第17話 真っ赤なシュシュ
実家の前に立つのは、数ヶ月ぶりだった。
玄関を開けると、居間からパタパタとスリッパを鳴らして、母が顔を出す。
「おかえりー。急に帰るっていうからお母さんびっくりしちゃった。どうしたの? 学校で何かあった?」
「ううん。楽器取りに来ただけ」いちかが首を振る。
「楽器⁉ また音楽やってくれるの⁉」母の顔が子供みたいに輝いた。「嬉しいわぁ、いっちゃんがやらなくなったら、めっきり聞く機会なくなっちゃったのよぉ。この前まさちゃんママに、一緒にコンサート行かないかって誘われたんだけど、でも知らない子ばっかりのとこに行ってもねぇって」
「あ、うん」いちかは話を遮り、気まずい気持ちで付け加えた。「でもその、ごめんね。今回は吹奏楽じゃないんだ」
「あら、違うの? 何やるの?」
「ジャズ……」
おずおずと告げる。すると、
「ジャズ⁉」
母は目を見開いた。
「やだ、いっちゃんジャズやるの⁉ カッコいい! お母さん会社員だった頃ね、お友達に連れて行ってもらったことあるのよ。なんだか大人になった感じがして素敵だったわぁ。あらぁー、いいわねぇー」
思わぬ食いつきように、いちかは虚を突かれた。もっと、残念がられると思っていた。
「その、大丈夫だった? 吹奏楽じゃなくて……」
「え?」
母は少し動きを止めると、玄関に佇む娘に呆れたように笑って言った。
「いっちゃんが好きなようにやればいいでしょ、お母さんの人生じゃないんだから。ほら、早く上がりなさい。ご飯できてるよ」
「……うん。ただいま」
◇
久しぶりに入った自分の部屋は、埃もなく綺麗にしてあった。
いない間も、母が掃除してくれているらしく、基本的には出た時とあまり変わらない。
ただ、部屋の隅には、いちかの見覚えのない物が増えていた。
弟の工作物や、両親の買って飽きたのであろうバランスボールや腹筋ローラー等々。
どうやらこの部屋は家族の物置と化しているようだった。
いちかが帰省した目的の物は、以前と変わらずタンスの上にあった。
椅子に登って引っ張り出すと、埃が顔に落ちてくる。
「ゲフッ、ゲフッ……酷い……」
丸一年放置されていた楽器ケースは、上部が埃で白く染まっていた。
ビニールでもかぶせておけば良かったのに、と今更思ったが、きっとそんなことにも気づかないほど、存在を頭から消そうとしていたのだろう。
蓋を開けると、指紋ひとつない綺麗なアルトサックスがいちかを見上げていた。
コンクール前日にひしゃげてから、修理に出され、そのまま寝かされ続けた、かつての相棒……
使用感のなくなったその姿からは、無言の非難が聞こえてくるようだった。
楽器ケースの小道具入れからは、茶色の紙がはみ出していた。
開けてみると、ポリッシュやクロスなどの手入れ道具の間に、小さな紙袋が乱暴に押し詰められている。
今日まで一度も思い出すことのなかったその品は、いちかを衝撃で打ちのめした。
紙袋を拾い上げ、震える指で中を開くと、出てきたのは真っ赤なシュシュ。
県大会の前にサックスパートの仲間たちがくれた、お揃いのグッズだった。
それはまるでタイムカプセルのように、いちかの前に、あの夏の空気や想いを蘇らせた。
罪悪感も、劣等感も、後悔も……
すべてがこの楽器ケースから溢れ出ている。
いちかは、思い出のシュシュを取り上げると、それで髪をひとまとめに結う。
ひとつの芯が通った気がした。
「今度は、逃げない……」
自分に言い聞かせるように、いちかは呟いた。
― 2ND CHORUS : 大学生活編 了 —
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