希望』と呼び変える権利だ。
「……開かずの小金庫が開いたみたいだ」
ふと、かつての自分が手にした小金庫のことを思い出した。
開け口を爪でがりがり掻きながら、
『これ、だれかのたからものなのに』
って鼻水まみれで叫んだあの日。
それを、覚えていたのはクヴェレも同じだった。
古くなった小金庫を玩具代わりに与えた。
ただの時間稼ぎのつもりだった。
それをどうしても開け方が分からない、と大泣きする小僧を抱き上げた日も遠くなった。
膝上で一緒に開けて、ぴたりと泣き止んだ時の笑顔は、まだ心に飾ってあった。
退室する前に背中を向けたあいつは、もう泣き虫の小僧じゃなかった。
香ばしい煙が、夕焼け空に溶けていく。
焼ける羊肉、牛肉、焚き火の赤――
ユルトの外壁に、笑い声が揺れていた。
なのに、俺だけは、真冬の水底にいた。
……背中が焼かれてる。
肉じゃない。俺自身だ。
焚き火より、ずっと熱い視線に。
(なんで宴なんだよ。俺、荷物取りに帰っただけだろ)
肉の焼き場の人混みから現れたのは、すでに出来上がった美貌の近衛騎士――もとい、傭兵だった。
「ノート。逃げようとしたな?」
微妙に伸びたイントネーションに、俺はぴたりと凍った。
メイが、酔っている。――タチが悪い。
振り返った俺の額に、ぴしりと指が弾かれる。
「逃げんな。
背中向けたら、そいつはもう『いなかった奴』だ。
……俺も、そうだったからな」
「……逃げるつもりはねぇよ……ただ……」
「言い訳すんな。怖がられても、構わねぇんだよ。
力ってのは、怖がられてこそだ。だから――手を離すな」
言葉を詰まらせた俺を残して、メイはふらりと背を向けた。
矛先が他所に向いて内心ほっとする。
蒸留酒の瓶をぐいと掲げる。
その一挙手一投足に、焚き火の周りの連中が目を輝かせる。
――昔、傭兵団に来たばかりの頃。
性別を勘違いして絡んできた連中を、メイは全部叩き伏せた。
そいつらを力で黙らせ、言葉で信頼を勝ち取り、舎弟に変えた。
今、そこにいるのは、かつて拳で繋いだ『家族』たちだ。
「よし!記念だ!酒だ羊だ牛だ!
こいつの育児に泣くのも、怒鳴るのも、今日限りだ!
食え!燃やせ!吠えろォッ!」
「兄貴ィィィィィ!!!」
笑い声と、遠巻きの距離。
柔らかな表情と、越えられない間。
それでも、俺は、そこに立っていた。
子どもたちが手作りのお守りを投げつけてくる。
長い草を石ころに巻いただけの、意味不明な代物。
「これで魔術暴走しても安心!」
「……何が?誰が?どこが?……いや、ありがとよ」
ふと気づけば、長老がひとり、俺から少し離れたところに座りこんでいた。
ぶるぶると震える両手で、牛肉の載った皿を押し出す。
拝むように、俺に向かって。
「………………婆ちゃん、俺は祠じゃねえよ?」
「おーい、エキュスー!近くに来ても大丈夫だぞ」
「んー……馬と一緒で、心の距離って大事だよな?」
笑いながら、確かに隔たっている。
でも、それでも、ここにいる。
そんなとき、爆音が広場を揺らした。
「王子殿下ァーーーッッ!!!」
ドゥールが貴重な酒樽を頭上に掲げ、全力疾走してきた。
その後ろ、クヴェレが爆竹に火をつけながら追いすがっている。
「祝砲だ!祝砲をあげろぉぉぉ!!!」
「待てドゥール、それ爆発するやつだ!」
ドゥールは、樽に爆竹をぶち込む。
派手な火花と泡が、噴き上がった。
クヴェレは懐から巻物を広げ、叫ぶ。
「ノート殿下迷言集・黒歴史編、開幕!」
「やめろおおおおお!!」
子どもたちが笑い転げる。
医療班も肩を震わせる。
「第一章。幼少期の寝言集!」
『俺はだいじょうぶだ……
たとえオムツが爆発しても……
戦える……!』
子どもたちが床を叩いて笑い転げる。
医療班も肩を震わせる。
「第二章。偉大なる絶叫日記!」
『ぐわあああああああああ!
ねるまえに明日の死因予想立てるなぁぁぁ!!』
「やめてくれ、心が死ぬ……!」
「第三章。決戦前夜の一句!」
『大丈夫、俺ならできる。
俺は最強、俺は最強――
オムツをつけたまま、最強だッ!!』
串が投げられ、笑い声が波のように寄せては引いていく。
その中に、俺はいた。
(……ありがたい。……ムカつくくらいに、あったかい。)
(――だから、余計に、怖いんだ。)
焚き火の向こうで、ドゥールが手を振った。
「楽しんでるか?」
「……こんな大袈裟なこと、しなくてよかった」
そっぽを向いて答えた俺に、ドゥールは豪快に笑った。
「何、酒飲める絶好の口実だ。逃すかよ!」
俺も、少し笑った。
そして、また尋ねたくなった。
「なぁ、ドゥール」
「ん?」
「……もし、今まで当たり前だったものが、なくなったら、どうする?」
ドゥールは串を回しながら、しばらく何も言わなかった。
火の粉が、ぱちぱちと夜空に弾けた。
「……当たり前に、あったもんなんてねえよ」
「え?」
「依頼も、戦も、命も。
全部、誰かが必死こいて掴んで、繋いできたんだ。
最初から、何ひとつ――当たり前じゃなかった」
「でも――戦がなくなったら?」
ドゥールはふっと笑った。
「前にも言ったろ?
草原に戻るだけさ。
馬を追って、風を食って、酒を飲む。
――お前も、戻ればいい」
「……俺も?」
「おう。王族だろうが何だろうが、知ったこっちゃねえ。
飽きたら戻ってこい。馬追いながら、また笑おうぜ」
胸が、きしむ。
でも、それは痛みじゃなかった。
「ドゥール……俺……」
「ん?」
「俺……必ず、お前たちを……
いつか、馬族に戻してみせる」
ドゥールの手が、ぽんと俺の肩を叩いた。
「おう。待ってるぜ、『王子殿下』」
夜が更けるころ。
酔ったドゥールが俺に叫んだ。
「さぁさ、王子殿下ァ!
旅立ちの祝福だ!
最後に一言!」
「……何だよ」
嫌がる俺に、ドゥールは酒臭い息を吐きながら、満面の笑みで叫んだ。
「帰ってくんなァァァ!!!」
俺は、不覚にも、胸の奥が熱くなった。
――その言葉を、誰よりも、欲しかった。
「どっちだよ!!」
笑い声が、夜空に弾けた。
焚き火の熱が、背中を、あたため続けた。
白波を裂いて進む船の先に、白壁の城が浮かんでいた。
嵐に抗うように、岸壁を断ち切って立つ――王城だった。
潮の匂い。帆の軋み。
俺は手すりに寄りかかり、ただ波を見ていた。
あの焚き火の夜が、皮膚の下にまだ燻っている。
焦げた肉の匂いも、笑い声も。
目を閉じれば、そこに戻れそうだった。
だけどもう、戻れない。
あの夜の俺も、ユルトの空も。
燃えきれなかった怒りが、胸の奥でまだくすぶっていた。
誰に、何に、怒ればいい。
答えは出ないまま、ただ――手を握った。
そのとき、背後から声が落ちた。
「……で、最初は何人欲しい? 王子様」
振り返ると、クヴェレとドゥールが干し魚を齧っていた。
見た目はふざけているくせに、目だけは真剣だった。
「百人規模か? それとも精鋭十人?」
「……十人もいるのかよ」
「威厳を失う口調だ」
背後から無言でメイが背筋を押し上げた。
背骨が軋む。
まるで、王子という鞘に無理やり押し込まれるみたいだった。
「語尾を濁らせるな。骨で威厳を作れ」
「……人を妖精か呪いみたいに言うな……」
苦笑する俺に、クヴェレが冷静に続けた。
「金はすぐに要るぞ。運営費、半年分で銀貨一万だ」
「依頼は?」
「探せ。奪え。繋げ」
「雑すぎるだろ!」
「王族なんだろ?甘えんな」
肩をすくめるクヴェレの横で、ドゥールが笑う。
「――生き延びたなら、使えよ。
死なせないために、金を使え。
それが、今のあんたにできることだ」
かすかに、胸の奥が鳴った。
そのとき、乾いた足音が甲板に刻まれる。
すべての空気が、冷たく締まった。
「王子殿下、そろそろ入港準備にございます」
振り返ると、そこにラニウスがいた。
完璧な礼儀。寸分の狂いもない笑顔。
だが、その瞳は俺を見ていない。
俺を『王族案件』としてしか見ていない。
「祝賀会も万端に。料理の希望はございますか?」
まるで機械のように尋ねる声。
俺は一拍だけ間を置いて、ふっと笑った。
「……串焼き。肉のやつがいい。羊でも牛でも」
あの夜、焦げた肉と煙と笑い声の夜を――
俺は、まだ手放さない。
ラニウスの目がかすかに揺れたが、すぐに無表情に戻る。
「……ビステッカですな。ご用意いたしましょう」
頷くことなく、俺は再び波を見た。
白壁の城が、波の向こうに聳えている。
あそこが、俺の火を奪うなら――
あそこが、俺を呑み込むなら――
俺は、俺の火で焼き返してやる。
たとえ肩書きが王子だろうと、関係ない。
この火は、誰のものでもない。
俺自身のものだ。
帰るんじゃない。
――燃やしに行くんだ。
燃え尽きるまで、絶対に手を離さない。