第3話 美しく、恐ろしい
結局――
翌日の部活にも、いちかの姿はあった。
アルトサックスのファーストとして指揮台のすぐ左の席に座り、外部コーチの中年女性を、他の部員と共にじっと見上げている。
この日、川西高校吹奏楽部は、音楽室で合奏に明け暮れていた。
音楽室据え置きのグランドピアノは廊下に追い出され、代わりに、狭い教室は総勢五十五名の部員と楽器で寿司詰め状態だった。
列と列の間隔は小劇場のように余裕がなく、パーカッションパートに至っては座るための椅子すら置けていない。
爆音と、熱気と、二酸化炭素だけが、この部屋のすべてだった。
「トランペット! Jのとこ音汚くなってたね。それ本番でやったらアウトだからね」
コーチが細い指揮棒を振って指摘する。
「はい!」
「あと、ユーフォテナー。Kのメロディー、もっと歌えるって。泣かせにきてよ」
「はい!」
部員たちの返事は、まるで犬が噛み付くかのよう。
情熱の炎を目に宿らせ、誰も彼もが楽譜にペンを走らせる。が、楽譜はこれまでの書き込みで既に真っ黒になっていたので、その行為はほぼ気持ちの問題に過ぎなかった。
「一旦そんなもんかな。技術的には随分よくなった」コーチは指揮台に手を置くと、意味ありげに部員全体を見回した。「あとみんなに足りないのはね、団結だよ」
「はい!」部員が吠える。
「もっと隣の相手を聴いて、感じること。そうすれば音は変わるし、先輩たちの演奏も超えられるよ」
「はい!」
「じゃあ、十分間休憩! 残りの時間は気になったとこだけピックアップして終わろうか」
コーチの一言で、まるでスイッチが切れたように、部屋のあちこちで一斉に呻き声が上がる。
先ほどまで楽器の音色でいっぱいだった音楽室は、いっぺんに笑い声や話し声に満たされた。外へ出ようと立ち上がる生徒もいれば、椅子から崩れ落ちる部員もいる。
喧騒の中で、いちかもようやくホッと息を吐いた。ずっと気を張っているのは、さすがに疲れる。
そのとき、
「先生っ」
ドア横を陣取るドラムセットの真ん中から、真っ白な手が挙がっていた。
「はい、白上さん?」
立ち上がったのは、ひとりの華奢な女子生徒。
パーカッションパート三年の白上美雪。彼女は吹奏楽部の部長であり、川西高校の誇る美しい華でもあった。
部長としての範を示す、校則を遵守した身だしなみを徹底する彼女は、男女問わず多くの視線を惹き付けるほどの容貌の持ち主だった。
純白の肌の上に咲く紅い唇は、まるで新雪に落ちた牡丹のようで、微笑まずとも人の心を奪ってしまう。
深窓の御令嬢とはかくやと思われるこの見目麗しい少女は、しかし、部員たちにとっては恐怖の対象だった。
美雪は、コーチに真っ直ぐな視線を向けて言った。
「もう一度、合奏できませんか?」
途端に、部員たちの緩んだ空気にさっと緊張が走った。
「え、通しってこと?」コーチも驚きの表情を浮かべる。
「はい」
「でも、今日はもう散々吹いてるしなぁ……」
「お願いします」
美雪が真摯に頭を下げると、コーチは口を尖らせ、長考し始めた。
その様子を百八個の目が不安そうに眺めている。
誰も音を立てないために、空調の稼働音が耳を圧するようになってきた頃……
「よし!」コーチは決意したように手を叩いた。「じゃあ今から二十分休憩。その後もう一回だけやろう。本番だと思ってね」
「はい!」
美雪を筆頭に、部員たちが即座に返事した。
訓練された音楽の徒は、上からの指示に一切不満など漏らさない。
ただ、いちかだけは、美雪の鬼気迫る表情から目が逸らせずにいた。まるで、上官の指示に納得できない一兵卒のように。
◇
コーチからは『休憩中、一切楽器を吹くな』とのお達しがあった。
本番は、順番待ちの間に楽器は冷えてしまうし、口の感覚も戻ってしまう。その万全でない状態を先に経験しておくためだ。
各々が外の空気を吸いに行ったり、水を買いに出たりする中、いちかも席を立ってトイレに赴く。すると、既に数人の列ができていた。
女子が八割の吹奏楽部では、幾度となく見た光景だ。特に思うこともなく列の最後尾に並んでいると、洗面台の前に佇む生徒が二人、目に入った。
ひとりはトランペットの同期だった。もうひとりは彼女の後輩である一年生だ。
二人して鏡を覗き込んでいる。後輩の唇の状態を気にしているらしい。
「真っ赤だね。痛い?」
同期の顔は共感するように歪んでいた。
後輩は巻き込んだ唇をあらゆる角度で映して観察しながら答える。
「はい。やっぱ高い音は押し付けちゃって……」
「そうだよなぁ」同期は同情するように言った。「この後の通し、キツかったらオク下で吹いていいからね」
「えっ、いいんですか? 本番みたいにやるって」
「それで本当の本番で吹けなくなったら、元も子もないもん」
「お、怒られないですかね」
「大丈夫。ばれへんばれへん」
「そうですか……じゃあ、ちょっと下いきます」
「そうせえそうせえ」
個室がひとつ、ふたつと空いていく。
いちかの前に人がいなくなった頃にも、二人はまだ唇についた赤い輪の痕を気にしていた。金管楽器の苦労に思いを馳せながら、いちかは個室に入った。
その後の合奏で、結局、彼女は下げたのか、上げたのか。しかし、少なくともいちかの耳には違和感はなかったし、コーチからの指摘もなかった。
だから、それで良いのだと思った。
◇
「締めまーす‼」
副部長の郷中佳代が手を叩きながら大音声を発すると、部員たちは片付け中の楽器も置いて、続々と音楽室に集まってくる。
『締め』とは、部活終了時に連絡事項などを共有する、いわば帰りのホームルームのようなもので、招集がかかったらすぐに集まるのが部のルールだった。
この日も二分と経たないうちに参集した部員たちに、一枚のプリントが配られた。
地元音楽ホールへの地図を印刷したものだ。
「なんと、佐伯先生の頑張りにより、県の本番前日にマジでガチのホール練ができることになりました!」
佳代が大袈裟に発表すると「おおー」という歓声と共に拍手、「やるじゃん佐伯ちゃん」などという言葉が随所から上がった。
例年は県大会を越えないと行わないのだが、部長と副部長が前々からお願いしていたらしい。
佳代が説明を続ける中、
「ねぇ」
いちかの隣で、萌絵が密かに肩を突っついてきた。
「ん? なに?」
「明日、サックスパートでお揃いの何か買わん? 身に着ける系のやつ」
「あ、いいね。本番っぽい」
「おけ。ちょっと、サックス隊のみなさま?」
萌絵がメンバーに持ちかけようとしたとき、音楽室の前方では、話を終えた佳代に続いて、美雪が進み出た。
「少しだけ、今日の話をさせてください」
副部長のような声量はなくとも、彼女の淡々とした話し方には、自分に集中させる力があった。
特にその声が怒気を含んでいるときには……
「今日指摘されたとこ、前直したはずのとこばかりだった。これじゃ進んでないのと同じだよね」
直前まであれほど明るかったのが嘘のように、音楽室は静まりかえっている。
いちかは体感温度が少し下がったようにすら感じた。
「みんな、県は抜けて当然と思ってるのかもしれない。でも、私はこのままじゃ危ないと思ってる。特に今日みたいな演奏なら」彼女は思い出したかのように顔を顰める。「本番のつもりでやって、あれなの? 手を抜いてた人もいたよね、聞こえてたよ。それ、本番でもやるの?」
周りの部員は黙して受け止めている。どこかから啜り泣くような音が聞こえて目をやると、トイレで口を心配していたトランペットの後輩だった。
いちかの中に、ふつふつと湧き上がるものがあった。
丸一日の合奏で集中も体力も切れたところに、追い討ちのように追加された演奏が、うまく行くはずもない。
そんな当然のことが、彼女には分からないのだろうか。
美雪は部員たちの頭を眺め回すと、冷たい声色で告げた。
「明日は休みの予定だったけど、さっき先生にお願いして、音楽室開けてもらえるようにしました。休みたい人は休んでいいけど、でも、極力みんなにも来て欲しいと思ってる」
それ、ただの強制参加じゃん……
ついに口を開けそうになったそのとき、不意に肩を叩かれ、いちかは振り向いた。
すると、萌絵が例の酷すぎる変顔をしていた。
それは、不安になる程空気にそぐわない顔だった。
よく実行できたな――
笑うより感心してしまったいちかは、我に返ることができた。
過程はどうあれ、確かに作戦は効いたらしい。
「プファッ!」
萌絵の勝率百パーセントの変顔は、いちかの代わりに背後の数人に命中していた。
静かな音楽室に、吹き出した音が反響する。
「……何か面白かった?」
「いえ、すいません」
美雪がこちらに向けた眼差しは、凍りついていた。
美しく、恐ろしい。
冷たく、熱い。
まるで彼女は、呪われた宝石のようだった。
人々を魅了しながらも、触れてきた者を軒並み凍死させてしまう、美しきジュエル……
いちかは、美雪の冷酷な瞳がやはり苦手だった。
「全国に行く高校は、こうじゃない……」
最後の彼女の言葉には、悔しさが滲んでいた。
「本番まであと二週間。みんなで全力でやりきりましょう!」
「はい!」
部員たちは今日も飽きるほど繰り返した返事を再び一斉に返した。