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忍び寄る闇(3)

「……フィア殿、まだ戻ってこられぬな」


 神災対策本部で作業をしていた神代が小さく呟いた。それを聞きつけたのか、彼の隣に座る三鶴が壁時計に視線を向ける。


「あら、本当ね。フィアさん、第二庁舎にはよく行ってもらってるんだけど」


 時計の針はあと少しで午後五時を回ろうとしていた。


「まあ、エレベーターが混んでるのかもしれないし。もう少し待ってみましょ」

「うむ……」


 一旦は三鶴の意見に同調する神代だったが、先程から胸騒ぎがするのを感じていた。


 ――何だろう、こうも胸がざわつくのは。だが、三鶴殿の言ったとおり混雑に巻き込まれているだけやもしれぬし。


 考えを巡らせる神代だが、どうにも落ち着かず、かけていた椅子から立ち上がった。


「神代くん?」


 隣席の神代の異変に気付いた三鶴が怪訝そうな声を上げる。


「済まぬ、三鶴殿。フィア殿を迎えに行っても構わぬだろうか?」

「別に構わないけど、ちょっと心配し過ぎじゃない? ここで待ってれば……」

「いや、失礼する!」


 三鶴の言葉を途中で遮り、神代は急いで神災対策本部を後にする。その後ろ姿を三鶴が呆然と見つめていた。


 神代の待ち人であるフィアは、本庁舎を出てすぐ隣にある都民広場へ到着する。だが、広場へ出た途端、なぜか違和感を覚えた。


「あ、あれ……?」


 フィアは周囲をキョロキョロと見回す。普段なら都庁見学に来た観光客などが大勢いる広場は今、人がまったくと言っていいほどいなかった。だからかもしれないが、アーチ状の建造物に囲まれた空間は普段より広く感じられる。


「どうしたんだろ? 今日は。こんなに人がいないなんて……」


 思わず当惑の声を上げるフィア。そんな彼女に同行していた青年が声をかけてきた。


「……この空間は神力で封鎖させてもらったよ、お嬢さん」

「え?」


 フィアが反射的に振り向くと、青年がこちらを見据えている姿が目に入る。だが、彼の雰囲気は先程までとはまるで違っていた。人懐こそうな表情はどこかへ消え、底冷えのするようなまなざしを向けられていることにフィアは大きく戸惑い、その場から一歩後ずさってしまった。


「あれっ? やだなあ、そんなに警戒しちゃって。どうしたの?」

「あ、あの……」


 フィアの本能がけたたましく警鐘を鳴らしている。この青年は危険だ、と。


 ――さっきこの人、神力がどう……って言ってたよね。神力って、たしか神様が持つ力じゃなかったっけ……?


 さらに警戒を強めるフィアを目にし、青年が大仰に肩を竦めてみせた。


「あーあ、面倒だな。もうネタばらし、しちゃおっか」


 そう言うと、青年はスッと右手を前方に差し出した。すると次の瞬間、彼の右手上方にあるものが浮かび上がる。


「え……?」


 フィアは呆けた声を上げた。なぜなら青年が顕現させたのは、幾度か目にした黄金の果実だったからだ。


「ふふっ、ちゃんとこれに見覚えがあるみたいだね?」

「ど、どうして、あなたがそれを? だって、それは……」


 フィアは自身の声音が震えているのを感じる。フィアも目にしたことのある黄金の林檎――神代曰く、それを口にした神は正気をなくしてしまうという。


「どうして? って、これを創り出したのは僕だもの」

「…………!」


 今この青年は何と言った? 神をも狂わせる果実を創り出したとは、一体どういうことなのか? フィアはひどく混乱しそうになった。


 そんな彼女の内心など知ってか知らずか、青年は「さて、と」と言い、パチンと指を鳴らす。次の瞬間、フィアの足元から植物の蔓のようなものが伸び、彼女の身体を拘束した。


「きゃ……っ」


 突然のことにフィアは手足をジタバタとさせ、何とか拘束から逃れようとする。だが、縛めは容易に解けそうになかった。なおも抵抗しようとするフィアに青年が歩み寄る。そして、細い首を掴んだ。


「……いい気になるなよ、お前」


 背筋も凍るような声を青年が発する。


「え……?」


 氷よりも冷たい声を浴びせられ、フィアの身体が一瞬で恐怖に満たされてしまった。


「お前、随分トールと親しくしてるようだね? 何も知らないくせにさ」

「ト、トール?」


 どこかで聞き覚えのある名の出現に、フィアは必死に記憶の糸をたぐり寄せようとする。


「彼は本当ならお前ごときが近づける存在じゃないんだよ。くくっ、無知って哀れだねえ?」


 青年に侮蔑と哀れみを込めた視線を投げかけられ、フィアは身体が竦む。だが、それでも思考だけは止めようとしなかった。そして、あることに思い至る。


「トール……、トールってもしかして神代通さんのこと?」


 フィアが知る限り、「トール」の名を持つのは神代通、彼しかいなかった。ようやく自身の話題についていけると思ったのか、青年が楽しげに言う。


「大当たり。じゃあ、教えてあげるよ。彼はね、この僕とあるゲームをしてるのさ」


 フィアの頭上に疑問符が立った。


「ゲーム? ゲームって、一体何のこと?」

「おやおや。本当にお前、何も知らないんだね。あっ、トールに信用されてないんだ?」

「…………っ!」


 フィアは言葉に詰まってしまった。確かにフィアは神代のすべてを知っているわけではない。やっと今日、彼は何かをフィアに打ち明けようとしてくれていたのだ。なのに今、彼の秘密が得体の知れぬ青年によって明かされようとしている。


 ――いやっ、わたしは神代さんから、彼の口から直接聞きたい……! 


 かろうじて自由のきく目で、フィアは気丈にも眼前の青年を睨め付けた。


「……何、その目」


 フィアに睨まれた青年が不快そうな声を上げる。そして、掴んでいたフィアの首を締め上げた。


「……かはっ……」


 苦しげに呻くフィアを青年はどこまでも冷たい目で見つめる。


「本当、気に食わないね、お前。人間ごときがこの僕を睨みつけるなんて……。せっかくいろいろ教えてあげようかと思ったけど、もういいや」


 青年はフィアの首を絞める手にさらに力を込めた。


「……っ……」


 苦悶の声を上げることすら、フィアにはもうできそうにない。苦しさよりも悔しさから、フィアの瞳に涙が滲んだ。


 ――いやだ。わたし、このまま何も知らないまま死んじゃうの……? まだ何も神代さんから教えてもらってないのに……! 


 だが、フィアの命の灯火は消える寸前だった。助けを求めるでもなく、フィアはただ「彼」の名を口にしようとする。


「かみ、しろ……さ……」


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