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神境での戦い(1)

 神境――人界と神界の境界である場所。ここは明らかに異質な空間だ。広くもあり狭くもあり、明るくもあり暗くもある。すべての境界があいまいで、普通の人間なら神境に入っただけで精神が激しく摩耗してしまう。


 神災対策本部長である塔屋時子は、ロキがゲームの場所として指定してきた神境に多数の自衛隊員とともに足を踏み入れていた。ここはまさに異次元の空間だった。距離感がまったく掴めず、視界も靄がかかったようにぼんやりとしている。


 現在地を確認するためのコンパスも、この場所では何の役にも立たない。


 それでも、東京に神災をもたらしたロキを討つ好機を逃すことなどできず、塔屋は半ば強行的に神境を進んでいった。


 時間の感覚もわからなくなるような不可思議な空間をどれほど歩いたときだっただろうか。先行して進んでいた斥候部隊の姿が突如消える。そのことに気付いた後方部隊の誰もが当惑しつつ、お互いの顔を見合わせた。そして、無線で斥候部隊に連絡を試みる。


「おい、一体どうした!?」


 返事は返ってこない。困惑する後方部隊、彼らを率いる塔屋時子。そして、この場の均衡を破るように悲鳴が上がった。ある方向を凝視しつつ、腰を抜かしている隊員に塔屋が声をかける。


「何があった!?」

「あ、あれ……」


 隊員が震える指先を向けた方向に塔屋も視線を向けた。


「…………!」


 塔屋は目を見張る。なぜなら、つい先程まで部隊を先導していた斥候隊員たちが見つかったからだ。だが、無残にも彼らは死体に成り果てていた。死体に気付いた後方隊員たちの間に激しい動揺が走る。


「な、何だ? いつの間にあんな……」

「一体、何の武器であんな死体になるんだよ!?」


 その言葉どおり死体はバラバラになっていた、まるで何かに食いちぎられたかのように。ともすれば、恐慌状態に陥りそうな後方隊員たちを塔屋が叱咤する。


「怯むな! 敵は恐らく近くにいる、武器を構えろ!」


 塔屋の指示に従い、隊員たちは各々手にしていた武器を一斉に構えた。それがわずかばかり経過したときのことだ。


「うわ……ッ!?」


 塔屋を守るように囲んでいた隊員の一人が悲鳴を上げる。小銃を構えていた彼の身体が何かに引き倒されたのだ。


「ぎゃあああああっ!」


 次の瞬間、断末魔がこの空間に響き渡る。突如起きた異変に反応し、隊員たちが悲鳴の聞こえた方に一斉に武器を向けた。


「何だ? あれは……」


 隊員の一人が呆けた声を上げる。彼らの前に現れたのは巨大な怪物だった。その姿はよく見れば狼に酷似している。狼の犬歯は真っ赤な血で濡れていた。つい先程、仲間の死体をつくり出したものの正体を隊員たちは知る。


「こ、こいつが犯人か……!」

「撃てええええっ!」


 隊員たちが狼に向け、手にしていた武器で一斉射撃を開始した。この空間に耳をつんざくような爆発音が轟き、閃光が走る。目標を鎮圧するには十分過ぎるほどの弾丸、時間を消費したはずだった。だが――。


「ま、まさか……」

「全然効いてないぞ!?」


 隊員たちが再び大きく動揺する。なぜなら、彼らの前に立ちはだかる巨大な狼には傷一つ、ついていなかったからだ。隊員たちの背後に控えていた塔屋も当惑の声を上げる。


「こ、こんな馬鹿な……」


 次の瞬間、狼狽する彼らを嘲笑うような声がこの空間にこだました。


「はははははっ! 君たち、僕の息子の相手にもならないね」


 その声を聞き、塔屋は本能的に全身が総毛立つのを感じる。


「誰だ!?」


 すると、いつのまにこの場に姿を現したのか、巨大な狼の傍にロキが立っていた。彼は慈しむように狼の毛並みを撫でる。


「つまらないな。僕はずっとここでトールを待ってたのに、来たのは君たちなんだもの」


 隊員たちが制止するのも構わず、塔屋が前方に出た。


「ロキ! 貴様、よくも私の部下たちを……」


 すると、ロキがおもしろおかしそうに笑った。


「ああ、あれ、君の部下だったの。この子にはいいオモチャになったよ」


 ロキは巨大な狼を見上げる。狼の双眸は怪しく光り、まだ獲物を狩り足りないと語っているようだ。そのことを悟り、隊員たちは皆、恐怖で身体を竦ませる。そんな彼らにロキが無慈悲に告げた。


「じゃあ、残りの君たちも、トールが来るまでの退屈しのぎになってもらおうかな?」


 ロキの言葉を合図にして、巨大な狼が前脚を一歩踏み出す。狼は獲物を食い殺そうと、まるで冥府の入り口のような暗いあぎとを開けた。


 塔屋時子は悟る。眼前の神とその眷属、そして自分たちの間には越えられない壁があるのだと。


 そもそも力の次元が違う。人も神と同様、最大限の武力を振るえるこの神境で、塔屋はロキと同じ土俵に立てると思い込んでいた。日本が誇る自衛隊の力を使えば、ロキなど簡単にひねり潰せると目論んでいたのだ。


 だが、実際はどうだ? 彼の眷属によって、塔屋の率いる自衛隊員たちは半壊状態に陥っていた。これではロキに指先すら届かないだろう。塔屋は今さら痛感する。これが神の力というものなのか――。


「知事! 危ない!」


 不意に背後から隊員の焦慮する声が聞こえてきた。塔屋はハッとすると、前方に視線を送る。すると、あの巨大な狼が眼前に迫っていた。


「あ……」


 塔屋はまるで何かに縛られたように身体が竦んでしまう。このままでは狼の巨大なあぎとに飲み込まれる。そのことが嫌というほどわかっていたが、指先一つ動かすこともできそうにない。


 狼は牙を剥くと、ゆっくり顔を塔屋に近づけていく。塔屋は数瞬後、巨大な狼の餌食になる様を夢想して思わず目を瞑った。そして、次の瞬間――。


『グアアアアアアアッ!』


 この空間に響き渡ったのは獣の苦痛に満ちた咆吼だ。塔屋は反射的に目を見開く。


「え……?」


 塔屋は呆けた声を上げた。なぜなら、眼前にこの場にいるはずのない人物が立っていたからだ。

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