第2話 金色のサックス
午前中まで雨降りだったからか、夕方頃には教室にも涼しい風が入ってきた。
職員室を出て、自分の席に戻ってきてからというもの、いちかは机の上に突っ伏したまま。
両耳には携帯から伸びた安いイヤホンが刺さっていて、シャカシャカと楽器の音が漏れている。
流れているのは、図書館で借りたジャズのCDだった。
アルトサックスが熱っぽい演奏をしているが、クラシックとポップスにしか素養がないいちかには、何をしているのかさっぱりわからない。
不意に教室のドアが開けられて、いちかを微睡から覚まさせる。
入口で仁王立ちしていたのは、テナーサックスを首からぶら下げた少女。
いちかの同期で、同じサックスパートの萌絵だった。
平均よりひとまわり小柄な体格に、肩を少し超えた髪を小さな束に纏めている。
少し焼けた肌と、体から溢れ出る快活さで、白地に青いラインの入った夏服がよく似合っていた。
首から楽器をさげていなければ、文化部員と見抜ける人は多くないだろう。
そんな彼女が、いちかの机へ近づいてくる。
歩くたびに、金色のサックスが夕日を反射し、川底のような光の模様を黒板の上に描いていた。
「何聞いてん」
彼女は断りもなくいちかの耳からイヤホンを引き抜いて、自分の耳に当てた。
「……何これ」
「ジャズ」いちかがぼそっと答える。
「ジャーズ⁉」萌絵は目を見開いた。「かっけー。ジャズわかんの」
「全然。図書館で見つけたからきいてみてるだけ」
「んだ、驚いて損した」
萌絵は脱力すると、いちかの前の椅子にドッカと座った。
「こっちは部活終わったけど、いちかどうする?」
「あぁ、うん。帰るよ」
答えながらも、いちかに動く気配はない。
萌絵はマウスピースのネジを弄りながら、おもむろに口を開いた。
「……んで、やめられたんか? 結局」
「いや」いちかは腕の中に再び顔を埋めた。「まずはみんなと話をつけろってさ」
「当然の答え」萌絵は鼻を鳴らす。
「でもさ、みんなに言ったら多分いろって言われるじゃん」
「そりゃそうっしょ。仮にもサックスの首席だし」
「でも……でもさ。もしまたついていけない事があったら、またなんか言っちゃうかもわかんない。私、自分に自信ない」
「ほぉ」
萌絵は聞いているのかいないのか、サックスを咥えてキーを動かし始めた。小さな缶の蓋のようなパッドが、パタパタと開閉する。指の運びを見ているだけで、自由曲のフレーズを練習しているとわかり、それさえいちかを責め立てているように思えた。
「……そもそも、私がついていけないのは私の責任だし。こんな奴がコンクールメンバーでいるくらいなら、きっと他の人がやった方が結果はよくなると思うんだよ」
「とりあえず、今から『でも』禁止ね。」
サックスから口を離すと、萌絵は呆れたとばかりに言った。
「んでさ、いいんでねーの? 色んな意見を持つ人がいて。機械じゃないんだから」
「でも……」いちかはいきなり禁止用語を踏んでしまい、口を閉ざす。
萌絵はチラッといちかを一瞥すると、肩をすくめてみせた。
「要は喧嘩しなきゃいいんしょ? んなら、またみゆきちの地雷踏みそうになったら、俺様がとっておきの変顔で止めてやんよ」
「何それ……どういうやつ?」
「ちょっとチューニングします」
顔を伏せて数秒。萌絵が披露した渾身の変顔は、地上波では流せないのではと思うほどで、いちかの絶対笑わないという覚悟は一瞬で挫けてしまった。
「プッ……アハハ! 萌絵、女捨てすぎ!」
「ちな、これあっぷっぷ勝率百パーね」同じように笑いながら萌絵は告げる。「今度なんか言いたくなったら、一回うちのこと見て。これで我に返らせるから」
「逆に笑って怒られそうなんだけど」
「ギスギスよりはいいじゃん」
「……まぁ、そうかも」
いちかが涙を拭っている間に、萌絵が席から立ち上がった。
「んじゃ、楽器片してくるわ。終わったら電話するから、どっかにいて」
「うん」
萌絵が手をひらひら振りながら出口へ向かっていく。
いちかは友人の後ろ姿に向かって声をかけた。
「……ごめん、ありがと」
「うぃ」
教室の時計を見上げると、六時半を示していた。
いちかは腕の下に隠していた退部届をしばらく眺めると、サブバックに無造作に突っ込んで立ち上がった。