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夜を焚べる  作者: 小狐紺
2/9

砦に舞う白レースと肉の焼き方


 

「――まだ、合図はない」

 砂に覆われた崖の観測壕。砦が見下ろすその先から観測する。

 戦場のはずの砦は静かすぎた。

 まるで、爆発の前に訪れる沈黙――その中心に、あいつがいる。


 耳を澄ます。

 けれど、沈黙のほうが鋭かった。

 砲声よりも重く、皮膚を裂くような静寂――。


 観測壕の岩肌に指をかけ、身を伸ばして砦を覗き込む。

 

 背が足りない。

 けど、それでも見たい。


 胸が一つ脈打つごとに、砦が少しずつ遠くなる気がした。 


 視線を上げすぎると、もやの塊が視界の端で揺れる。

 下手に動くと、あれが寄ってくる。

 砦の向こう。

 禿山の稜線を越え、遥かな砂漠地帯を、青い旗が渡っていく。

 砂の上を、隊列の影が音もなく進んでいく。

 言葉もなく、ただ一つの波のように。


「お子さま、落ち着け。まだ観光の時間だぞ、ほら見とけ」


 胡坐をかいたドゥールが、葉巻の灰を落としながら言う。

 声はのんびりしてるが、目だけは砦から逸らさない。


「変わり映えしないじゃないか。飽きたよ」


 ……焦ってるのは自分でもわかる。

 でも無理だろ。

 あの中にメイがいる。

 何かぶっ壊す気だ。それも、でかくて確実に。


 俺たちは、ただの露払いじゃない。

 砦を破ったあとに、全てを奪う役だ。


「……まさかとは思うが、メイが危ないと?」


「違ぇよ。危ねぇのは砦の方だ。前とその前もやらかしたあいつが本気出してんだぞ」


 その一言で、ドゥールが大きく肩をすくめた。

 彼もまた、内心は俺と同じらしい。

 ――それだけで、張りつめていた息が、ひとつ抜けた。

 

 

 突然、腹に響く重低音に砦の上辺が砕け散った。

 

 ――砦の天辺が砕け、舞い上がる土煙の中、華奢なレースの裾がひるがえった。

 

 砕けた石片に囲まれて、ただ一人、風に裾を靡かせる影。

 レース裾は、血と土にまみれてなお、舞うようだった。

 ――美しすぎて、ここが砦だとは思えない。

 あれは、絵画の中から抜け出してきたように見える。

 

 傭兵、メイ。

 

 美貌と怒気と硝煙――それらを一枚の軍服のように、堂々と纏っていた。

 眉間に走るは、落雷のような怒気だった。

 聖なるものの裁きが宿るなら、きっとああいう顔をしている。

 

 唇は静かに、だが確かに動いた。

 嵐すら止まる声だった。


 砦の男たちは、その口元に心臓を握られたのだろう。

 ただ美しいというだけで、女だと見ていたにちがいない。

 

 それを砕くように、怒りは言葉になった。

 

「……俺は、男だ」

 

 その声と同時に、壊れかけの通信機が火花を散らした。 

 災害級緊急モード――最大拡声、映像つき。 

 

 遠くの隊列全体に動揺が走り、隊列が乱れた。

 届いたらしい……同情する。

 よくわからないまま、ただ混乱だけが広がっていくのが滑稽だ。


 拡大して映る、怒りに燃えた美貌の傭兵騎士は、服の裾を踏んづけて、静かに拳を震わせていた。


 世界が、沈黙した。まるで時を止めたように。 

 どうしていつも、こうなるのはこの人の番なんだ。

 


 咄嗟に視線を交わす俺とドゥール。

 言葉は要らない。これで砦を壊すのは三度目だ。

 

「ほらな?あいつなら、ちゃんと合図するって言ったろ?」

「ほらな?あいつなら、絶対、砦に穴を開けるって言ったろ?」


 もう、行くしかない。


「……じゃあ」

「まあ……」


「取り分なくなる前に行くか」 

「……って、ドゥール、漂魔の濃さ、今やばいぞ」

「怒れるメイよりマシだろ。いくぞ」


 地に横たわる者たちの無念や未練が転じた魔術の凝り――漂魔。

 霧のように舞うそれは、無差別に命を蝕む。


 漂魔の霧に紛れて、ひときわ黒く濁るものがある。

 怨嗟塊――俺は、それで何人も死ぬのを見た。

 魔術膜を焼かれ、呻く声も出ずに泥――魔術終形になった奴ら。

 

 何度か見たことがあるが、思い出したくもない。


 その先に、今回の標的――砂海帝国の国境砦があった。

 乾いた砂石の壁と黒い旗。

 国の喉元を抑える要衝。

 


 篝海王国はそれを奪還すべく、俺たち『渡り狼』を差し向けた。

 俺とドゥール、そして――


 ……メイだ。


 砦は堅牢で、普通に攻めるだけじゃ無理があった。

 ドゥールは即座にメイに命じた。


『団長命令だ。内側から開けて来い。差し入れってことでな』


「差し入れに『女装』が含まれるなんて、さぁ――」


 当然揉めた。暴れた。

 だが、じゃあ俺が女装しようか?って言ったら、ぴたりと止まって。

 重苦しい魔術圧を出したかと思うと、突然俺がやるって言い出した。


 砦の上で、また何かが爆ぜた。

 思わず目を細める。


 魅惑の青い目に、結い上げられた麗しの黒い巻き髪。

 あのときの姿が脳裏をよぎる。

 嫌がるその横顔は、妙に艶やかで――それが、いっそ罪だった。

 

 あまりの絵面に、団員たちは何も言えなくなった。

 誰もがその姿を『見てはいけない記憶』として脳に封印した。

 

「どうして入れたんだ、あれで……」

「あそこの砂海の砦長って、確か色好みの貴族だったろ?あとメイ、貴婦人の振る舞い完璧だしな」

「それがまたムカつくんだよ……!」

 

 能面のような顔をしながらも、完璧に化けたメイは、沈黙と共に砦の中へ消えた。

 団員に無意識にエスコートされながら。

 

 ……あのとき、ふとよぎったんだ。

 

『これ、本人より周りの方が女だと思い始めてないか?』って。

 俺も、その一人だったかもしれない。

 

 それが、ちくりと胸に刺さってる。

 あいつの拳骨一発で、元に戻るけどさ。


 

 砦の内壁が軋み、地鳴りのような呻きが響いた。

 破裂音。腹の底まで震える、砲弾の咆哮。


 気づいた時には、ドゥールの手が襟を掴んでいた。

「待て、ドゥール、待――おいっ!」

 言い終える前に空を飛んでいた。 

 

 撃ったのは――メイ。

 砲口は、冗談じゃ済まない方向を向いてた。


 

 

 ……砂風。空。レース。


 翻っていたのは、白いレース――まるで空に溶ける、儚い命の名残。

 ……あれ、俺、死んだ?


 夢じゃなかった。俺は、確かに空を飛んでた。

 嘘みたいに軽かった。でも、重力も風も、全部――現実だった。 

 

 爆風が漂魔を裂き、その隙間をドゥールが黒い稲妻のように駆け抜けてきた。

 

 命を溶かす漂魔の霧を跳び越え、砦の壁にほぼ顔面から激突する――直前。

 風のように舞い降りたメイが俺の足を掴み、そのまま壁際を逸らしてくれた。


「おい、ノート。着地くらい自力でしろ」

「合図なしでぶん投げられたんだ。文句は頭領に言え」

「あの人が考慮するわけないだろ?

 さ、傭兵王子。生きて戻れよ」


 ちらりと砦外を見下ろす。 

 

「やばい、あの人外もう来る。中、片付けるぞ」

「半分は片付いてる。介助が必要か?」

「……いい、討ちもらしだけ頼む」

「承知いたしました」

「近衛騎士仕様やめろ」


 地獄でも、笑える。

 この命が向かう先に、皆の笑い声があるなら。

 

 

 

 非常警報が喧しく鳴り響く中、通った先から順に、敵が沈黙していく。


 メイは剣を片手に静かに、スカートの裾へと指を滑らせる。

 その横顔は――無言の殺意。


 たくし上げた裾から、ガーターに隠された短銃と投擲弾が覗く。


「……誰だ、ガーターベルト用意した奴は」


 一瞬、メイと目が合った。


 俺の心臓が、一瞬止まった。……死んだ。死にました。

 無表情で銃を構える彼の姿は、問答無用の死の使いだった。


 ――と、その時。


「せ、聖女……っ」

 曲がり角から現れた敵が、惚けた声を漏らす。

「……言葉を選ぶ暇はなかったんです、許して」


「誰がだ」

 パン。


 ……俺は何も見なかったし、聞こえなかった。

 


「左、任せた」

「右、陰三」


 言葉は要らない。だが、言えば速い。


 敵の剣を避け損ねた瞬間、メイの剣が腕を斬り落とし、

 そのまま反転蹴りで一人を壁へ叩き込む。


 俺は槍を拾い、振り上げた瞬間――柄が折れた。

 投擲弾が足元で爆ぜ、煙と砂塵が一気に巻き上がる。

 視界が霞み、何も見えねえ!

 と叫んで、跳んだ。

 

 敵の肩を踏み台にして、旋回しながら後ろ回し蹴り。


「何だ今の……俺、ちょっと今、かっこよかったか?」

「二秒だけな」 

 その一言の直後、メイは血まみれの剣を無言で振るった。

 返り血が頬を染めても、まばたきすらしない。

 

 ――ああ、やっぱりこの人、戦場の死だ。


 

 連携は、水流のように淀みない。

 敵が次々と倒れ、静寂だけが残った。

 こびりついた血と、割れた器のような沈黙――


 軋む扉。開いた隙間から、白いレースが揺れた。

 白皙の脚。銀の短銃。絵画めいた美貌。

 そして――戦場を凍らせる、殺気。


 ただ部屋に踏み込んだだけで、兵たちは動けなくなった。


「……聖女、だと……」


 その一拍の隙に、俺は滑り込む。


「失礼」


 突き出した投げ槍は、わずかに届かない――

 が、敵が反応した瞬間。


 バン、バン。


 短銃が二発。俺の槍をかすめて、肩と膝を撃ち抜いた。


「合わせろ、ノート」

「こっちが合わせたんだけど?」

 

  

 縛りあげ、次の扉を開けると、そこは兵の寝室だった。 

 数人の兵が布団にもぐりこみ、何やらベッドの脚だけががたがたと揺れている。

 

 非常警報は未だに鳴っている。

 ……ある意味猛者どもか。いや、メイの美しさの罪――。

 

「……」

「な、なあ、……メイ、さん……?」

 

 メイは何も言わず、ゆっくりとすすむ。

 一歩、一歩。真顔で歩く。

 

 パン。眉間。

 装填。

 パン。パン。胸、腹。


 ベッドの上で痙攣する兵の横で、「いや違う俺は本当に寝てたんだ」と言いかけた瞬間――


 パン。


「寝てたなら、もっと前に爆発音で起きてたろ」


 ……メイは一度だけ、眉をひそめた。


 俺は、思わず後ずさった。


「女として生きたほうが幸せだったとか、思ってすまない……」


 

 

 兵の寝室を抜けた先、廊下の先から、カチャリと皿の鳴る音がした。

 銃声にも、砦の壁の崩落にも無反応で、それだけが流れている。

 この砦は漂魔のせいでほぼ魔術が使えない。

 

 その砦の非常警報を力ずくでとめてる辺り、すごい魔術の使い手なんだろう。


「……まさか、昼飯?」

「そのまさからしい」


 慎重に扉を押し開ける。

 薄暗い食堂――

 その奥に、場違いな空気がひとつ。


 長テーブルの中央に座った男が、銀のスプーンをひねりながら、香辛料の匂い立つ皿に口をつけていた。

 金糸の刺繍が施された立ち襟。肩章が大げさなほど膨らんだ、濃紺の将官服。

 白手袋の指先で、料理人の皿からスープを啜っている。

 香油の匂い。整えすぎた口髭。整いすぎた睫毛。


 「粗野な味も、戦場では趣ですな」


 将官はメイを見た。目線が、ゆっくりと這い上がる。


 その瞬間、フォークが飛んだ。


 金属が肉を裂く音。

 将官の右目に、真っすぐ突き刺さっていた。


 「……目線が、垂れていた」


 メイはただそれだけ言い、銃も剣も抜かずに背を向けた。

 料理人がテーブルの下で腰を抜かした音が、妙に響いた。


「……あのな、メイ」

「なに」

「殺る前に、せめて合図とかさ」

「無理。お前の顔、苦笑いしてたから」 

「見てたのかよ……!」

 

 


 隣室に踏み込んだ瞬間、乱闘だった。

 兵士三人が通路を塞ぎ、後ろからも足音が迫る。

 

 メイが前、俺が後ろ。

「任せ――うわっ!」

 

 壁に蹴り飛ばされた拍子に、俺の身体は窓際へ。

 手すりにぶつかった反動で、そのまま外へ落ちた。

 

「わわっわっ、わっ――っ!」

 

 空気を切る音、回転する視界、そして――

 窓。

 

 下の階の窓を足で蹴破り、ガラスを割って突入。

 着地の勢いで転がりながら、即座に短銃を抜く。

 

 バン。バン。

 二人の兵が倒れる。

 

「っ……はぁ、はぁ……」

 

 落ち着く暇もなく、天井から軋む音。

 

「……嘘だろ?」

 

 天井板が破れ、兵士と瓦礫が降ってくる。

 その衝撃で床も抜けた。

 

「ちょっ、おい?!俺今日やばくない!?」

 

 三階の床をぶち抜いて、二階の台所へ――転がった先にはメイ。

「遅い」

「いや早すぎなんだよ色々!!」


 

 ――扉が軋んで悲鳴を上げた瞬間、何かが後ろから突っ込んできた。 

 

 ドゥールだ。ここまで最短で制圧してきたようだ。

 

「よし、仕上げだ」

 

 共に掲揚台まで駆け抜けて、砦の頂に篝海の旗を突き刺すと、傭兵団『渡り狼』の団長は空に向かって雄叫びをあげた。


「我ら、勝利せり――ッ!……っと言いたいが、まだ片付けが残ってるな!」

 

 ドゥールの声が空に響き、残っていた漂魔の霧が引いていく。

 

 揺れる篝海の青は今だけ、豊かな海のようだった。

 あまりにも静かで、儚くて、平和と呼ぶには遠すぎる。


 静けさが沁みる。

 平和ってやつは思ったより、声が小さい。


 ……と、思った矢先だった。


 ゴロン、と重たい音。

 顔面にベッドの脚が衝突した。


「ああもう……誰だよ、こんなとこに隠れ家作った奴!」

 


 午前中に砦は落ちた。

 

 ざらりとした砂が、鉄臭を引きずって吹いた。

 焦げた木材の残り香が、遠火のように鼻を刺す。

 風はただ、敵味方の名を知らぬまま、その全てをさらっていった。

 

 中庭に、煙が上がっていた。

 ドゥールが食堂から巨大な塊肉を抱えてきて、手早く火を起こしたらしい。

 煙いし、灰は飛ぶし、肉はまるごと炙られている。


「ほらほら、飯だ。

 三秒で食え!」

 

 叫んで急拵えのテーブルの、これまた急拵えの魔術の皿にどかん、と塊がのる。

 そこら辺に落ちてた剣を火で炙って清めると、適当に切り分ける。


 火にあぶられた肉の匂いが、中庭に立ち込める。

 腹が鳴った。ドゥールも、メイも、無言でフォーク代わりのナイフを閃かせる。


 ──なんとなく、訊いてみた。


「ドゥール、さ。……傭兵団なくなったら、どうする?」


 頭領はナイフを火から引き上げながら、あっけらかんと笑った。


「団がなくならないようにするのが、俺の役目だが……。

 お前が訊きたいのはそういうのじゃないな。

 そうだなぁ……。

 俺は馬族の出だからな。

 馬追う部族に戻るな」

「馬……追う?」


「ああ。草原を走り回って、ユルトを張って暮らす。

 金が欲しけりゃ、街で交易の橋渡しや護衛でもするさ。

 ……まあ、今とそんなに変わらんな」


 俺は、どこか眩しい気持ちでそれを聞いた。

 この人は、どこにでも帰れるんだ。

 どこにいても、生きていけるんだ。


 ──いいな、と思った。


 そのままドゥールが唐突に肉を掲げる。


「篝海じゃ、これをビステッカって呼ぶらしい」 


 俺は焼け焦げた先端を恐る恐るかじりながら聞いた。


「深森じゃ『シュテーク』だな。炭火でじっくり炙るやつだ」

 メイがそっけなく答える。

 炭の香りがつくのがいいんだと、ぼそりと付け加えた。


「砂海だと、『シシクル』。石を熱してその上で炙る。

 ……たまに石ごと食う馬鹿もいるけどな」

 

「え」

「やったのは俺だ」


 ちょっとだけ吹き出した。

 ドゥールならやりかねないと思った。


「……『ビステッカ』――大きい肉を、炎で直に炙る。

 強い火で、外側が焦げる寸前まで一気に焼く」

 メイが低く言った。

 

「ふーん……なんか、篝火って感じするな」


 俺が呟くと、ドゥールがにやっと笑った。


「当たりだ。

 連中、焚き火を囲んで肉を焼くのが好きだからな」


 なるほど、と俺は思った。


 煙い中で、肉をかじりながら、知らない国の焼き方を知る。

 たったそれだけのことが、妙に心に引っかかった。


(こういうの、忘れたくないな)


「……こっちの方が、うまい」


 急に、メイがぼそっと言った。

 誰に向けるでもない、低い声で。


「なにと比べて?」


 俺が振り向くと、メイはちょっとだけ、目を伏せた。


「……昔、よく食ってたやつと」


 それ以上は言わなかったけれど、たぶん、俺にはわかった気がした。


 誰かと火を起こして肉を焼いて、腹を満たす。

 それだけのことが、なにより宝物みたいになるんだな。


 俺は焦げた肉片を見つめた。

 少しだけ残った肉の香りが時間を越えて、

 記憶にしっかりと刻まれた気がした。

 

 この日の味、火の温もり、そして――

 「思い出」って、こんな風に感じるんだろうか。


「おい、ノート。手、止まってんぞ。没収するぞ?」


 案の定、ドゥールがニヤニヤして叫んできた。

 俺は慌てて肉を頬張る。熱い。口の中が地獄だ。


「……三秒って、冗談じゃなかったのかよ!!」


 笑い声と煙と、かすれた昼の光。

 この全部が、たぶん、俺にとって一生ものだ。


 


 昼過ぎには篝海の小隊が到着し、占拠と後始末を任せて、俺たちは麓の仮拠点へ引き上げた。

 今回は山と岩影に隠すように、移動式住居ユルトを設置していた。


 戻ったのは、渡り狼のユルト――薄汚れて、息づいていた。

 うるさい。

 でも……崖を覆っていた砂塵より、ずっと生きている匂いだ。


「子どもたちを頼む。……お前にしか、任せられない」

「……ああ。俺がやる。魔術膜も、心も、乱さない」


 ドゥールが言い、メイが無言で頷いた。


 任された。

 子どもたちと、この一張の静けさを。

 その場に残った足音は、もう俺だけのものだった。 

 


 子どもたちはちょうどユルトの裏で昼を終えたところだった。

 俺の姿を見つけて、わっと駆け寄ってくる。


「……ちょっと待ってな。今、戦の顔を洗ってくる」


 瓶詰めの薬草水で手を洗い、顔をぬぐう。砂がざらっと流れ落ちて、少しだけ、戦の匂いが遠のいた。

 幼い子どもたちも真似して、片付けそびれた洗濯バケツの水でぱしゃぱしゃ手を洗っている。


 普段であれば長老や魔術医に報告に向かうが、今回本隊とは別行動。

 ユルトは一張だけ。

 子ども達は12人。

 

 今回は、『重い死』の気配がなかった。

 だからこそ、子どもたちを連れてきた。 

 俺たちの背を見せる。仕事を、報酬を、その意味を。

 それがドゥールとクヴェレの教えだった。

 

 だから今日だけは、俺が『背中』になる。



  

 袖裾をひいてこっそり尋ねる子にそっと歩調をあわせる。

 

「ねえ、メイ兄さん……怪我したの?」

「ん?ミュルカ、どうしてそう思った?」  

「……だって、ずっと難しい顔してたもの」

「ああ。ちょっと、疲れてるだけ。大丈夫。少し休めば、すぐ戻るよ」

「……ノートが嘘をつくはずないもん」

「よし、そんな優しいミュルカに、これをあげよう」

 

 戦場で引き裂かれた誰かの布。

 手放せずにいたのは、俺の弱さか、執着か――

 ……いや、もういい。今は、この子のために渡す。 


「……なにこれ?」

「戦場に舞い降りた聖女の欠片。

 目に映った者の中から、ひとりだけ選んで、祝福してくれるんだ」

「ほんとに?」

 

「ほんと。でも……これは、剣の匂いが苦手なんだ。

 熱と鉄のにおいがするところでは、溶けてしまう。

 とくに、メイに見せると焼けて壊れちゃう。

 だから、絶対に内緒だよ」

 

「……すごく綺麗。レースみたい。うん、私だけのお守りにする」

「…………うん……」


 聖女なんて、どこにもいない。

 でも――せめてこの子の祈りの中では、息をしていてくれ。 

 

  

 昼食の片付けが終われば、しばし自由時間。

 普段なら、好きなことを好きなだけ。遊びの中に、技術を見つけていく。


 今日は少し違った。

 俺が武器を解体して見せる。みんなが、質問してくる。

 教えるような顔じゃないのに、不思議と、そんな顔をしていた。

 


「……それでドゥールはどうしたの?」

「俺を漂魔の向こうへ投げ飛ばしたよ」

「投げ飛ばす?!」

「そう、首根っこ掴んで遠心力を少し入れて……ああ、投擲の魔術も使ってたんだな、あれ」


 そんな会話をしていた時だった。


 空気が、裏返った。

 世界が別の顔にすり替わった気がした。

 

 ぞわり、と。肌の奥に砂が入り込むような。

 次の瞬間、背中が凍るほどの気配が、背を撃ち抜いた。

 

 

 ざらり。誰かが、耳元で舌打ちをした気がした。

 いや――あれは、風だったのか?

 

 焼け焦げた香と、甘いような、腐ったような匂い。

 まるで生きた砂が、傷口を探して這ってくるみたいな――そんな感覚。 


 辺りを見回す。

 ユルトの境界の向こう側、すぐそこ。

 砂と漂魔がいつの間にか取り巻いていた。

 

「キルン!オリブ、ラダ、お姉さん達を守る役目を君たちに任せる。

 タミン、アッジャ、スナヤ、君たちの命とできたら荷物を頼む。

 ネンカ、ジール、フィネリカ、年長者を助けてやって。

 ――ミュルカ、サイラ、ルシェム、年少の子を頼むよ。

 

 ……みんな、一旦ユルトに入ろう」

 

 みな幼いとはいえ傭兵団の端くれ。

 異常事態に気づくと、すぐ指示に従ってくれた。


 

 ユルトの入り口には、緑の飾り玉が吊るされていた。

 湿った空気のなか、翠のお守りは――まるで脈打つように、淡く呼吸していた。


 境界の向こうから、漂魔も砂も忍び込もうとする。

 けれど、翠のお守りに弾かれて、境の外をぐるぐると回るのが関の山だった。

 魔術が尽きれば、あとは消えるだけ。

 ――それが、いつものことだった。


 けれど今日は、そうはいかなかった。


 幸運は、そこでぷつりと切れた。

 代わりにやって来たのは――砂と、死だった。


 空の向こうから、誰かに睨まれているような圧。

 冷たく、意志を帯びた気配だった。


 赤い閃光が、視界を焼いた。

 次の瞬間、翠のお守りが甲高く悲鳴をあげて砕け散る。

 

 響いた音が空気を裂いた。

 結界は、跡形もなく霧散した。


 その刹那、漂魔と砂がひとつになり、砂嵐へと成り上がる。

 激しい勢いに、咄嗟にユルトの前へと身を出した。

 身に収めていた魔術を、体の外――ユルトを覆うように広げる。


 漂魔が俺の魔術に触れた瞬間、肌の下で、何かが蠢いた。

 じわじわと、だが確実に。

 魔術膜の裏側から、内臓をこじ開けてくるような感覚。


 魔術膜が、紙のようにきしみながら――ひび割れていく。


 これは、『いつもの漂魔』じゃない。

 


 それは、微かな声だった。

 ユルトの中――守っていたはずの、その内側から。


「……ノート……っ……」


 子どもの――か細く、震える声。

 それだけで、背筋が凍った。


 俺は振り返る。

 ユルトの布をかき分け、光の中に目を凝らした。


 ――そこに、砂嵐があった。

 ユルトの内側にまで吹き込んでいる、ありえない光景。

 それはただの砂じゃない。漂魔と結びついた『魔術災害』だ。

 俺たちの結界を突き破り、侵入してきていた。


 視界の奥、床に倒れる子どもたち。

 ――ミュルカ。


 いちばん手前に倒れた彼女の手が、硬く、石のように。

 

 薄く、だが確かに魔術凝固――魔術濃度が上がりすぎて固体化する事象――が肌に起き始めている。


「ミュルカ……っ……!」


 足が、意志より先に動いた。

 空気が重い。砂の魔術が満ちて、呼吸するたびに喉が焼ける。


「だめだ、入るな……!」


 自分で自分を制止する声が出たが、止まらない。

 魔術膜が警告音のように全身で軋む。

 でも俺は――子どもたちを置いて逃げるわけにはいかない。


 ミュルカの隣、ラダ。

 ……間に合わなかった。

 身体の半分が、すでに帰結体へと変わりつつある。


「淡い光が……違う、これは……ラダが、もう――」


 彼の瞳は閉じられたまま。

 魔術が、内側で疼いた。

 それは、染み出すように、外へ――零れ、広がっていく。


 ……やばい。

 このままじゃ、俺自身が魔術の嵐の核になる。


 全身を駆け巡る痛み。

 肺が焼けるように苦しくて、喉から洩れた息は、魔術の光に変わった。

 頬がかたくなりだし、引き攣れる。


「……誰か、誰か応答して……!ミュルカ、サイラ、ルシェム……!」

 

 赤い……違う。これは、血か。


「ネンカ、ジール、フィネリカ……返事してくれ……!」

 

 風が、啜り泣くように巻き込んでいく。


「タミン……アッジャ、スナヤ……キルン!

 オリブ、ラダ……ッ!」

 

 名を呼ぶたびに、何かが崩れる音がした。


「――ネンカ……返事を……!

 いや、ちが……違う、これ、風……風の音……」


 それが、子どもたちから剥がれ落ちる心だったのか。

 それとも、自分の中の何かだったのか。

 もう、分からなかった。


「――お願いだ……!」


 まだ、間に合うと信じたかった。

 その名を呼べば、返事が返ってくると――。


 魔術膜が、ざわめく。

 内側のすべてが、悲鳴を上げるように、震えていた。


「……ノ……――ノート――」

「ミュルカ!」


 

「……ごめんね」


 いつもおどおどしながら、真先に弟を庇うミュルカが――笑った。


 ぱきん。

 直後、彼女の身体が魔術凝固に閉じ込められる。

 それは命の終わりを意味していた。


「ミュルカ――!」


 いけない一滴が、心の真ん中に落ちた。

 それは怒りじゃない。悲しみでもない。


 ……名付けようのない、何かだった。


 俺という存在が、音を立てて、崩れていった。

 


  

 全身が熱くて、冷たい。

 心臓が焼け焦げるほど熱いのに、指先は凍えて動かない。

 

 魔術を放出しても放出しても、終わらない。

 内側の何かが、ずっと叫んでいる。


 視界が歪む。

 空が傾き、地平が裏返る。

 空の下を、逆さの空魚が滑っていた。


 見えるはずのない風景が、網膜を焼いた。

「……軍本陣が、燃えてる……?

 空魚――空魚雷が、爆ぜた……血の海が広がって……剣が、折れて……誰かが――」

 

「メイ……? 違う。そんなの、認めない……!」

 叫びが、喉を破って漏れた。

 

 けれど、それすら魔術の光に呑みこまれて――

 視界が閃光に塗り潰される。

 

 熱と冷気と狂気が渦を巻き、俺の全身を駆け抜ける。 

 風の流れが変わった。

 

 砂嵐が、俺を中心に沈黙する。

 世界が――俺の怒りを、意志を、待っている。

 

 静寂が落ちた。

 すべてが、目を伏せるように止まった。


 

 

 その日、砂海と篝海の国境域で王族の魔術暴走が起きた。

 

 一帯はほぼ魔術凝固し、幾千の命が、声すらあげずに光る彫像と化した。

 両軍は、地図ごと消えた戦場を前に、撤退せざるを得なかった。



 

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