歌舞伎町人体発火事件(5)
それからフィアは神代とともに神災対策本部を後にし、三鶴の指示どおり歌舞伎町に向かう。目的地までは三鶴が手配してくれたタクシーを利用する。
「フィア殿、現場到着までこの資料に目を通しておいてもらえるか」
「あ、はいっ!」
神代が手渡した資料にフィアが目を通す。それには、新宿で発生した人体発火現象について記されていた。新宿アルタ前で起きた事件を発端に、歌舞伎町で一晩に五人の男女が人体発火現象で命を落としたという。
「一晩で五人も……」
資料を読んだフィアの顔に陰が差す。
「昨日の男の人は無事だったのに」
「それはプロテクトを持つフィア殿が消火したから、大事には至らなかった故。亡くなった男女の場合、その場に我らがいなければどうすることもできなかったのであろう」
「そうなんですか……」
「事態は想像以上に早く進んでいる。今、手を打たなければ、神災のレベルが上がっていくだけであろう」
「神災のレベル……たしか、五段階に区分されるんでしたよね」
フィアは昨日、与えられたウイークリーマンションに帰宅後、あらかじめ三鶴から渡されていた神災対策本部におけるマニュアルを熟読していた。
十年前、千代田区の国会議事堂周辺で発生した第二級神災を発端に、東京では神によって引き起こされる災害――神災が発生している。
「東京のはずれには『神境』って場所があって、そこを境に人間と神様が分かれて暮らしているんですよね?」
フィアの質問に神代が首肯した。
「左様。本来、人と神の間には各々の世界で互いを侵すことなく暮らす、不可侵の制約があった」
神代の言葉どおり、東京はこの世界で最も神界と近い場所だった。そして、遙か昔から人と神の間には不可侵の制約が設けられている。それは、互いの領地で力を振るってはならないというもの。
だが、前述の第二級神災がきっかけとなり、神境を越えた神が人界で災禍を振りまくという事例が起きている。そのことを重く鑑み、東京都は秘密裏に神災対策本部を結成し、対処にあたっていた。
そして、神災は被害規模で区分づけがされる。
第一級神災……首都が壊滅する規模のもの。
第二級神災……一つの区が壊滅する規模のもの。
第三級神災……区の人口の半分が消失する規模のもの。
第四級神災……区の人口の数パーセントが消失する規模のもの。
第五級神災……区内の数名が死傷する規模のもの。
「今、歌舞伎町で起きている事件は、いわば第五級神災に相当するもの。だが、早く対処せねば規模が拡大するやもしれぬ」
神代が眉間にしわを寄せつつ言う。そんな彼にフィアが問いかけた。
「あの神代さん、一つ伺ってもいいですか?」
「うむ?」
声をかけられ、神代が隣に座るフィアに目を向ける。
「先程から持ってらっしゃる『それ』……、何ですか?」
フィアの言葉どおり、神代はあるものを抱えていた。抱えるほどの大きさの「それ」は、恭しく濃紫の布でくるまれている。
「本部を出るとき、夜宵さんから受け取ってらっしゃいましたけど」
「うむ。これはな、『泡沫の神器』というものだ」
「ほうまつの……、昨日もおっしゃってましたよね。たしか、それが収められているから神災対策本部は秘匿されてるって。あ、もしかして、すごく大事なものなんですか?」
フィアの問いに神代が首肯してみせる。
「左様。詳しく説明したいところだが、どうやら現場に到着したようだな」
「え?」
神代が車窓の外に目を向けたのにつられ、フィアも彼の視線を追う。すると、歌舞伎町一番街と記された巨大なアーチが視界に入ってきた。
それから神代とフィアはタクシーを降り、歌舞伎町へと降り立った。午前中という時間帯にも関わらず、この場所は喧噪で溢れ返っている。
「昨日のアルタ前もそうでしたけど、ここも人がたくさんですね……」
そう言ったフィアがなぜか不安げな表情を浮かべた。そのことを神代は怪訝に思う。
「いかがされた?」
「あ、え……と、昨日は人混みに流されて道がわからなくなっちゃって……。少し怖いかなって」
そう言った後、フィアはハッとする。
「す、すみません! 子供みたいなこと言ったりして。今日から大切なお仕事に就くっていうのに……」
それからしゅん、とした風情になった。今日から自身の補佐を務めてくれる少女を前にし、神代はふむ、とばかりに一計を案じる。
「え……っ?」
フィアが驚きの声を上げた。
「か、神代さん?」
「こうすれば自分と離れたりすまいよ」
不安がるフィアの手を神代は固く握ったのだ。神代にとっては、よかれと思いした行為だが、フィアは当惑しているようだ。そして、ポツリと一言。
「……子供じゃないんですけど」
「うむ? いかがされたか?」
「あ、いえ、何でもありませんっ」
それから神代とフィアは手をつなぎながら、現場に向かうことになった。向かった先は、昨晩五人の男女が人体発火現象で命を落とした場所だ。
雑居ビルが建ち並ぶ一角の奥まった道では、既に到着していたのか、数人の警察官が現場検証を行っていた。彼らは神代たちの存在に気付くと、一様に怪訝そうな顔を浮かべる。
「何だ? 君たちは。今ここで我々が現場検証しているのに、むやみに立ち入ったりしちゃいかんよ」
年配の警察官が威圧するような顔を向けてくる。だが、神代は少しも怯まず、彼に向かってあるものを差し出してみせた。
「ん? 何だ? これは……」
そう言いつつ、年配の警察官が眼鏡をかけ直し、差し出されたものをまじまじと見つめる。黒の手帳に目を通した警察官は驚いたように顔を上げた。
「じ、神災対策本部の神伎官……!?」
驚きの声を聞き、残りの警察官たちが怪訝そうな顔をこちらに向ける。
「どうしたんですか? 課長」
「しんぎかん、がどうだって……」
そんな部下たちに年配の警察官が慌てて説明する。
「神伎官っていうのは、東京都知事直属機関の職だ。世間ではあまり知られていないが、神災の対応をできる唯一の人間なんだぞ?」
説明を聞いた部下たちが驚いたように互いの顔を見合わせた。
「じゃあ、この現場の案件も……」
動揺する警察官たちに神代が朗々と告げる。
「左様。これより、この場は我々神災対策本部が引き受ける。貴殿らは疾く本来の仕事へ戻られるがよい」
「り、了解……!」
年配の警察官を筆頭に警察官たちは敬礼すると、この場から立ち去っていった。一部始終を見つめていたフィアが感心したように呟く。
「すごいですね、その手帳。水戸黄門様みたい!」
「みとこうもん?」
神代がフィアの言葉をおうむ返しに呟いた。
「えっ、もしかして知らないんですか? 水戸黄門」
「うむ。どこぞの著名な方かな?」
「テレビですっごい有名ですよ! わたし、再放送はいつも見てましたもん」
「テレビか。自分は必要以上に見ることはない故」
「は、はあ……」
フィアはまるで珍獣でも見るような視線を神代に向けてくる。それが気にならないではなかったが、今は最優先でしなければならないことがある。神代はある方向に視線を移した。それは先程まで警察官たちが現場検証を行っていた場所だ。雑居ビルに挟まれた道の行き止まりの地面には、焼け焦げた跡が広がっている。
「ふむ。ここで五人の男女が燃えていたのか」
神代は何とはなしに言うが、フィアは複雑そうな表情で口元を手で塞いだ。
「ここで人が……」
神代は身を屈めると、焼け焦げた跡に手を添える。
「神代さん?」
フィアが怪訝そうに声をかけてくる。
「済まぬが、少し静かにしてくれまいか。集中したい故」
「は、はい……?」
神代の指示どおりフィアは黙り、こちらの様子を見つめた。神代は地面に手を添えたまま、目を閉じる。そして、意識を「あるもの」を探し出すことに集中し始めた。地面からはさまざまなものが感じ取れる。人のいた気配、様々な匂い、そして――。
「……見つけた」
そう呟くと、神代は閉じていた目を開けた。それからゆっくりと立ち上がり、フィアに向き直る。
「お待たせした。神気を見つけ出すことに集中したかった故」
「神気……ですか?」
フィアは何か思い出したようにアメジストの目を見開いた。
「たしか昨日もおっしゃってた、神様の持つ気……ですよね」
「左様。この周辺には、まだ神気が残り香のように漂っている。それを辿れば、この神災を引き起こした神を見つけ出すことができるであろう」
すると、フィアが感心した声音を上げる。
「すごいですね、そんなことがわかっちゃうなんて」
尊敬にも近いまなざしを向けられ、神代はどこか居心地が悪くなってしまう。
「……まあ、自分は一応一等神伎官であるからな」
厳密には、そうではないのだが――。神代は心の中で付け加える。今はまだ本当のことをフィアに語るべきではないだろう。そう思いつつ、神代は隣に立つ少女の手を取った。
「ここから先は気を引き締めて参ろう。何せ、神を相手にする故」
「あ、はいっ!」
それからフィアの手を引きつつ、神代は神気を辿って歌舞伎町を歩いていく。
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