お助け精算券と片秤のリスト
封蝋が光った瞬間、クヴェレのおっさんの声が爆ぜた。
声だけで白封筒の意味を、全員が悟った。
「出たァ!魔術銀行名物、地獄送りの白封筒!」
銀の錠前を象った魔術銀行の封蝋。
白封筒のそれは、金と死の招待状だ。
魔術銀行アルゲンタリア――世界の心臓。
いや、世界の心臓というか、銀貨の化け物だ。
魔術と金を世間にドクドク流し込みながら、俺たちの血を抜くポンプ。
金をさわらない奴でもない限り、皆大なり小なり縁を持つ。
一国の通貨が紙くずになる程度なら、彼らのくしゃみにも及ばない。
魔術濃度が高すぎて、身体の弱いやつは銀行の入り口で失神してしまうとか。だから魔術の弱い出張所が街のあちこちに設置されている。
奴らは魔術で動く。契約で刺す。
『命に見合う報酬』をちらつかせて、裏には地獄を隠してる。
靴底の泥程度の俺らが、見上げて良い相手じゃねぇ。
「あばよ干し肉!くたばれ洗濯石鹸!
乳絞り地獄とも今日でおさらばだァ!」
……片足跳ねの三三七拍子。砂漠の鼠が踊ってる。牙を忘れた狼のように、無邪気に。
あれがうちの副団長兼金庫番だなんて認めたくない。もっと格好良かったはずなんだ。
背筋を撫でた冷気は、風のせいじゃなかった。
あの茶色い短髪の砂漠男が踊るときは、いつもろくでもない運命が笑ってる。
傭兵団『渡り狼』。
昔誇った牙も、今は燻った炭に埋もれてる。
風ひとつで、灰になる寸前だ。
晩飯は、羊乳が滲んだパンの切れ端。
テントは穴あき、夜は氷点下。
尊厳?とうに羊任せ。
敵より乾かぬ下着の方が強敵だ。
手で挟めば腹は守れる。
体調崩して寝込んだが。
仕方ないから、今日も傭兵団羊印の乳を絞って、チーズと干し肉も作って日銭を稼ぐ。
傭兵としての誇り?羊のエサ以下だな。
非戦闘班も街で頑張ってる。
皆生活できる程度には。
財布を分けてなきゃ、団ごと死んでた。
今、死にかけてるのは、俺たち戦闘班だけで済んでる。
そこに届いたこの封筒。
俺ら錆びた武器に、何を守れっていうんだ?
魔術銀行からの依頼書、通称「魔銀案件」の中身は決まって、金と死だ。
銀行の信用リスト最下位の奴に送られる、伝説の組み合わせ『業務検討依頼書』と『取引停止検討通知書』が入っているらしい。
封を切らずとも、金と死の気配が漂ってきた。
前回、魔術銀行案件で生きて帰ったのは三人中、一人だけ。
二度と行きたくねぇと思っても、金が尽きりゃ、縄が首に掛かる。それが養豚場の厩舎行きか作業場行きかはさておき。
クヴェレは、はしゃいでる。
団長が一度挽回して、その上ちゃんと信用を上げたからだろう。決死の依頼で損失はあれ、一度勝ってしまったから。
しかも彼のいない時に。
だからあの時の団長を知らない。
団長ドゥールは踊るクヴェレに一瞥もくれず、そっと眉間を押さえた。まるでデカくて真っ黒な猟犬が、戸惑ってるみたいだ。
何かを思い出したように、深く目を閉じる。
机の引き出しにそっと手を伸ばし、胃薬の小瓶を取り出す。
「死ぬなら戦場だろ。机と紙じゃ、魂まで死ぬ」
吠えない犬のような男、クヴェレは、壊れてなんかいなかった。
むしろ、現実に殺されそうな顔をして、眼鏡をなおした。
「書類ってのは楽な死に方だよな。
血も出ねぇし、骨も折れねぇ。ただ、魂が干からびる。
今は戦の谷間、仕事砂漠だ。金も血も乾いてらぁ。
明日は今月の諸経費支払日だ。
命を担保に借りてでも、今日稼がなきゃ、明日は来ねぇ。
剣か臓器でも売るか?なぁ、団長」
「…………………………話を聞くだけだ」
金眼に苦悩をにじませ、呟いたドゥールの肩を、クヴェレが陽気に抱く。
「よぅし、出陣だ!来い、メイ!」
稼ぎ頭に逃げるという選択肢を、最初から無かった。
明るい茶眼に睨まれただけで、メイは黙って立ち上がる。
背筋は真っ直ぐ、命令に、反射で応じた。いつも通り。
「……俺は犬か」
声には怒りも皮肉もなかった。その呟きは、火傷の痕を舐めるようだった。
わかってる。メイは、そういう奴だ。
命令なら、どんなに理不尽でも。
あの背に宿るのは、磨きぬかれた美しい猟犬のような気配。
背を預けたくなるその背中に、気が緩む暇なんて与えられない。
苦いもんほど、噛みしめて味にしたくなるんだよ、大人は。
一拍おいて、メイがちらと青い眼光を寄越す。
目が言葉より先に、何かを探っていた。
「ノート。お前も来い」
命令のようでいて、重さを含んだ、乾いた響きだった。
「なんでだ。俺は今日は洗濯当番――」
「お、いいな。弟分がそばにいると、メイは無敵だからな。
妙に――重心が定まる」
「……っ、はいはい、行きますよ!」
そして、洗濯当番の俺。
我らが金庫番に勝てる奴なんかいない。
……俺だけ下着買ってもらったしな。
くそ。また踊らされる。
俺は何だ、夜泣きチビの安眠ぬいぐるみか。
どうせ朝には、サンドバッグにされてんだよ。
石鹸でも飲んで泡吹いて死ぬ方が、よっぽど傭兵らしい気がする。
「てめぇら、死ぬ気で稼ぐぞ!貧乏に情けはねぇ!
まずは身だしなみからだ!」
クヴェレの声が、御者台から響く。
俺たちは、皮だけは高く売れそうな狼だ。
中身は干し肉。調理済み。味も希望も抜けてる。
馬車の中、俺はクヴェレから依頼書をひったくって、ドゥールに渡した。
中身を見た途端、団長の目から光が逃げた。
のぞき込んだ俺も、今すぐ馬車を降りたくなった。
現場:秘匿。内容:警備。危険度:不明。
銀で書かれたその一文が、まるで氷針のように刺さる。
『命に見合う報酬は支払う』
それは契約じゃない。処刑宣告だ。
隣のメイは、紙に指を這わせた。
目ではなく、皮膚で読むような仕草だった。
紙の向こうに、血の匂いでも嗅ぎ取ろうとしてるみたいに。
書類を畳んで、ドゥールは昔の傷を思い出したように笑った。
「……命に見合う報酬、ねぇ。――まあ、話だけ、な?」
本当。引き受けようとするうちの金庫番の気が知れない。
だが。
狂ってるのは、金庫番だけじゃない。
俺たち渡り狼の眼光は、鈍らない。
明日が地獄でも構わない。
牙を研ぐ。それが、生きてる証だ。
――――――――――――――――――
2
連れてこられたのは、傭兵組合。
契約も金も、人の生き死にも、ここを通る。
死体の処理だけは受け付けてない――表向きはな。
風呂に突き落とされ、嫌ってほど磨かれた。
粗塩をぶちまけられた瞬間、「塩漬けかよ」と毒づきたかったが、口を開けば塩が入る。
耳の裏まで洗われ、湯から上がる頃には、どこかの皮が剥けてた。
湯から上がった俺たちは、死人より整っていた。
鎧を脱ぎ、皮膚を脱ぎ、何もかも剥がされた。
あとは、魂の値札をつけるだけ。
爪を切られ、髪を整えられ、最後には、眉までいじられた。
『獣』だった俺が、『紳士』に成り下がった。
俺の血と汗と泥と、ここでは『取るに足らない汚れ』だったらしい。
「ほらよ、銀行仕様。血も涙も染み込まねぇ」
仕立てのいいシャツに、呪い避けの短い銀糸が縫い込まれたジャケット。
借り物のくせに、俺の貯金じゃ袖のボタンすら買えねぇや。
背中に張り付く布の冷たさが、他人の皮膚みたいだった。
装備の整った俺たちは、別の馬車に乗せられた。
目的地は、魔術銀行アルゲンタリア。篝海王国ソライオン支部。
石造りの館は、街の影から摘み取られたように、そこだけ異質に建っていた。
外観こそ街並みに馴染むが、誰も近づこうとはしない。
街の喧騒が届かぬ静けさは、祈りの前夜のようだった。
だが、その『あまりの静寂』こそが、底知れぬ恐ろしさだった。
扉に手をかけたのは、交渉役のクヴェレだ。
魔術銀行の第一扉。魔術履歴の足りぬ者には、開かない。
重い音とともに扉が開くと、吐き出されるような冷気が足元を這った。
総夜大理石張りの空間は光と音を吸い、魔術濃度と変質履歴を静かに測る。
心が澄む、というより、防壁魔術を裸にされる感覚があった。
入ってすぐ目に入るのは、壁面の金言。
傭兵稼業に古語は必須だ。
戦場に眠る遺跡の文様を読めるか否かで、生死が分かれる。
この金言もまた、古代語だった。
『魔術は人を拓き、また人を壊す』。
中央奥、天井に埋め込まれた石の林檎の樹。
その枝に夜栗鼠がもこもこの体を揺らして、こちらを監視する。つぶらな瞳の奥に変質も詐称も逃さぬ牙を隠していた。
金言の真下には、古びた木の扉。
素朴な外見に騙されるな。
あれこそ第二の査定。
通す者と通さぬ者を、用途別に見分ける判別器だ。
「……見慣れないからか違和感があるな」
クヴェレの呟きが耳を打つ。
思わず自分の姿に目を落とした。
確かに、副団長のような馴染む落ち着きは俺にゃ無理だ。
着慣れない服装が、締め付けるように重い。
襟も裾も落ち着かず、背には汗が滲んでいた。
全身に『何の値打ちがある?』と貼り紙されたような気分だ。
歩くだけで、値踏みされている。
『それっぽさ』に値段がつくなら、俺はいくらで売れるんだろうな。
苦笑いすら出なかった。
答えは出ないまま、黒豹のように着こなすドゥールの背を追って歩く。
「ノート、タイを締めすぎだ」
メイに襟元を直され、少し息がつけた。
彼は表情ひとつ動かさず、ただ空気を支配する。
黒髪は光を吸い、芸術品じみた顔は感情を見せない。
でも、腰の剣と張り詰めた背筋が語っていた。
あの人は飾りじゃない。
戦場の気配を、誰よりもまとっている。
クヴェレが色褪せた銀の取手に手をかける。
軋む音とともに、扉が開いた。
燻んだ青に、静かな金を差した空間。
行員たちが無言で立ち働き、水晶板には魔術濃度測定陣が映り、記録球が音もなく滑っていく。
受付の奥で、ひときわ大きな帳簿を抱えた担当者が、こちらに視線を向けた――そして、笑った。
「いらっしゃいませ、クヴェレ様。
出資のご相談ですね?
まずは魔術履歴と濃度記録のご提出を」
隣のクヴェレが、微笑んでわずかに顔を引きつらせるのが見えた。
そして、無言で扉を閉じた。きちんと、静かに。
「……やべ、間違えた」
俺は、彼の袖を引いた。
一言すら、場には余計だった。
――――――――――――――――――
3
気を取り直して、再度開いた扉の先へ入る。
薄灰色の応接室は妙に広く、音が吸い込まれた。
足音が吸い込まれるたび、何かが俺たちを値踏みしている気がする。
反対側の扉が静かに開き、きっちりとしたスーツの小男が現れた。
小柄な男は、シミ一つない名刺を差し出す。
『アルゲンタリア東方資産管理本部・鑑定第三課・出張二班 トルティ・トルティ』
召喚呪文かよ。てめぇ一人で、名前が二項目じゃねぇか。
声色も足音も、異様なほど静かだった。
けれどそのまま、男は淡々と要件を語りだす。
未公開の魔術遺産が一日限りで公開・鑑定される。
その警備と立ち会いに、急遽渡り狼が選ばれたという。
「この依頼、申し訳ないが辞退する」
ドゥールの返答は即決だった。
「うちは戦場で稼ぐんでね。
魔術の遺産だかなんだかは、学者様に任せるよ。
それにうちのガキどもには、命の値札なんて貼らせねぇ。
俺が、それを一度でも貼ったらな……そしたら、あいつら、もう泣き声すら上げなくなる。
俺はそれが、一番怖ぇんでね」
筋は通ってる。誰だって納得する。
けれど。
クヴェレがわずかに目を細め、男を見つめていた。
「それは、残念です」
トルティは、一礼と同時に一歩下がった。
それはまるで、舞台の幕を引く合図だった。
「……詳細は上級魔術師様から、直接お伺いください」
トルティは、おもむろに懐から紙切れを取り出した。
俺は紙片を見た瞬間、視界の端が揺らいだ。
鼓膜がヒールの音を思い出した。
――あの夜。
ヒールの音が、鼓膜を割った。
従事中に口内を切った日の夜が、血ごと口に戻ってきた。
酒場の外席。
グラスの中で酒が揺れ、その反射がドゥールの背に滲んだ。
帳簿を睨むクヴェレの独り言が、煙のように空に散った。
そこに高いヒールの音と、氷点下の声が割って入ったんだ。
「そろそろ、貸し返してもらってもいい頃合じゃない?」
「やだね。俺、忘れっぽいんだ。命借りたとか、そういう細かいのは特に」
火花が散る気配に、俺も身構えた。
けど、ドゥールはふいに手帳をめくり、炭筆で一行だけ書きつけた。
『お助け精算券──持参人の要請を一件、即時に履行する。期限無効。』
「これでチャラだろ」
笑い声はなかった。
夜が遠のく。
目の前にあるのは、過去じゃない。今だ。
まさかあの券を、初対面のこいつが持ち出してくるなんて。
焦げ茶の端がほつれた、薄汚れた紙切れ。
歪んだ黒炭の筆跡が踊っている。
『お助け精算券──持参人の要請を一件、即時に履行する。期限無効。』
団長が彼女に押し付けた手作りの券。
ドゥールの金眼が、虚ろに萎んでいた。
普段なら、どんな場面も呑み込むあの視線が──今は、椅子の背に凭れたまま脚を引いている。
逃げ道を、探していた。無意識のうちに。
くしゃ、と顔が歪む。感情じゃない、記憶の圧で。
ああ、今、この人の心は、過去に攫われたんだ。
その一瞬で、わかった。
これは、あの孤児たちよりも深く、重い地雷だ。
触れた瞬間、心ごと爆ぜるような──そういうやつだ。
……そして。
音のない風が、空の隙間から忍び込んだ。
ふわりと風がそよいだ瞬間、空気が跪いた。
言葉より先に、世界が彼女に従った。
「お久しぶりね、ドゥール」
その声だけで、椅子の軋みも、喉の音も、止まった。
「まだ私の『借り』、精算してなかったでしょう?」
クヴェレは瞬きすら忘れた。
メイは目を伏せた。
俺の心臓が、跳ねた。
懐かしさ、憧れ、そして少しの、怖さ。
ハーナ。
魔術師の塔ノワール所属の上級魔術師。
『渡り狼』を何度も救った、俺たちの恩人。
俺にとっては、憧れそのものだ。
彼女は一呼吸置き、視線をまっすぐドゥールへと向ける。
そして落ちたのは、冷えた水面に石を落とすような、静かで重い言葉。
──息を呑む間すら、与えずに。
「……塔ノワールとして動きます。
理由は一つ――予言が狂いました」
場の空気が凍りつく。
――――――――――――――――――
4
「発見されたのは、『未公開魔術遺産』──封印された禁制物。
塔はそれを『片秤のリスト』と呼称し、
『選ばれなかった未来を──『見せる』魔術』だと結論しました」
ドゥールの目が細くなる。
彼の中で、何かが警戒音を立て始めたのだろう。
「予言部門に大きな齟齬が出ました。
毎年数日のズレで済んでいた収穫期が、今回は完全に読めませんでした。
補正をかけても無意味。調整しても揺らぎが消えない。
……『人の手が届かない揺らぎ』が現実に現れたんです」
「つまり……?」
俺の問いに、クヴェレが真顔で答えた。
静かに、しかし確信を持って。
「前提が壊れた。
塔の予言予測部門は定点に杭を打ち、未来を測る。
だが、その杭を刺す定点、あるいは基点が、消えていた、ってことだろう」
ハーナが言葉を継ぐ。
「ええ。最初の基点からなくなりました。
それはまるで、定規で測ろうとした地面が、急に球状の液体に変わったようなもの。
触れても、すくえない。測っても、意味を持たない。
高位の人外や未知の魔術の干渉は、大抵収束します。
塔の術式は、多少の乱れなら吸収できる。
でも今回だけは、『補正の根』が刺さらない。
理が揺らぎを拒んでるんです」
「……理の外側に踏み出した……?」
「はい。『理解できない』じゃない。
『現実に作用してしまっている』んです。
未知、例外、未解明──そんな枠ですらもう足りない。
私たちが『名づけることで扱ってきた』全ての分類が通用しない。
『理解しようとする意志』そのものが、拒まれました。
それは、私たちが築いてきたすべてとは違う色相のよう。
破綻した数式を入力しているのに、完璧な答えだけが返ってくる。
論理は壊れてるのに、結果だけが確かに現実を変えている。
塔の定義では、『ハザードレベル:レッド』──最も危険な事態としました」
空気が一段と重くなる。
椅子にもたれながら、ドゥールが気怠げに口を開いた。
「つまり『誰かが未来にとんでもない爆弾投げた』ってことだろ?
壊れたのが未来ってだけで、塔の自尊心もズタボロか。
自分たちが測れないもんがあるって、最高に気に食わねぇだろうな」
ハーナは皮肉に乗らず、事実だけを告げた。
「震源はすでに特定されています。
『未公開魔術遺産』に『魔術斑紋』が確認されました。
その波形が、現れた揺らぎと完全に一致したんです」
「魔術の痕跡……ってことか?」
「はい。ただし『痕跡』というにはあまりに異質。
魔術斑紋は、魔術の大系や位相を示すだけのはず。
通常、それをもとに術者の追跡や種別の特定はできません。
けれど今回は──どれだけ解析しても『形』は読めても、『意味』がない」
「……つまり?」
「たとえば『時の領域のもの』か、『因果の系譜に属するもの』か。
本来はそういった『分類』ができる印。
でも今回の斑紋は、どれにも属していません。どの辞書にも該当しない」
ハーナの顔が硬くなる。
「しかし、贋作にしては、それは精密すぎる構造でした。
まるで、存在しない鍵を待ち続ける扉。
ひとつひとつが整い、美しく、どれも開かない。
開かれるはずのない形で。
だから、どこにも通じない。
この斑紋を我々は『解析不能領域』に分類しました。
つまり、今はもういない『高位の人ならぬもの』の証紋。
人間の証紋ではなく、今ある人ならぬものの証でもない。
昔、『人ならざる者が人に与えた術具』――未公開魔術遺産。
そのひとつが、『片秤のリスト』です」
重い沈黙が落ちた。
――――――――――――――――――
5
「二千年前の個人日誌に、その名が記されたのを確認しました。
『天秤を司るもの』が与えた、観察用の壊れた術具。
それを見た者には、『選ばなかった選択肢』が提示される。
言葉ではなく、『理解そのもの』として──」
俺は思わず息を呑んだ。
「……本来の選択肢に、なかった未来が見えるってことか。
『あの時こうしていれば』みたいな、後悔が?」
「ええ。でも、それが幻では済まないのが問題です。
まるで夢の中で、見たこともない誰かの名を『思い出す』ように。
知らない未来が、『当然のように理解できてしまう』。
それが『片秤のリスト』の魔術とされています」
──選ばなかった未来。捨てた夢。失った誰か。
それらが『本当だったかもしれない現実』として、胸を刺す。
一瞬で、いまの選択が『まちがい』に見えてくる。
「けれど──『選び直せる』のは、誰でも、という訳ではありません」
ハーナの声が鋭くなる。
「『捨てた選択』は、リストを見た者すべてに開示されます。
けれど『選び直す』権利を与えられるのは、詳細不明ですが、条件を満たしたものだけ。
他の誰も、いくら願っても、手が届かない」
「……不条理だな。見せるだけ見せて、選べるのは僅か。
それでも希望を錯覚してしまう。
あるいは、他人の未来を盗みたくなる──」
「……一人、うっかり見てしまった者がいました。
調査班の補助として訪問した塔の若い研究者。
彼は自分の指を見ながら泣いていたそうです。
『この手で、あの子を選ばなかった』と。
今はいない『あの子』の名を、当然のように呼んで。
過去にいたはずもない、誰かのために、世界を憎みました。
……それから数日後上長権限で彼が見た記憶を消しました。
彼は優秀な研究者です。そうしなければ、危険でした。
だからこそ、放っておけないのです。
『選択肢』が見える以上、それは誘惑になる。
そしてその誘惑は、『誰かを殺してでも自分が選ばれたい』という衝動に直結する」
──たった一瞥で、人は自分を裏切る。
それは救いにも破滅にもなる。
でも、一度でも疑えば、もう戻れない。
「『選び直せる』──過去に戻り、別の道を選ぶ。
……それがこの術具の本質です。
だから塔は、『ハザードレベル』を出しました」
その言葉が、胸に鋭く突き刺さる。
「未来を過去から塗り替えることができる。
運命を別の形でやり直せる。
そんなもん、たとえ悪意がなくても──それが世界に及ぼす影響は、計り知れない、だろうな」
クヴェレの想定に、喉がかすかに鳴った。
「……ハーナは、それを止めるのか?」
聞きながら、指先が冷えていく。
胸の奥に、目覚めかけた何かがいる。
選ばなかった未来。……俺には、あるのか?
もし『誰か』が立っていたら?
それでも俺は、今を信じられるのか?
「はい。塔は接収し、『封印』を視野に入れています。
ですが、それを世間に納得させるには、力だけでは足りません。
魔術銀行は『理と価値の仲介者』です。
塔は危険を測り、私たちは損益を計算する。
だから魔術銀行が窓口となるのです。
その両輪で、揺らがぬ形で処理するために」
「価値と理で釣り合いを取るってことか……
でもそれってつまり、『使う価値』を見たやつには、狙われるってことだよな」
「──ええ。だからこそ、先に手を打たなければなりません」
彼女は、変わらない。
冷たく、でもどこか、人の弱さに寄り添う目をしていた。
「……私は賭けたいのよ。
冷静な推論の果てにじゃない。
あなたたちの『選び方』そのものに。
あなたたちなら、大丈夫。
あの日すべて失った中で──それでも歩いたでしょう。
壊れても、止まらなかった。
私がその背を見たのは、一度だけ。
でも、焼きついて離れないわ。
……私は、そこに賭けているの。
万が一が起きても。
あなたたちなら『選び直し』の中でも、進む方を選べると信じられる」
そして、ほんの少しだけ声を落とす。
「人ならぬ者が口を挟んでくる可能性もあります。
石板を欲しがる者がいるようなのです」
「……駄目だ。この件は嫌な予感しかしねぇ。
ハーナ、あんたの借りは必ず返す。
だけど、仕切り直しさせてくれ。これは駄目だ」
「……ふぅん。ねぇ、ドゥール。
そう言って毎回のらりくらりと避けてきた結果が、
あの精算券じゃなかったかしら?」
「……だとしても、だ」
ため息をついてクヴェレが一歩、前へ出た。
「正直、世界平和だの正義だの──戦場で聞き飽きました。
どうでもいい。
でも。ハーナ、あなたには助けられました。何度も何度も。
……金になる。貸しも返せる。
だが、それだけじゃない。
次に、これだけ大きな構造に合法的に近づける機会があるかといえば──まずない。
足場が崩れる音を間近で聞けるのなら、それだけで一興でしょう。
請けましょう。ドゥールの説得は、私がします」
声の奥に金貨への期待が透けてると思うのは俺だけか?
「優秀な金庫番さん。いつも有難う。……今回も、お願いね」
仲間の背に、俺は目を凝らす。
本当に、これで良かったのか。
……良かったのかなんて、わからない。
でも、後ろがなくて引き返せないのも本当だ。
前に行く、しかないだろ。
――――――――――――――――――
6
先日、スティングス家の主が死んだ。
豪奢な遺産と、名ばかりの誇りを抱えたまま、誰にも遺言を遺さず、呆気なく──まるで吐き捨てるように。
生前、彼は魔術銀行と《遺産信託契約》を交わしていた。
相続前に遺産を銀行の管理下に置き、万一、危険物が混じっていれば、“法的に無効化”できる。
それが契約の骨子だ。
ちょうどその頃、塔ノワールから未公開魔術遺産の通達も重なり、銀行はその術具を協議対象から除外する手続きを始めた。
けれどその一手が遅かった。
案の定、スティングス家の血が騒いだ。
『中身を見せろ』『危険物でないなら、我々が受け取る』
──とある当主候補の娘は、鼻で笑いながら『“危険物”はあなたたちの方では?』と言ったらしい。
ハーナが笑った。目だけが、微塵も笑っていなかった。
危険物を相続した結果、翌日に一家丸ごと崩壊した事例もあるらしい。
術具は、相続された瞬間から、所有者に紐付く。
その時点でもう、すべての責任と恩恵は所有者のもの。
他の誰の命令も、保護も公的な手続きなしには届かない。
『相続されてからでは遅い』。
それが決め手となり、査定は正式に承認され、だから渡り狼が呼ばれたらしい。
しかしそれも条件付き。
遺産協議の前、屋敷の別室でのみ実施すること。
あくまで“査定”ではなく、“安全確認”。
そういう体裁でなければならなかった。
屋敷の門が、重たく湿った音を立てて開いた。
過去を引きずるようなその軋みは、沈黙していた時間を無理やり引き裂く。
俺達は『銀行員』の名札を下げ、トルティとハーナと共に屋敷の門をくぐった。
──魔術遺産の警戒任務を請けた、名ばかりの銀行員部隊だ。
イェーツ・スティングス。
老いた名家の主が晩年を過ごしたというこの館には、朽ちかけてなお、どこか威圧的な空気があった。
石塀には蔦。歪んだ金泥の窓枠。
庭木の枝は空を忘れて捻れている。
――時間と魔術の両方に見放された屋敷だ。
「……手入れされてねぇな。金だけあっても、愛がない」
クヴェレの声が、湿気を孕んだ空気の中に沈んでいく。
遺産を残した男は、いったいどんな想いでこの荒れ果てた館に身を置いたのだろう。
大広間の扉が、重く開く。
一歩、足を踏み出すと、空気が違った。
すでに何人もの来客が集まっていて、互いに血縁だと主張し、相手を睨み、距離を測っていた。
「また来たのか、血筋の端くれが」
「平等を語るのは、遺言が開いてからにして」
冷ややかな言葉が飛び交っていた。
しかしそれは一部にしかすぎない。
全員の視線は、ある一点に釘付けだった。
――広間の奥。
そこに、世界的にも知られる術具があった。
触れないよう、硝子ケースに入れられた黒曜石のような石板。
その表面に浮かぶのは、沈み込むような文字の連なり。
見つめるたび、石板は静かに息をするように文字を変えていく。
それは誰かの後悔だったのかもしれない。
あるいは、まだ名前のない執着だったのかもしれない。
あるいは──今も誰かを待ち続ける、呪いの胎動かもしれない。
上級魔術師ハーナの視線は、黒いレースのヴェールで見えないが、おそらく石板を見ないようにしているようだ。
だが
運搬役のドゥールも
補佐官役のクヴェレも
鑑定役のトルティも。
この場にいる誰一人、読めるはずがない。
なのに、誰もが読んでいた。
そして、全員が違う顔をしていた。
ある者は目を逸らし、ある者は泣きそうに目を見開いた。
……笑っている者もいた。あまりに自然に、あまりに壊れたように。
石板が見せるものは、一つきりではない。
まるで、無数の人生が石の奥でひしめき合い、順番を待っているようだった。
不思議で仕方ない。
俺にも読めないはずのそれが、なぜか読める。
目の前に、『ありえたかもしれない自分の人生』が、脈打つように浮かび上がる。
――『今朝羊乳を選ばなかった選択』。妙に生々しい違和感。
――『母と共に育った選択』。甘く、柔らかな檻。
脳裏を薄紗の天幕がよぎり、その文字が滲むまで見つめた。
それは、音もなく消えた。
――『補佐官となった選択』。影の中での栄誉と責任。
――『戦地を彷徨った選択』。自由と喪失。
――『父兄と共に歩んだ選択』。痛みと血で鎖に繋がれた死。
どれもが、俺ではない『俺』だ。
現れては、音もなく掻き消えていく。
「……別の選択など……!」
隣のメイが険しい顔で言葉を噛み潰した。
苦しげな声に、俺の呼吸が止まる。
お前には、何が見えたんだ?
「……これは、『片秤のリスト』じゃないか?」
誰かの声に世界が一瞬、息を潜めた。
会場内に密やかな会話が満ちる。
(選ばなかった未来が載る、天秤の反対側だったか?)
(古い童話に出てくる、有名な術具ね。――実在するの?)
黒服の男、トルティが一歩、前に出る。
控えめな銀糸の刺繍が、彼の身に〈責任と格式〉を刻むように織り込まれていた。
「私はアルゲンタリア東方資産管理・鑑定課、トルティ・トルティ」
その場に、名もなき沈黙が走った。
会場の片隅で何かが“見えない牙”を剥いているようだった。
「依頼主イェーツ氏の遺志に基づき、《片秤のリスト》の安全確認を開始します。
本日の見届け人として、塔ノワールの上級魔術師・ハーナ女史をお招きしています」
トルティの背後に、クヴェレ、メイ、ドゥール、そして俺。
『荷運び』の立場ながらも、耳と目は鋭く開いていた。
少し離れた位置に、寡黙な女――ハーナ。
黒いレースのヴェールの奥。
黒いヴェールの奥から覗く瞳は、波ひとつ立たぬ湖面のようだった。
何も映さず、何も拒まない。ただ、そこに在るだけ。
彼女がそこに“居る”だけで、場の魔術濃度が凪ぐ。
熱も、冷たさも、干渉も――すべてが音もなく、彼女の存在に溶けていく。
「静粛に。遺書の開示はこの後すぐ行われます。
こちらの資産は、我々魔術銀行が別室にて確認いたします。
遺書の開示と整理が済みましたら、結果が出次第、ご報告に参ります」
――――――――――――――――――
7
トルティの指示に従い、ドゥールと俺は、硝子ケースごと遺産を慎重に隣室へと運び込んだ。
触れるたび、過去がざわめく。
指先から背骨へ、見えない声が忍び込んでくる。冷たい記憶の影が、胸の奥にゆっくりと灯った。
ハーナが扉を閉じ、術式を重ねる。
部屋が淡く震え、空間を流れる魔術が、静かに封じられていく。
「これより術具の安全確認に入ります。記録機器、稼働準備を」
トルティが静かに頷き、小瓶の蓋を開け、観測を解き放つ。そして、机上の遺産に手を伸ばした。
白手袋を嵌めた指先で、術具の表層を軽く叩く。
「……外観の傷、魔術の流出なし。保存状態は良好」
低く、淀みのない声だった。
無駄のない所作。熟練の手つきが、場を引き締める。
小柄な体からは想像できない重厚さで、トルティは硝子ケースを外した。
――その瞬間だった。
石板が露わになるや否や、熱のない風が室内に荒れ込んだ。
金属音が術具から軋むように鳴り、俺の胸――魔術膜のあたりが、焼けるように熱を帯びる。
部屋の魔術濃度が、一気に跳ね上がったのだろう。
体内魔術を少し強め、術具の干渉をはじくように整える。
「……ふむ。だが、これは……未公開魔術遺産にしては反応が軽いな。斑紋がとれるか?」
トルティが術圧計を取り出す。
戦場でも時折見かける、魔術圧と術流の測定器だ。
術具の隅々まで、順に読み取っていく。
「これは――反応がない……?」
そのときだった。
ガンッ、ガンッ、ガンッ!
遠慮のないノック音が、扉を叩きつけた。
「ご遺族からの横槍。緊急要請が入ったわ。トルティ、一時中断して状態保護を。レベル6で」
トルティは即座に硝子ケースを戻し、魔術で術具を覆う。
「レベル6、稼働しました」
ハーナが冷たく息を吐き、結界の一部を解除する。
扉を開ける新参者の動きには、どこか好戦的な笑みが混じっていた。まるで、勝負の匂いを嗅ぎつけた獣のように。
重い足音。現れたのは、派手な衣装と揃いのマントを纏った男女。
胸元に光るのは、見覚えのある紋章――『鑑定人の街』アツェンカ。
「我らはアツェンカの鑑定団。
ご遺族からの依頼で、第三の見解を提示に参りました」
「……アツェンカの? 連絡は受けていないが――」
「どうやら長男殿の手続きに不備があったようです。これが正式な依頼書です」
「……なるほど。確認した。
では鑑定のため、結界を閉じるが構わないかね?」
「もちろんですとも」
トルティが顔を上げた。
静かな目の奥に、わずかな笑みが宿っている。
再び結界が張られ、状態保護とともに、硝子ケースがもう一度外された。
――次の瞬間、新参者は生の石板を見て、口髭の下に笑みを浮かべた。
「なるほど……これは“可能性のリスト”ですね」
口髭の鑑定人が、得意げに笑う。
「百年前、大学が作ったこれは――未来の仮説だけを並べた、現実とは無関係な予測の羅列です。
片秤を名乗るには魔術濃度が低すぎる」
トルティが冷ややかに紙片を掲げる。
「だが、ノワール震源の中心は、ここだった。残骸では済まされない」
どちらが正しいのか、即答できる者などいるはずがない――だが、俺の胸に焼けつくこの熱だけが、ただ一つの現実だ。
「この石板は――“人間の限界”を測るために作られたものです」
眼鏡の鑑定人が口を開いた。
「観測魔術で可能性を切り出し、未来を統計化した結果。加工の痕跡もあります」
「加工? 君たちの“リスト”は、可能性を並べただけだろう」
トルティの声が静かに熱を帯びる。
「この石板には、誰かが覗き見た“ありえた世界”の記録がある。確信に近い視線の痕跡だ」
「断言します。選ばれなかった未来に、意味はありません」
「我々が知れるのは、現実に起きた“選択肢の結果”だけです」
トルティが一歩、前に出る。
「だがこれは――“誰の選択にもかからなかった未来”だ」
「人間が観測できる可能性の外。その存在こそが、この石板の異常性だ」
鑑定人たちは黙りこんだ。
――――――――――――――――――
8
張り詰めた空気を切り裂いて、ハーナは前に出た。
「両者、静粛に――中立を宣言します」
その声は、凍てついた鏡面を割るような鋭さを帯びていた。
「私はこの場の最高階梯位として、いかなる立場にも与しません。
ですが、誰であれ秤を偽りで傾けるなら、その腕を断つ――それが私の務めです」
一瞬の沈黙。
「『片秤のリスト』は、『可能性のリスト』ではありません。
一方が『確定しなかった選択肢の実録』なら、
一方は『確率上生じ得たが観測されなかった選択肢の予測』。
似て非なるもの。それを混同することは、虚偽と同義」
高位魔術師は多色の魔術を宿す瞳で、石板を見据える。
「よって――この場での鑑定は、中立の立場から保留とします」
全員が息を呑んだ。
トルティは静かにうなずく。
「鑑定は続けましょう。アツェンカの意見は審査に回します。
ただし――この石板の影響は強い。
遺族に欲する者が出てきていました。
すでに魔術濃度は『危険域』に達しています」
確かに、指先がわずかに痺れた。
魔術が空気に、耳鳴りのような震えを帯びさせていた。
「『可能性のリスト』であれば我々が保管するのが妥当です」
鑑定人の男が一歩、踏み出す。
「人の限界への挑戦。
我らのひたむきさを愛する高位の方々は喜ぶでしょう。
――格好の標本ですから」
「……標本とは言ったな。
だが、あれはどれも――ごく個人の領域だ」
静かに言ったのは補佐官役のクヴェレだった。
声に、冷たい刃が含まれていた。
「可能性を数えるだけなら、ただの観測者でいい。
けれど、痛みに立ち会うとなれば話は別だ。
見た未来に、血は通っているか? 後悔に、熱はあるか?
――それを問うのが、『秤』ってもんじゃないのかい?」
街の鑑定人はわずかに表情を曇らせる。
「ふん。ならば、『片秤』の重さを、証明してもらおうか。
その覚悟があるなら、秤を覗くがいい。
選ばなかった未来は、常に選んだ者に牙を剥く」
「それでは、『秤』の実証を進めます」
トルティは静かに宣言した。
手が襟の銀糸の刺繍を解き、宙に放った。
銀糸が弧を描いた瞬間、刺繍に仕込まれた倉庫が開き、曇天色の球体が宙へと転がり出た。
球体は、まるで夜の涙を封じたもののようだった。
術具を掲げると、場に問いかけた。
「全員、入室時に魔術誓約を結んでいます。
鑑定内容の口外は不可能です。
――ですが、これは魂の芯を抉る行為です」
魔術が、部屋全体を静かに圧していく。
空気が重くなり、音は壁の向こうに吸い込まれた。
「……誰か。過去を開示してもよい者はいますか?」
誰も、答えなかった。
呼吸さえ、止まっていた。
――――――――――――――――――
9
「我ら鑑定人には、未来を選ぶ資格がない。
ゆえに、“選ばれた者”の判断を以て、分岐を測るべきだ。……違うか?」
赤銅髪の鑑定人が言った。
口元は笑っていたが、目の奥には一滴も熱がなかった。
「……彼など、どうだ?」
指先が、俺を射抜く。
空気が、変わった。
時間がわずかに軋む。
周囲の目が、俺を測っていた。
「若い。蜂蜜色の髪に碧眼。血統も申し分ない。
魔術濃度も高い。反応は明瞭だろう。分岐の影響を測るには、理想的だ」
心臓が、跳ねた。
一度だけ、鈍く、痛みを伴って。
そのあとは息が吸えなかった。
肺が凍ったみたいに、ただ音もなく空気が逃げていく。
「……妥当な選択に思えます」
ハーナが言う。
表情にも声色にも、温度はなかった。
トルティが、無言で頷いた。
艶めかしい女鑑定人は、薄く微笑んだ。
「少年の魂なら、事足りる」
音が頭の奥で、鈍く弾けた。
事足りる――魂が、部品として。
ああ、俺は今、“そういうもの”として指差されたのか?
背骨に、氷の杭が打ち込まれる。
それが指先にまで伝わって、震えが走った。
「待て、それは――」
ドゥールの声が割り込む。
クヴェレも立ち上がりかけたが、ハーナの視線一つで封じられた。
あいつらは、ハーナと深い契約で繋がってる。
動けるはずがない。
言葉にならない何かが、喉の奥で暴れていた。
だが声にできなかった。
傭兵である俺は知ってる。声を出せば、消されるだけだ。
「……その子は、選ばれるべきじゃない。
俺は、それを許容できない。
……俺がやる」
その声が通ったのは、誰も言えなかったからだ。
メイだった。
一歩前に出ていた。
静かな目をしていた。
けれど、そこにあったのは炎じゃない――
刃だった。
俺を名指しした指を、斬り落とすように。
「へえ、異論を唱えるお前は、何を隠してる?」
鑑定人が皮肉を吐く。
メイはそれを正面から受け止めた。
「……その子は若すぎる。
映せる未来など、限られている。
秤の精度を測るには、足りない」
その声は静かで、研ぎ澄まされていた。
誰よりも、強かった。
「……本当に、それでいいのですか」
トルティの声が響く。
その沈黙のほうが、重かった。
メイが目を細めて、頷いた。
選択肢にすらなかった一手。
だから、全員が沈黙した。
声を上げれば、斬られる。
傭兵として、それは知っている。
けど今だけは――
それでも黙るしかなかった。
胸が、ざわついた。
視線の先にいるのは、ただの――『養い親』だ。
――どうしてだ。
なんで、お前が。
俺を庇って……そんなやり方で、盾になるんだよ。
おかしいだろ。
何かもっと、やりようは――
……お前じゃなくても、いいはずだろ。
――――――――――――――――――
10
術具が起動した。
球体が膨張し、像を叩きつけるように浮かぶ。
野盗の血塗れのナイフが、砂に突き刺さった。
女と赤子を捨てて、馬を駆けた。
『王子は死んだ』と告げ――
騎士は、勲章を受け取った。
夜は、誰よりも早く鎧を脱いだ。
肩に残ったのは、後悔だけだった。
だが、それは……『選ばなかった未来』だった。
映像の中で、メイは何も言わなかった。
ただ、拳を握っていた。
その様子を見ている現在の彼もまた、同じように黙していた。
「……これでいいだろ」
声には、何かを振り切った響きがあった。
……違う。俺の知ってるメイは、そんな……。
でも、これも――彼なのか……?
嫌でも、思い知らされた。
『過去を開示する』とは、見せたくない罪を測られること。
『未来を測る』とは――隠したい欲望を量ること。
アツェンカの鑑定人が首を振る。
トルティの手元の術具が、突如再起動した。
止めようとするが、止まらない。
あの女鑑定人が無理矢理、何かを操作している。
――高位のもののような、高慢な目で。
「まだ、『映せる』ものがあるよね」
「やめなさい!」
「やめろ!」
ハーナとトルティの叫びが重なる。
ドゥールが駆け出し、クヴェレが即座に捕縛陣を立ち上げた。
だが、もう遅い。
映像は、止まらなかった。
第二の未来が映る。
共和国の旗が、煙の中で揺れた。
馬が吠え、砦が崩れた。
戦場で赤子を喪った男は、仲間と共に剣を抜き、王に背いた。
血と灰の中に、理想の国を建てようとした。
だが夜毎、聞こえるはずのない赤子の泣き声が、耳を焼いた。
『……これが、正しかったのか?』
――誰も、口を開けなかった。
第三の未来。
地下牢の拷問台に横たわる、痩せこけた骸。
王妃の言葉を突き返し、赤子を預かることもなく、ただ信じたもののために沈んだ男の骸。
誰の記憶にも残らぬ反逆者。
孤独な死。――それが、最後のメイだった。
……こんな最期を、誰にも看取られず迎えさせたのは、誰だった?
どれも、破滅だった。
けれど否応なく――『メイの未来』だった。
誰も、声を出せなかった。
その沈黙を破ったのは、彼自身だった。
「……正しい道なんて、最初から見えなかった。
それでも、進むしかなかった。
俺には、それしかできなかった。……それだけだ」
あの目が、一瞬だけ、俺を見た。
焼けた鉄のような、冷たい光だった。
それは――覚悟。
誰にも触れさせない、選択の重さ。
メイの言葉に、胸のどこかがひしゃげる音がした。
俺が、今ここに立っているのは。
彼が、そのすべてを喪ってでも歩いた道の、その果てだ。
……ふざけるなよ。
これが罰?
それを覚悟と呼ぶのか?
こんな孤独な地獄を、ただの選択肢にするつもりか。
俺が動揺を見せれば、
彼の犠牲が崩れてしまう。
でも──
これは、正義じゃない。英雄譚でもない。
ただ、止められなかっただけだ。
……止めるべきだった。誰かが。
誰もが沈黙したまま、時が止まったようだった。
その静寂を破ったのは、トルティだった。
何度目かの術具停止に成功した彼が、押し殺した声で言う。
術具を勝手に使われた憤りが、視線に滲んでいた。
「……これで、十分でしょう」
術具を収めながら、声が微かに震えた。
再度、刺繍に円を描かせて、曇空色の球を倉庫にしまう。
空気が、ふっと緩んだ。
けれど、誰も動こうとはしなかった。
トルティが宣言する。
「分岐は常にふたつだった。
片秤のリストが差し出す『選ばなかった未来』に、間違いない。
もし可能性のリストなら、一つの分岐に複数の未来が示されるはずだからだ」
ハーナが静かに続けた。
「真物、確認。……これにて、本件は終了といたします」
その声音にも、ほんのわずか、揺れがあった。
はっきりとした声だった。
その瞬間、部屋の空気がざらりと変わった。
――――――――――――――――――
11
静寂が訪れる。
なのに空気にわずかな異音が混じった。
耳では捉えられないはずの、ひび割れたような感触が肌を撫でる。
――何かが、いる。
だが、誰もそれを直視できなかった。
赤銅髪の鑑定人は眉を寄せる。
「……おい、何故鑑定が終わったのに結界を解かないんだ?」
困惑の言葉に、ハーナはふと鑑定人たちに視線をやり、まるで関係のない雑談でもするように言った。
「今回の案件は『魔術師の塔』『魔術銀行』『鑑定人の街』との共同鑑定でした。
トルティは『鑑定人の街』の『魔術銀行』の銀行員です」
部屋の誰かが喉を鳴らした。
まるで気圧が変わったように、空気がひとつ沈む。
ハーナの声は、ささやくように落ち着いていた。
その問いは、清水を切り分ける刃物のように冷たい。
「さて。あなた方は――どちら様かしら?」
ハーナの最後の問いは、赤銅髪の後ろで魔術濃度をあげていく女鑑定人へ向いていた。
そこにいたのは、美の仮面を被った災厄だった。
肌は、人型をした不定形な波。
見るたびにかすかに歪み、形も色も定まらない。
銀の瞳は濡れていたが、その水に感情の影はない。
ただ、興味という記号すら欠けたその眼差しが、ひどく静かだった。
「……え、なにこれ。がっかりだわ」
声は妙に若く、乾いていた。
唇が動くたび、結界がひび割れていく。
「あーあ、期待したのになあ。
あたし、もっと滑稽な執着が見たかったの。
愚かで、足掻いて、壊れていくやつ。
大きく育った雷が小さな火花に溶けていくみたいな、さ」
彼女は結界を指でなぞった。
空間が悲鳴をあげて、魔術がざぶりと沸き返る。
「人間って、自分の信じた結果で壊れるでしょう?
あたし、それが好きなの。だって綺麗で醜いじゃない?
自分で選んだ顔で自分をほどいていくの。
壊れるときの顔って、不思議と彼に似るせいかしら。
――じゃ、失礼」
人ならぬ女が一歩踏み出した瞬間、圧が爆ぜた。
魔術が生き物のように急激に部屋を満たし、部屋と空気が悲鳴をあげる。
隣にいた赤銅髪の男が、何か言いかけたまま崩れ落ちた。
気絶――否、魂の芯を殴られたような、魔術濃度の暴風に呑まれた。
クヴェレがすかさず駆け寄り、彼の身体を拘束する。
手際は冷ややかで、容赦がない。
メイとドゥールは武器に手を当て、臨戦体勢で人外がいた方に向いている。
不意に、無表情のトルティが氷河より凍った息を抜く。
その呼気は、空気に別の律を刻んだ。
気づいたときには、風が吹いていた――感じ取れぬ、極めて微細な揺らぎが。
(……え?)
一瞬、視界と意識が“ずれた”。
まるで別の自分が、ひとつ後ろから追いかけてくるような感覚。
心臓が一拍、跳ねる。
――とん。
背中に、掌の感触。
拒絶でも、慈しみでもない。ただ、そこにあった。
――誰かが、意図もなく押したような、そんな圧。
足がもつれて、黒い石板に両手をつく。
表面が波打ち、光を呑み込む液体のように揺れた。
知っている。
さっきまで、俺はこの部屋のいちばん隅にいた。
それなのに――なぜ、ここに手が届く?
目の端に、トルティの顔が映る。
三面記事をめくるような目。
ただ、通過するように視界に俺が入っただけ。
「……ノート!?」
メイの声が遅れて届く頃には、身体の半分はすでに『向こう』へ沈んでいた。
飲み込まれる恐怖は確かにあった。
でも、それ以上に――
今日、いちばん傷ついた彼を、これ以上揺らしたくなかった。
「今朝の、ささいな選択を変えてくるよ。
だから、きっと大丈夫」
最後は、ほとんど呑まれた後だった。
伝わったかな。
――――――――――――――――――
12
片秤のリストに、こんなふうに引きずり込まれるなんて――そんな話、聞いていなかった。
闇の中に、無数の皿が浮かんでいる。
乗っているのは、俺が選ばなかった分岐たち。
どれもが、心を裂くように爪を立ててくる。
この天秤の領域では『選ぶため』に必要な情報が、一時的に与えられる。
だが、選択が終われば、その記憶は痕跡ごと消える。
これは、例外の、今だ。
すべてが見えて、すべてを選べる、唯一の時間。
枝分かれするように、秤の皿が幾重にも広がっている。
選び取らなければ、この場からは抜け出せない。
そういう魔術領域。ここで時は無意味だ。
ひとつひとつ、目を凝らして見つめる。
母のもとで成長するという選択。
それは、寵愛という名の檻。
母の傀儡となって国を荒らし、やがて母とともに滅びる。
父と兄のもとで育つという選択。
それは、国の力関係を崩すための駒となることだった。
傭兵団を失い、兄を手にかけ、父が斃れ、何も残らない。
国は他国の属国となり、俺は傀儡王として最期を迎える。
傭兵団を選ぶという道。
「国はごめんだ」と、渡り狼にしがみつく未来。
副団長の補佐官になったが、国の介入は激しさを増し、
やがて渡り狼の裏切り者として糾弾される。
報復と裏切りの代償の中で、誰からも理解されないまま、死を迎えた。
あの戦地で、俺は頭を出さず、すべてから隠れて生き延びた。
誰の隣で死ぬのも嫌だからと、選んだ孤独の道。
その果てには、誰一人隣にいない。
ただの生きる屍は、最後に誰かを庇って、ようやく死ねた。
また別の戦地では、子どもを庇った。
攻勢魔術に焼かれ、手足も、記憶も失った。
気づけば、母のもとで慰めの人形として生かされていた。
何もできない穏やかな日々――
その終わりに毒を得て、ようやく母の手から解放された。
襲撃された時、泣き声をあげなかった。
乳母は俺が死んだと思い、何の願いも抱かず、静かに果てた。
俺は名もなく、語らず、笑わず――
ただ、呼吸の果てに死んでいた。
選び直した先に待つのも、結局は無残な死なのか。
どの道を辿っても、違う死に様しか得られないのだとしたら。
その時、小さな銀皿がふと、微かな光を反射した。
今朝、いつものように羊乳を飲まなかったら。
昨晩、酔って帰ってきたドゥールからもらった──篝海王国産の果実水の瓶。
いつもであれば、団員のちびっこたちに渡していたそれを、気まぐれに、俺が飲んでしまったら。
……なぜだろう。なんの未来も見えない。
まるで強い魔術に晒されて、心の奥まで漂白されてしまったようだ。
それは、これまでに見た死に様より、もっとひどい未来があるということなのかもしれない。
……でも。
もし、ここに望みがあるのなら。
気づけば、手に果実水の瓶があった。
宴席で出されたものだろうか。体温を吸って、ぬるくなってしまっている。
辺りを見まわせば、傭兵団のいつもの部屋だった。
ぼうっと寝ぼけていたのか、今さっきまで何を考えていたのか、思い出せない。
夜の名残に、ようやく朝の白みが混じり始めたころ。
今日の洗濯当番である俺は、いつものように、作業前にちびどもへ果実水を渡そうとして──その瓶を手に取った。
……悪戯心がわいた。
母の気配がする、あたたかい羊乳を手放す。
封を切り、瓶に口をつける。
今日は、一度きりの母との記憶を手放して──『今』を、飲み干した。
飲み慣れない果実水の甘さが、歯の裏に残る。
幼いころ、誰かの祝いにだけ許された味。
一番欲しくても、いつも他の子の口に入った。
けれど、今日は違う。
俺が選んだ。俺だけの甘さだ。
それが、嬉しかった。……取り返しがつかないほどに。
馬鹿みたいだけど、『そう選んだこと』に、俺が責任を持つ。
――選んでしまったのなら、あとは、選び抜くだけだ。
封蝋が光った瞬間、クヴェレのおっさんの声が爆ぜた。
声だけで青封筒の意味を、全員が悟った。
「出たァ!篝海王国名物、極秘依頼の青封筒!」
赤の灯台を象った篝海王国の封蝋。
青封筒のそれは、金貨と危険の招待状だ。
篝海王国ヴァナスリア――六花地方、南の貿易大国。
いや、南の覇者というか、南の狂犬だ。
策略と見栄を国境にばら撒き散らしながら、俺たちをこき使う上得意。
海と麦にアレルギーの奴でもない限り、皆大なり小なり縁を持つ。
小国が食糧飢饉になる程度なら、彼らのくしゃみにも及ばない。
魔術濃度が高すぎて、身体の弱いやつは王都の門で失神してしまうとか。だから国の役場の出張所が地方のあちこちに設置されている。
奴らは利害で動く。契約で刺す。
『命に見合う報酬』をちらつかせて、裏には地獄を隠してる。
靴底の泥程度の俺らが、見上げて良い相手じゃねぇ。
「あばよ干し肉!くたばれ洗濯石鹸!
乳絞り地獄とも今日でおさらばだァ!」
……片足跳ねの三三七拍子。砂漠の鼠が踊ってる。
牙を抜かれた狼みたいに、無邪気すぎて怖い。
あれが副団長兼金庫番だなんて、誰が信じるか。
背筋を撫でた冷気は、風のせいじゃなかった。
あの茶色い短髪の砂漠男が踊るときは、いつもろくでもない運命が笑ってる。
上顧客からの緊急依頼は天からの恵み同然だ。
攻略対象は、辺境のちょっとした砦。
クヴェレは一日で準備を終えた。
本隊と別働隊を再編し、若手の俺まで巻き込んで――渋る団長と、うんざり顔の精鋭メイ、それに見学組の孤児達を連れて、翌朝には出発していた。
運命は、躊躇なく甘さを奪いに来る。
──それでも、選んだのは俺だ。