第60話 演奏依頼
怜と美雪とのラーメン会の後、見事に高熱を発したいちかは、結局、丸二日休まざるを得なかった。
インフルエンザは陰性で、翌々日には平熱の範囲まで下がったが、まだ体の奥には氷が埋まってるかのような悪寒が残っている。
上着やダウンジャケットを何枚も重ね着し、マスクをつけて部活に出たが、火照ったダルマのような姿は、当然、他の部員たちに心配させた。
「もう一日休んだ方がいいんじゃない……?」翠が気遣う。
「あったかくしてるんで」いちかはくぐもった声で答える。
「そうは言っても、拗らせちゃうとまた――」そこで言葉を切った翠が、不思議そうに空中を嗅ぎ回り始めた。「んー? なんかニンニク臭くない?」
「すいません、鬼木家の健康法で……」
「おにきけ?」
「ぶちょーさーん」
翠が鬼木家健康法について問う前に、ゆうゆが背後から声をかけた。
「あのさぁ、昨日DMで演奏依頼が来てたんだけどさ……」
ゆうゆの言うDMとは、セルリアンジャズオーケストラ公式SNSに来るダイレクトメッセージを指している。
ゆうゆはSNS運用担当で、演奏会情報の投稿や、時たま来る依頼の受け付けをしていた。
翠は間髪入れずに答えた。
「受けましょう! コンボ? ビッグバンド?」
しかし、ゆうゆは複雑そうな表情で首を振る。
「ううん。その……翠一人に弾いてほしいって……」
部屋にいる人間が、一人残らず固まった。
「そ、それはどちら様から……」翠も狼狽を隠せないまま聞き返す。
「ここ」ゆうゆは床を指差した。「東央大学」
その後ゆうゆが説明したところによると、新中央棟の落成記念テープカットで、クラシックを演奏をしてほしい、ということだった。
翠は不思議そうに首を傾げた。
「でも、私学校からピアノのことなんて聞かれたことないよ。入試も別に一般だし」
「なんか、職員の人が合宿所の管理人さんに、翠がピアノ弾いてる動画見せてもらったんだって」ゆうゆが横から補足する。
「あぁ。ありゃ凄かったからなぁ」広大が後ろで能天気に述べる。
「断ろう」翠はキッパリと言った。「私、別にプロじゃないし。今の私より弾ける人も沢山いるし。もったいないよ」
「その言い分は、少し苦しいのでは……? 翠さんの経歴を知ることは簡単ですし」
さくらの意見に、芳樹もおずおずと頷く。
「というか、クラシック弾いてくれって時点で、バ、バレてると思います……」
そんなやり取りを横で聞いていたいちかは、ゆうゆに質問した。
「それって、いつ、何曲演奏することになるんですか?」
「んとねぇ。テープカットは三月二十三日で、弾くのは一曲だって」
あと十日ちょっと。
いちかは頭に計算を走らせ、ひとつの勝算を導き出した。
「……翠さん、この依頼受けませんか」
「えぇ?」翠の顔に戸惑いが走る。「でも……」
「人前に立つ絶好のチャンスだと思うんです」いちかは拳を握って力説した。「最近は長く弾けるようになってきたし、この依頼も身内のステージじゃないですか。いきなり外で試すより、いいと思うんです」
「うぅ……む……」
悩み始めた翠を、いちかは息をつめて見つめた。
心の扉を開けるためにはショックが必要と言ったのは結局ヤブ医者だったが、その言葉にはそれなりの説得力があった。
普段とは違う状況や負荷によって視界が開けることは、確かにある。
翠の腕は徐々に回復してきたとはいえ、完全に復調するまでにはどのくらいかかるのか。そもそも復調はできるのか。
合宿で示した彼女の才能は、圧倒的な表現力と技術力、そして個性があった。
非凡な彼女をもう一度発掘できるのは、恐らく今は、私たちだけ。
やる価値は充分にあるはずだ……
「あおは、どう思う……?」
翠が振り向いて尋ねる。
彼は、先ほどからトランペットの席で、腕を組んでじっと黙っていた。
が、目を上げると一言、
「……悪い話じゃねぇと思う」
「そっか……そうだね」翠は頷くと、全員におどけたようにガッツポーズをしてみせた。「私、やってみるよ」
いちかはホッと息をついた。そして、強く祈った。
この機会が、翠とセルリアンの光明になってくれれば――




