『魔法のプレスマン』
昔、貧しいけれど、速記に真面目な女の子がいました。もう、持ち物は、プレスマン一本しかありません。これを売ってしまったら、速記をすることができませんので、これだけは手放したくないのですが、もう、その筋書きが、目の前に見えています。もう、プレスマンの芯も買えないのです。
女の子は、森に行って、食べ物を手に入れようとしました。プレスマンを釣り竿にして魚を捕るのは無理でした。プレスマンを投げて鳥を捕まえるのも無理でした。プレスマンを短刀にしてイノシシを捕まえるのは、試しもしませんでした。結論は、プレスマンは、食べ物を手に入れる道具にはならない、ということでした。
女の子が、とぼとぼと、質屋に向かうときの気持ちを想像してあげてください。大切なプレスマンをお金にかえなければならないほどの貧しさ。命の次に大切にしてきたプレスマンを手放さなければならない悲しさ。
女の子が、質屋の扉を開けようとしたとき、一人のおばあさんが声をかけました。お前さん、プレスマンを持っているようだけど、速記をなさるのかい。私も長いこと、速記をやっていたのだけれど、もう歳をとってしまって、自分の書いた速記文字も見えなくなってしまってね。私のプレスマンを誰かに受け取ってほしいと思っていたのだけれど、もらっておくれでないかい。
女の子は、辞退しました。生活には困っているけれど、そんな大切なものをいただく筋合いがありません。しかし、おばあさんは、引き下がりません。それじゃ、お前さんのプレスマンと、私のプレスマンを交換するのではどうだい。
女の子は、少し不思議になりました。それだと、もらう筋合いがどうとか、考えなくてよくなりますが、交換してもらった直後に、質屋に行かなければなりません。おばあさんは、何を目指しているのでしょうか。実は、私の持っているプレスマンは、魔法のプレスマンで、芯が無限に出てくるんだよ。芯出ろ芯出ろとささやくと、芯が出てくるので、すぐに抜くんだ。抜かないでいると、芯が詰まってしまうからね。プレスマンには、芯が二本までしか入らないんだ。熟練してくると、一分間に三十本くらい、芯を出せるようになるよ。その芯で速記をするのもよし、芯を売って生活の足しにするのもよし、…芯を食べるのは、お勧めしないよ。おいしくないし、口の中が黒くなるからね。芯が出るのを止めたくなったら、反訳終了、といえば、すぐに止まるからね。わかったね。じゃ、これが魔法のプレスマン、お前さんのプレスマンをおよこし。それじゃ、ね。
女の子は、しばし呆然とするしかありませんでした。魔法のプレスマンって。そんなこと、あるでしょうか。芯出ろ芯出ろ。つぶやいてみました。するとどうでしょう、プレスマンの後ろの筒部分に、芯があらわれたのです。その芯を抜き出すと、次の芯があらわれました。その芯を抜き出すと、また次の芯があらわれたのです。女の子は、さっきのおばあさんを探しましたが、もう、どこかへ行ってしまったようでした。この、わずか、プレスマンから目を離した時間に、プレスマンには芯が詰まっていました。反訳終了。プレスマンは芯を出さなくなりました。ありがとう、おばあさん、これで暮らしていけそうです。
本当に暮らしていけるかはともかく、出てきた芯の分だけ、生活は楽になるはずです。女の子は、魔法のプレスマンを大切にしました。魔法のプレスマンだということも、誰にも言いませんでした。
しかし、女の子のお母さんは、この秘密に、ぼんやりと気づき始めました。よくわかりませんが、女の子が、プレスマンの芯を文房具屋に卸しているらしいのです。お母さんは、女の子の様子を監視しました。すると、プレスマンに何やら話しかけ、芯を抜いているところを見てしまったのです。お母さんは、女の子が寝ているすきに、プレスマンを持ちだし、芯出ろ芯出ろと言ってみますと、出てきました、芯。抜いてみました、芯。また出ました、芯。また抜いてみました、芯。百回くらいやっていると、疲れてきましたが、芯は、ずっと出続けます。しかし、休んでしまうと、芯が詰まってしまいますので、休むわけにいきません。夜が明けて、女の子が起きてきたころには、家中がプレスマンの芯で埋まっていました。女の子は、お母さんから魔法のプレスマンを受け取りますと、お母さんに聞こえないような小さな声で、反訳終了、とささやいて、魔法のプレスマンを休ませました。
教訓:これって、めでたしめでたし、ですかね。