第62話 連絡
悪夢のような大失敗の後、医務室へ運ばれた翠は、落ち着きを取り戻したところで、碧音に連れられて帰宅した。
翌日の部室に、二人の姿はなかった。
帰省中の人も多く、恵まれた部室の広さがむしろ寒々しい。
いちかの瞼の裏には、今も、ドレスの血のような赤さと報道陣のフラッシュが焼き付いていた。
元天才ピアニストが、久々に公の場で弾くとなれば、ただの新棟お披露目式よりは話題性は高い。
依頼は、初めからそれが狙いだったのだ。
そんなことにも気づかなかった自分を、いちかは殴りたかった。
あれでは、翠をわざわざ壊しに行かせたようなものだ……
何度もした後悔を再び繰り返していると、ポケットの中でスマホが震えた。
画面を見ると、碧音の名が出ていた。通話ボタンを押して耳にあてる。
「もしもし……」
「お前、翠と連絡ついてるか」
開口一番、彼は尋ねた。
「いえ、チャットも昨日から既読ついてないです」
「今、翠の部屋の前にいんだけど、いくら呼んでも返事がねぇんだよ」
「留守……?」
「いや、部屋の電気はついてる。気にしすぎだとは思うんだが、昨日のこともあって、なんか……」
普段からは想像もつかない、気弱な声色。
いちかの胃のあたりで、ザワッと何かが騒いだ。
「今から行きます」
血相を変えて動き始めたいちかに、他のメンバーも何事かと集まってくる。
結局その場にいた全員で、翠の家へ向かうこととなった。
◇
翠の下宿先は、正門前の坂を下った先にある、学生アパートの二階にあった。
道路まで出ていた碧音と合流し、翠の部屋前にゾロゾロと向かう。
呼び鈴を鳴らし、ドアをしつこく叩いてみる。が、碧音の言う通り返事はない。
全員でアパート裏の空き地に回り、部屋を見上げてみると、閉まっているのはレースカーテンのみで、奥からはシーリングライトの光源が透けて見えていた。
「石でも投げてみる?」ゆうゆが一同に提案した。
「そんな小学生みたいな……」
「あら、お客さんがたくさんいるわねぇ」
突然聞こえた年老いた声に全員が飛び跳ねて振り向くと、老婦人が空き地を歩いていた。
還暦はとうの昔に過ぎているだろうが、足腰は真っ直ぐ伸び、ニコニコといちかたちを眺めている。
全員が一律に――ゆうゆは口を手で抑えながら――お辞儀をした。
老婦人はアパートの敷地を横切ると、小さな倉庫の中に消えていく。
「あれって大家さんじゃないですか?」さくらが小首を傾げた。
「事情を話せば、鍵を開けてもらえるかも」美雪も同調する。
「あ、なら、俺っち聞いてきますわ」
前に出た隼人が倉庫まで歩いていくと、園芸用品を持って出てきたお婆さんに、何の気負いもなく話しかけた。
「こんちはぁ。おかあさん、ここの大家さんすか?」
「えぇ、そうですよ」
「入り口の花壇、めっちゃ綺麗っすね。ビックリしちゃいましたわ」
「あらそう?」
「やっぱ育てる人に似るんすかねー。俺っちもこのアパート住みたいっすわぁ」
「女性限定よここ」
年齢も性別も違う初対面の人間と会話をよどみなく続ける。
一同は最初こそ、尊敬の眼差しで隼人を見つめた。が、次第に話の長さに辟易としてきた。
いつになっても本題に入らないのだ。
もう任せておこう、と他のメンバーで翠の部屋前に戻り、ダメ元でもう一度呼びかけをしていると、ようやく隼人も帰ってきた。
彼はお菓子のパックを持ち上げた。
「ネギ味噌煎餅もらいましたわ」
「は? 鍵は?」美雪が冷たく突っ込む。
「あ」
「なにやってんの!」ゆうゆの金切り声が飛んだ。「今すぐもらってきて!」
「や、おばちゃん畑行っちゃった。車で……」隼人が申し訳なさそうに頭に手を置いた。「さーせんっ。でもネギ味噌っすよ?」
「あおくん、合鍵は持ってないんですか?」
さくらの視線を受けた碧音が、苦々しげに首を振った。
「さすがにねぇよ。実家ならあるかもしれねぇけど」
「警察、呼ぶ……? もしかしたら一刻も早い方がいいかもだし……考えたくないけど」
ゆうゆの言葉に、全員の頭を冷たい想像が覆う。
春が近づく世界の中で、この七人だけが別の季節を生きているようだった。
一同が沈黙していたそのとき、いちかのポケットから再び着信が鳴り響いた。
「あっ!」いちかは画面を見て声を出すと、スピーカーモードで通話に出た。「翠さん⁉」
「ごめーん、着信気づいてなかったぁー」
聞き慣れた声がアパートの廊下に響き渡る。
碧音がいちかの横から怒鳴り散らした。
「お前今どこにいんだ! 連絡も寄越さねぇで!」
「わっ、ごめんごめん。ちょっと今実家に向かっててさ。急遽決めたから、忙しくって」
いつもと変わらない明るさで、謝罪する。
どうやら彼女は外にいるらしく、声の背後には車の走行音や駅アナウンスなどが流れていた。
「とりあえず連絡ついて良かったです」いちかが尋ねる。「いつまでそっちいる予定ですか?」
「あー、決めてないんだ。ごめんね」
翠が再び謝った。
彼女にしては、突飛な行動。しかし、何はともあれ、無事が確認できた。
部員たちがホッと顔を見合わせる。が、その中で碧音だけが、暗い顔をしていた。
「お前……先生に会うのか?」
「あー」翠の声が少し止まった。「うん。随分引っ張っちゃったけど、もうさすがにね。挨拶しないと」
碧音は何も言わない。ただ顔は白く、硬い表情をしていた。
「ごめん、バス来ちゃう。帰る日決まったらまた連絡するね」翠が口早に伝えた。「それじゃ、またね!」
電話は一方的に、ぷつりと切れた。




