高梨風里
数年前の夢ばかり見る。あまりにリアルで、しかも一度の睡眠で複数の時代をバラバラに見たりするため、目が覚めたときに本来の自分が『どこ』なのか一瞬わからなくなることがある。
アパートの白い天井が見える。僕は二十二歳、大学四年生の畝田良人として目覚める。夢じゃない、現実の僕だ。数秒間、寝ぼけて、ハッとなり上半身を起こす。
高梨風里が既に朝食を終え、着替えを済ませて出掛ける準備をしている。
僕は「おはよう」と声をかける。「ごめん、寝てた」
ここは風里の部屋だ。僕は風里と同棲しながら大学へ通っていた。過去形。卒論を完成させてからはほとんど足を運んでいない。
「おはよう」風里が僕に気付いて振り返る。「起こしちゃった? 寝てていいよ」
「いや、大丈夫。はは。風里が起きたのにそのまま寝てる方がどうかしてるよな」
僕と風里はシングルベッドに二人仲良く並んで寝ているというのに。
「ぐっすり眠ってたから。畝くん。起こすのも可哀想だし」
風里は僕を畝くんと呼ぶ。大学一年生の後期……生物関係の講義で初めて顔を合わせてからわりとすぐにそう呼ばれるようになった。思いっきり名字を参照している呼び方なので僕は白目を剥いた……と僕を知る者ならそう思うだろうが、僕は嫌な顔ひとつできなかった。風里は初対面からふわふわと柔らかい感じで、暖かなオーラを無意識に迸らせているような子だった。要するに好感度が高すぎて、なんと呼ばれようが親しくなりたいと僕にそう思わせる存在だったのだ。僕は綺麗系の明るいお姉さんタイプにときどきモテたが、風里みたいな可愛いタイプには全然モテなくて、その扱い方・対応の仕方もあまりわからなかったのですんなりとはいかず苦労したけれど、なんとか思いを届かせることに成功した。メチャメチャ可愛い。びっくりする。僕と相性のいい綺麗系にはそこまで感動できないクセに、相性的にそうでもないはずの可愛いタイプをここまで好きになってしまう原理ってなんなんだろう? 飽きや新鮮さ? ないものねだり? 今まで体験したことがなかったのでわからなかったけど、僕はこういう子の方がいいです。
まあ畝田という名字に関しては、風里相手じゃなくてもさすがにもう慣れた。慣れたというか、そもそも別に気にならなくなっていた。大学に入ってさらにもっと畝田畝田畝田と呼ばれ続けたのもあるだろうし、普通にもうどうでもいいやと思ったのもある。畝田って名字は格好よくないかもしれないけど、僕自身格好いいわけじゃないし、それで釣り合っているんじゃないか? 僕は畝田でしかないし、畝田じゃなかったら僕はなんなんだ? もう畝田でいいじゃんか……なんて、最初から畝田だったクセにそんなふうに思ったかは我ながらあんまり定かじゃないが、ただ単に、やっぱりどうでもよくなったってのが一番わかりやすいんじゃないかと思う。あるいは、好きな人に褒められたから。
「なんで『畝くん』かって? 『畝くん』って可愛くないー? 語感が。こう、うね~って感じで。ふふふ。嫌だったらごめんね? でも、柔らかそうで、柔軟そうで、いいと思うよー」
それだけで充分なのかもしれない。そんな風里は蛇を三匹も飼っている爬虫類女子で、僕の名字に蛇っぽさを感じたりもしたのかもしれなかった。それによって僕の印象がよくなったんだとしたら、マジで『畝田』は名誉挽回、よくやってくれた!今まですまん!って感じだった。
僕はベッドから降りる。
「風里、どこ行くの?」
「ちょっと大学行ってくる。卒論」
「おお、そっか」
風里は卒論、もうちょっと。分野がだいぶ違うので僕はあんまり手伝えない。
「お昼までには戻るね」
「わかった。気をつけて行くんだぞ?」
「はーい」
「そしたら俺は……そういうことならちょっと実家に戻ろうかな。もちろん昼までには帰るようにするけど」
「お昼過ぎてもいいよ」
「いや、大丈夫。ちょっと行くだけだし」
僕は芳日高校を卒業して、そのまま鷹座の鳥山大学へ進学した。つまり実家から余裕で通える距離なのだが、風里と付き合い始めてからはいっしょにいたいのでこちらのアパートの部屋に居座らせてもらっている。風里は鷹座からは程遠い中部地方の出身でアパート必須。ただ、鷹座の企業に内定をもらえているから、これからも鷹座で暮らしてくれるはずなのだ。当たり前だけど、僕は風里をお嫁さんにしたい。
風里が大学へ行くのを見送ってから、僕も部屋を出る。夏。皮膚を剥がさんとする日差しの中、自転車で地下鉄乗り場へ向かうのだが、正直もう気楽なもんだった。風里とは別の企業だけれど僕も内定をもらえているし、あとは鳥山大学を卒業するだけだ。なんならこの天国のような時間がずっと続いてくれてもいいんだけれど、そうも言ってられないし、そもそも社会人になるってのもそんなに嫌じゃない。早く生活力を得たい。自立したい。風里といっしょに生きていきたい。
芳日から地下鉄に乗り、八関灯で降りる。ここからは徒歩。億劫だけど、そこまでの距離はない。
鷹座の中では比較的のどかで、落ち着いた場所。田舎といえば田舎なんだろうが、もちろん田畑はない。ときどき自転車のおばちゃんとすれ違う。車がのんびりとしたスピードで向こうからやって来て、僕を横切っていく。
ぶらぶらと何かを考えるともなく歩いていると、「リョート?」と声をかけられる。
顔を上げると、道路の反対側のバス停で、懐かしすぎる千衿が手を振っている。正直、目視だと千衿かどうか判断がつかないんだけど、僕をそう呼ぶのは千衿だけなので、千衿なんだろう。千衿は白いワンピースを着ているが、線が細く、長いため、夏の気配も相俟って恐ろしいほど様になっている。
僕が手を上げると、千衿は道路を横断してこちら側へ来る。
「リョート。久しぶり」
「久しぶり」と僕も言う。近くで見ると、全然顔変わってない。化粧も上手くなったのか、余計に美しく見える。「バス、いいの?」
「いいよ。ちょっと用事があっただけだし」
「用事はいいの?」
「いいのいいの。せっかくリョートにばったり会ったのに、用事があるからまたねとはならないでしょ?」
「ならないか。用事の大事さによるけど」
「たいした用事じゃないよ。本当に」
「そっか」
僕は千衿を眺める。千衿は楽しそうというか、嬉しそうに笑っている。僕はどんな表情をしているんだろう。
千衿が訊いてくる。
「こんなところで何してるの?」
「ちょっと実家に行こうと思って」
「ん? 実家から大学通ってるんでしょ?」
鳥山大学に通っていることは教えてあったけれど……「そうだよ」と僕は嘘をつく。
「まあいいや。リョートくん、少し時間ありますか?」
「うーん……」実家に行くのをあきらめれば時間はある。そして実家へは別に今日行かなくてもいい。「ありますよ」
「そしたらちょっと休憩しようよ」
休憩といってももちろん不健全なそれじゃない。僕と千衿は町の小さな喫茶店に入り冷たい飲み物を注文する。中学生の頃には果たせなかったデートのやりなおしみたいで、でもあの頃の気持ちはなかなか再現できず、僕はちょっと居心地が悪い。
「この喫茶店、ずっとあるよな」
と僕はつぶやくが、聞こえなかったのか、あるいはスルーしたのか、千衿は「今どんな感じ?」と近況を訊いてくる。
「卒論完成。内定ゲット」
「完璧じゃん」
「あとは働くだけよ」
「おー」
「千衿は?」
衝撃の一言。「あたしは結婚するよ」
「ええ? もう?」
「もう」
「早くない? 相手は大丈夫そうな人なの? まさかあの厳つい人?」
笑われる。
「誰だよ、厳つい人って」
「はは。ほら、あのクリスマスにデートしてた……会ったじゃん?俺らと」
「ああ、あの人か」笑顔のまま、目を細める千衿。「あの人とはすぐ別れちゃったよ。別の人」
「まともな人なのか?」
「あはは。まともまとも。心配?」
「心配だろ。そんな早く結婚しちゃってさ。……デキてる?」
「デキてないよ。ただ、大好きなだけ。その人が」
「……ふうん」と僕は言うしかない。
「大好きだからできるだけ早くいっしょになりたい、っていうだけだよ。やばい人とかやばい状況じゃないから。心配しないで。ありがと」
「ならいいけど」
「ふふ。リョートはどうなの?」
「恋人いるよ、一応」
「わけあり?」
「わけなしだよ。でも結婚決まってるわけじゃないから」
「まあそりゃそうだろうね」千衿は一息ついてから、人差し指を立てる。「ひとつ、リョートに確認したかったことがあるんだ。ずっと」
「ふうん。俺もあるかも。千衿に確認したかったこと」
「せーので言う?」
「いや、それは絶対揃わないだろ」思ってる内容が同じだったとしても同じ言い回しにはならないだろうし。「千衿からどうぞ」
「えっとね……」千衿は飲み物で唇を濡らし、喉を冷やす。「中学んとき、リョート、あたしに好きって言ったじゃん? あれは告白だった?」
「…………」やっぱりそれか。でも、うん? 「好きって言ったのは千衿だろ?」
「あれ? そうだっけ? でもリョートも言ったよね?」
「俺も言ったけど。でも俺は『お前の方が可愛い』って言ったんだよ。最初はな」
「おー、そうか。よく覚えてるね」
「忘れられないよ」
「あたしも。ってあたしはうろ覚えになってたけどね」苦笑してから「あれは告白だった?」と再度確認してくる。
「そういうつもりじゃなかったけど、そういうふうに千衿が受け取ってくれてたらなと思ったことはあったよ」
千衿と付き合いたかった。でも、付き合うってのがどういうものなのか、あまりよくわかっていなかった。よくわからないものを推し進めるわけにもいかなかった。
「あたしはそういうふうに受け取ったけど? だから『好きだよ』って返したんだよ」
「……そっか」
「で、たしかリョートも『好きだよ』って言ってくれたじゃん? 言ってくれたよね? だからあたし達、これから付き合うことになったのかな?って思ったのに、付き合ってないっぽかったし」
「いやそれは俺も思ったよ。あ、付き合うとかじゃなかったんだなって」
「付き合いたかった?」
「そりゃ……ただ、なんかよくわかんないって気持ちもあったけど。千衿のことは好きだったけどな」
「あたしもリョートのこと好きだったよ」
「知ってる」
「バカだね」
「バカかな」
まあバカなのかもしれない。中学生だしね。告白もどきが不発に終わってしまったから、もう何もできなくなってしまったのだ。一度不発だったからもう一度告白をやりなおそうっていう発想がなかったのだ。もう二度とできない、やりがたいものなんだという雰囲気になってしまったのだ。勝手にそうしてしまったのだ。子供だったから。
「バカと言えば……俺、千衿のこと普通にエロい目で見てたから、もうそれで自己嫌悪でダメだった」
「いつ?」
「いや、中三ぐらいんとき」
「あはは。そんなの普通じゃない? エロい目で見るくらい。あたしもリョートのことエロい目で見るときあったよ?」
「マジかよ。女子のクセに」
「あー? 女子だってエロいわ。わかるでしょ?そのくらい」
「まあ」今となってはな。風里だってふわふわしているけど、ちゃんとエロい。好きな人が相手だからっていうのは前提かもしれないが、女子だってそうなのだ。「でもそんなの、中学んときはわからないし。千衿だって澄ました顔して、そんな片鱗少しも見せなかっただろ?」
「そりゃそうでしょ。恥ずかしいじゃん」
「はあ。なんだかなあ」
千衿はまだ続ける。
「あとさ、さっき言ってた、クリスマスデートのとき、あったじゃん?」
「うん。VVVIROWで鉢合わせたときな」
「リョート彼女連れてたじゃん。めちゃショックだったんだけど」
「あははは」と僕は笑ってしまう。「それは俺も! 千衿に男がいてショックすぎた! あと千衿に見られて最悪だったよ」
「あのあとさ、クリスマスだし、することになったんだけど、あたし無理だったもん。体も心も気分じゃなくて、帰ったよ」
「あは。ふ」
「んでフラれたし」
「そりゃ残念だったな」
「ふふ。リョートもおんなじ気分だったんだ?」
「そんな感じだよな」
あのときは圭衣のこともちゃんと好きだったはずだけど、やっぱり千衿のこととなると僕は平静を保てなかった。すごく好きだったのに、その気持ちをちゃんと注げなかった相手だから。
「バカだよね」
「…………」
本当はずっと告白しなおしたいと思っていたこと、言おうかどうか迷うが、黙っておく。僕にも千衿にも今現在、相手がいないんだったら意味のある事実かもしれないけれど、現状はそんなふうじゃない。
「でも今は幸せなんだろ? いい相手を見つけて」
「そりゃもう」と千衿は顔を綻ばせる。「リョートとどっちがいいかっていうとわかんないよ? でもリョートに対する好きは、もう終わっちゃってるから」
「そうだな」
終わっちゃってる。好きだったという記憶だけがあり、それはもう気持ちとして戻ってくることもなく、今はただ、昔好きだった人が目の前にいるという、それだけだ。
ドリンク一杯で過剰な時間を過ごし、僕と千衿は喫茶店を出る。昼までにまだ時間はあるけれど、実家に寄る余裕まではなさそうだった。
僕は再び駅の方へ足を向ける。千衿はまたバスを待つんだろうか?
「リョート」と呼ばれる。「再会した記念に、一回やっちゃう?」
「しないよ。はしたないぞ」
「冗談じゃん」千衿は涼しい顔をしている。「いま付き合ってる子、大好きなんでしょ? あたしのこと全然見てないもんね、リョート」
僕は肩をすくめる。「そうなるな。昔大好きだった人には、あんまり悟られたくない心情だけどな」
「いいねえ」
「千衿もだろ?」
「あたしもだけど」
「うん」
大好きで、その思いを上手く消化できなかったとしても、いずれは、いつかは曖昧になるのだ。そして他の人をちゃんと愛せる。僕も前に進めているし、千衿もそうだ。中学生の頃には聞いたこともない、想像だにしなかった千衿の下ネタ……そういう些細なことからも、変われていってるんだなと感じられる。「あ、そうだ。もうひとつ聞いときたいことがあるんだった」
「なに?」
「どうして初対面のとき、俺の名字について一切触れなかったんだ? まるで俺が名字で呼ばれるのを嫌がってることを、あらかじめ知ってたかのように」
「そんなの決まってるじゃん。わかんないの?」千衿は得意げに笑う。「字が難しくて読めなかったからだよ。今も読めないし。なんだっけ?リョートの名字って」
僕は爆笑してしまう。でも今なら胸を張って名乗れる。僕はもう大人にならなくちゃいけなくて、名字がダサいなんて小さなことにこだわっていられないのだ。それに、大好きな人が褒めてくれたものを、大切に思わないわけにはいかない僕なのだ。